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2021年11月15日号のレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN ホー・ツーニェン《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》| YCAMとのコラボレーション

会期:2021/10/01~2021/10/24

京都芸術センター[京都府]

今春、山口情報芸術センター[YCAM]で発表されたホー・ツーニェンの大作《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》がKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN(以下KEX)で再び展示された。筆者はYCAMでの展評を執筆しているが、本稿では、「もしもし?!」というKEXのテーマの下で改めて見えてきた視座について述べる。

《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》は、日本のアジアへの軍事侵略期と重なる1930~40年代に思想的影響力を持った知識人のネットワーク「京都学派」を主題とした、映像とVR体験で構成されるインスタレーションだ。俎上に上げられるのは、日中戦争勃発、真珠湾攻撃前夜、迫る学徒動員の状況下で発表された座談会や講演、論考である。情報量も言うべきことも膨大な本作だが、ここでは、真珠湾攻撃の約2週間前、京都学派の気鋭の思想家4名による座談会を擬似体験するVRに焦点を当てる。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


オンラインでの対話や制作が増えたコロナ下において、KEXが掲げた「もしもし?!」というテーマには、目の前には存在しない他者への呼びかけ、不在の身体が発する声と隔てられた距離への想像力、そして応答の責任を、舞台芸術の根源に関わるものとして再考することが企図されている。それは、かつて日本が侵略したシンガポール出身のホーから発せられた問いに対して、現代を生きる私たちがどう対峙するか、でもある。

レコーダーがまだなかった時代、生身の肉体から発せられた声を書き留め、記録として残す役割を担ったのが「速記者」という職能だ。ヘッドセットを装着して座談会のVR空間に入り込んだ観客は、「記録」の担い手でありながらも「記録」そのものから排除・透明化されたこの「速記者」の身体と役割を担う。VR内で鉛筆を握る右手を机上の紙の上で動かすと、4人の思想家たちの声が聴こえてくる。ヘーゲルの歴史哲学の批判的乗り越え、没落したヨーロッパに代わって日本が主軸を担うべき歴史の推進力、戦争の道義的目的についての議論。一方、速記の手を止めると、速記者の大家益造が自らの中国戦線体験を詠んだ歌集から、凄惨な戦場の光景、反戦、京都学派への辛辣な批判を詠んだ短歌が聴こえてくる。降霊術の霊媒か自動筆記のように手を動かし、言葉を書き取らせ続ける「亡霊の声」。一方、手を止めても脳内に響くのは、忘却を許さず、悪夢のように苦しめるトラウマ的な声だ。

(擬似的に追体験する)目撃者であり、記録の担い手であると同時に、脳内で反発する別の声による批判的な相対化の眼差しのあいだで引き裂かれる体験を引き受けること。そうした複層的な矛盾をもって歴史に相対することの重要性を、「VR」によってまさに身体的に体験すること。そうしたプラクティスこそが、戦後日本