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2021年05月15日号のレビュー/プレビュー

東日本大震災・原子力災害伝承館

[福島県]

《東日本大震災・原子力災害伝承館》(2020)を訪れた。当初は展示が撮影禁止だったことや、展示の方針に関して批判されていたが、現在は一部をのぞき、自由に写真を撮ることができる。建築はまあきれいなのだが、単純にミュージアムとしての内容が薄すぎるのが気になった。


《東日本大震災・原子力災害伝承館》外観


例えば、最初に見ることが強制される(=拘束される)導入シアターにおけるプロローグの映像。スパイラル状にスロープが展開する巨大な吹き抜けで建築の見せ場なのだが、投影される映像はスクリーンが大きいため、解像度が圧倒的に足りない。これならインフォ・グラフィックスのみで構成するか、このサイズにあった新規の映像をもっと撮影すべきだろう。しかも途中まで英訳があるのに、後半はそれがない。また空間が十分に暗転しないため、映像の効果が薄れている。こんな映像でも制作費にそれなりのお金をかけているのだろう。後に続く展示も万事がこの調子で、語り部と精密につくられた原発の模型をのぞいて、ここでしか得られない情報やモノがわずかで、やってる感ばかりが目につく。


導入シアターの巨大な吹抜け部分


精密な福島第一原発の事故模型


「原子力発電所事故直後の対応」における、明らかにエヴァンゲリオンを意識した文字を使った映像も小手先ばかりで、もっとちゃんとした内容がほしい。世界中に報道された原発事故の展示も、台湾とイギリスの新聞記事だけで、これをやるなら、何十カ国もの新聞を集めるべきだ。「長期化する原子力災害の影響」のパートは、展示デザインがばらばら。最後の「復興への挑戦」も、槻橋修が主導した白模型を置くが、周囲から見るべき展示物を壁の奥に入れているため、モノと空間デザインに大きな齟齬がある。


日本の原発事故が報道された、台湾とイギリスの新聞


昨年オープンした施設にもかかわらず、資料閲覧室は閉じており、隙間からのぞくと、どうも中身がまだそろっていないようだ。またカウンターで販売しているものも、真面目な本はほとんどなく、ゆるキャラの防災てぬぐいなどである。滞在時に館内で数名の外国人を見かけたが、わざわざ来てもらってこれしか情報がないことに申し訳ない気持ちになった。


ショップで販売されているのは、ゆるキャラ・グッズや防災てぬぐい


ニューヨークの《911メモリアル》は、悲劇から10年かかって、ようやくオープンにこぎつけたが、さすがに時間をかけて資料を収集した執念の展示であり、そこでしか体験できない場だったのに対し、同じ10年で福島はたったのこれだけ!?と思わざるを得ない。これくらいならネットでも知りうるようなコンテンツであり、むしろあまり知ってほしくないのではないかと邪推したくなる。ここは展示の反面教師として学ぶべきことが多い施設だった。


屋外に展示された、スローガン看板など



《伝承館》2階からの眺望


2021/04/10(土)(五十嵐太郎)

いわき市の建築と被災の記憶

「Next World―夢みるチカラ タグチ・アートコレクション×いわき市立美術館」展は、佐藤総合計画が手がけた《いわき市立美術館》(1984)の展示室だけでなく、吹き抜けに面した2階のホールやエレベータの横(マウリツィオ・カテランによるミニ・エレベーターを展示)、1階奥のロビーも活用する意欲的な企画だった。室内も、塩田千春やハンス・オプ・デ・ビークなど、国内外の勢いのある現代美術をとりそろえ、楽しめる内容である。特に印象に残ったのは、リチャード・モスによる凄まじい難民キャンプの風景や、ひたすら階段を使って上下、もしくは部屋を横切り水平方向に歩く映像をつなげたセバスチャン・ディアズ・モラレスの作品《通路》だった。


「Next World―夢みるチカラ」展、展示風景


続いて海岸沿いに向かい、《いわき震災伝承みらい館》を訪れたが、普通の公民館のように見えたので、津波で被災した建物の再活用かと思いきや、完全な新築である。最後は階段をのぼって上階から海が見えるというセオリー通りの空間構成だが、あれだけの災害を記憶する施設なのだから、もう少し建築のデザインにも力を入れてほしい。もちろん展示の内容や手法も、である。


《いわき震災伝承みらい館》外観



《いわき震災伝承みらい館》上階からの眺望


その後、南下して小名浜に移動し、市場や水産物の飲食店が入る複合施設の《いわき・ら・ら・ミュウ》を訪れた。2階の「ライブいわきミュウじあむ」が、311を伝える展示として紹介されていたからである。正直、キラキラネームのような施設名はどうかと思うし、展示のデザインはごちゃごちゃしていて素人っぽいのだが、それでもまさにこの建物がかつて被災し、それが復活して使われているという事実が重みを与えていた。気仙沼の《シャークミュージアム》における震災の記憶ゾーンと似たような位置づけの展示と言えるだろう。


《いわき・ら・ら・ミュウ》外観



「ライブいわきミュウじあむ」展示風景

すぐ近くにあるのが、やはり津波の被害によって、多くの生物が犠牲になった《アクアマリンふくしま》(2000)だ。日本設計が手がけ、湾曲する巨大なガラスに包まれた建築である。現在、被災の痕跡はまったくわからず、館の歩みを紹介する展示のみが伝えられていた。ともあれ、水族館は屋上から歩く開放的な空間において、環境展示を工夫しており、なかなかの力作である(ただし、大きな水槽を眺めながら寿司を食べられるというのは微妙かもしれない)。最後に別棟の《金魚館》に立ち寄ると、様々な自然の生物を見てきただけに、改めて金魚という存在がいかに人工的につくられた生物なのかを痛感させられ、それも興味深い。


《アクアマリンふくしま》外観



《アクアマリンふくしま》館内


「Next World―夢みるチカラ タグチ・アートコレクション×いわき市立美術館」展

会期:2021/04/03〜 2021/05/16(*5月16日まで臨時休館につき、会期延長を検討中)
会場:いわき市立美術館


2021/04/11(日)(五十嵐太郎)

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日立市の妹島和世建築群をまわる

茨城県日立市は妹島和世の地元ということもあり、いくつかの作品を現地で見学できる。例えば、独立して間もない1990年代の前半から、同市に拠点をおく金馬車という会社のパチンコ店のほか、その《旧・金馬車本社社屋》(1997)も手がけた。いずれも彼女らしい、ガラス張りの建築である。もっともその後、金馬車は倒産し、別の会社による合併を受け、本社が移転したせいか、建築は残っているものの、今年訪れた段階では《本社社屋》は使われていないように見えた。


《旧・金馬車本社社屋》


近年、公共的な空間として、妹島は《JR日立駅》(2011)のデザイン監修を担当し、SANAAの名義によって《日立市新庁舎》(2019)を設計している。前者は彼女が学生時代に使っていた交通施設でもあり、せっかく海が近いのに、それがまったく感じられなかったことから、車道を跨ぎながら自由通路を延長し、宙に浮いたガラス張りのカフェがつくられた。実際にここを使ってみたが、確かに見晴らしがよく、順番待ちが必要な人気の店舗になっている。また駅舎としてはめずらしく、妹島が設計したことをわざわざ明示するプレートが通路に掲げられていた。


《JR日立駅》の自由通路を延長してつくられたガラス張りのカフェ



《JR日立駅》構内のカフェからの眺望


《日立市新庁舎》が発表された際、同年に竣工した《日本女子大図書館》に付属する「青蘭館」や「警備員室」と同様、デザインの新機軸として、かまぼこ型のヴォールト屋根を使っているのが印象的だった。同キャンパスでは、続く「百二十年館」(2021)と「新学生棟」(2021)も、ヴォールトを共通のシンボルにしている。しかも、《新庁舎》は手前の広場において、そのモチーフをひたすら反復し、本体の建物よりも目立つ。雑誌の写真では、かたちが強すぎるのではという感じも抱いていたが、現地を訪れると、なるほど、周辺環境との関係がよく練られている。例えば、ヴォールトのフレームによって、隣接する家屋の風景を魅力的に切りとっていた。


連続するヴォールト屋根が印象的な《日立市新庁舎》広場



ヴォールト屋根の向こう側に位置するのが《日立市新庁舎》執務棟


ヴォールトという建築のヴォキャブラリーは、それこそ古代建築の重厚な組積造から登場しているが、これは地上からは見えにくい屋上面に補強材としてリブを設けることによって、見た目の薄さを探求している。ヴォールトをくり抜き、空が見えるパターンも興味深い。ヴォールト天井を反復した現代建築では、ルイス・カーンの《キンベル美術館》(1972)が有名だが、これはシンボリックな形態であると同時に、トップライトから光の拡散を意図していた。一方、妹島のヴォールトは、軽やかで開かれた広場をおおう屋根として、この形態に新しい解釈を与えている。


《日本女子大図書館》から青蘭館のヴォールト屋根を見る



ルイス・カーン《キンベル美術館》


2021/04/11(日)(五十嵐太郎)

ノマドランド

リーマンショックによって工場が閉鎖し、カンパニータウンのエンパイアがまるごと消滅し、家を失った主人公のファーンが、アマゾンの配送センターなどで期間限定の仕事をしながら、自動車でアメリカを転々とし、様々な人と交流する物語である。驚くような映画的な大事件が起きるわけではない。基本的に地味な作品だが、定住生活とは異なる、個人の生き方と思想を描いたものだ。ファーンは自分が「ホームレスではなく、ハウスレスだ」という。かつてアメリカのトレーラーハウスなどに影響を受けて、黒川紀章は、人々が移動する未来社会を提唱する『ホモ・モーベンス』(1969)を刊行し、カプセル宣言を表明した。現在、取り壊しが懸念される《中銀カプセルタワー》(1972)も、その延長に位置づけられる。

しかし、21世紀のノマドは、そうした若々しいイメージではない。圧倒的に高齢者が多い現状を伝えている(カウンターカルチャーの時代に若者だった世代ではある)。だが、彼らは貧しさゆえに追いやられた存在だとみなすのも正確ではない。それぞれの事情からノマドになり、土地に縛られない尊厳を抱く移動者たちは、一方でアメリカのフロンティア・スピリットを継承したかのようだ。本作の態度も、面白半分でホームレスに近づくような日本の表現とはまったく違う。

ファーンも、実姉や親しくなったデヴィッドから、一緒に住まないかという誘いを受けるが、あえて放浪の旅を続ける。彼女がノマド生活を始める前は、むしろ先立たれた夫との思い出が残るエンパイアにこだわって、ずっと暮らしていたことが判明すると、これが初めて自由になったノマド生活であり、新しい出発への区切りとなる旅だったことがわかる。またこの映画を魅力的にしているのは、ファーンが旅先で出会い、別れ、そして再会する人たちだ。こうした登場人物の実在感は強烈であり、まるでドキュメンタリー映画のようなのだが、最後のエンディングロールで役名と本名が一致しているように、俳優ではなく、実際の車上生活者が多数出演したからだ。

それにしても、韓国人移民の家族を描いた『ミナリ』(アカデミー賞の主要6部門にノミネートされ、ユン・ヨジョンが助演女優賞を受賞)や、『ノマドランド』(中国出身の女性監督クロエ・ジャオがアカデミー賞の監督賞を受賞)など、映画界におけるアジア系女性の活躍が目覚ましい。


公式サイト:https://searchlightpictures.jp/movie/nomadland.html

2021/04/16(金)(五十嵐太郎)

桐月沙樹・むらたちひろ「時を植えて between things, phenomena and acts」

会期:2021/04/17~2021/06/13

京都芸術センター[京都府]

「作品が内包する時間」は、どのように可視化されうるのか。木版画/染色という表現媒体や技法は異なるものの、この問いに共通して取り組む、桐月沙樹とむらたちひろによる二人展。副題に「between things, phenomena and acts」とあるように、元は樹木である版木の表面がもつ木目、「線を彫り足しながら刷る」という連作的行為、染料が布に「染まる」という現象、その時間の痕跡を示す滲みなど、マテリアル、現象、行為との相互作用によってイメージが揺らぎながら立ち上がる瞬間が交錯する。

透明感ある色彩の美しさが目を引くむらたちひろの染色作品は、大画面の伸びやかなストロークや、干渉し合う色の帯の重なり合いが、例えばモーリス・ルイスのようなカラー・フィールド・ペインティングを想起させる。作品に近づくと、浸透した染料が干渉し合い、境界線が滲み、両者が混じり合った「第三の色」の領域が出現していることがわかる。4枚のパネルで構成される《beyond 05》では、類似したストロークの反復のなかに、ロウによる防染のコントロールと、完全には制御不可能な物理的現象がせめぎ合い、反復と差異がイメージの豊かな変奏を生み出す。



むらたちひろ 展示風景 [撮影:吉本和樹]


桐月沙樹は、この「反復と差異、時間的連鎖」を「版画」というメディアそれ自体への自己言及的な考察へと展開させている木版画家である。桐月の作品の特徴は、1)版木の木目を、「緩やかに蛇行する線」としてイメージの一部に取り込むこと、2)「素材である樹木が内包する時間」の痕跡を示すその線の上に、「少しずつ線を彫り足しながら、刷り重ねていく」連作的行為、3)「物理的には同じ1枚の版木から、彫りの進度が異なる複数のイメージを発生させる」ことで、「版」と「複製性」の結びつきを批評的に断ち切る、という点にある。



桐月沙樹《dance with time》[撮影:吉本和樹]


その名も《dance with time》と題された出品作は、同じ1枚の版木から刷られた、計9枚の木版画で構成されている。1枚目から順に辿っていくと、木目が写し取られた黒い地の中に断片的な線やイメージが現われ、2枚目、3枚目、4枚目…と彫り足しては刷る行為を重ねていくうちに、成長する植物のように線が伸び、新たな芽吹きのように出現し、絡まるロープやリボン、木目を見立てた川面の上に浮かぶ人影や壺、カーテンのように揺らぐグリッドなどが姿を現わす。だが、繁茂する線は次第にその表面を浸食し、白い線が自己破壊的なまでに画面を塗りつぶしていく。変奏曲のような時間的構造とともに、「線を彫る」という行為が、イメージの生成と同時に消滅につながっていくという暴力的なまでの両義性が提示される。それは、「おぼろげな記憶が次第に像を結び、やがて忘却へ至る」という心理的メタファーを思わせると同時に、「表面に付けられた傷である」ことを文字通り可視化する。

同時にそこには、「複製」「コピー」「エディション」といった概念との結びつきを自明のものとする「版(画)」というメディアに対する、優れた反省的思考がある。通常は1枚の版から同一イメージの複製を生み出す版画において、物理的基盤である「版木」の存在は、写真のネガのように限りなく不可視化されている。だが桐月は、同一のものの複製・コピーではなく、差異・複数性を発生させる装置として「版」を用いる。それは言わば、「唯一のオリジナル」が存在しない「1/9」という版画のエディションを、「9/1」へと反転させる操作であり、「版木」に対する意識を顕在化させる。

この「版木」の物質性への意識は、本展において、文字通り「作品」化する試みとして新たな展開をみた。展示空間には、一見「ただの丸太」に見える3本の木の柱が直立し、あるいは床に置かれている。これらはそれぞれ、「先端の切断面を版木に用いた丸太」、「過去作品の版木を円柱状に丸めて再加工したもの」、「虫食いの跡が抽象的な彫りの線に見える丸太」である。人為的な加工を加えない自然のままの素材をファウンドオブジェのように「再発見」する行為、あるいは自身の作品に用いた版木を「再作品化」する行為が等価に並べられる。「素材自体や制作行為が内包する時間」というテーマが、新たな側面から光を当てられていた。



展示風景 [撮影:吉本和樹]



桐月沙樹《1/3020-3/3020 -3m2cmの版木より》 [撮影:吉本和樹]



*緊急事態宣言延長をうけ、5/31まで休館。


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教室のフィロソフィー vol.12 桐月沙樹「凹凸に凸凹(おうとつにでこぼこ)─絵が始まる地点と重なる運動―」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)

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2021/04/18(日)(高嶋慈)

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2021年05月15日号の
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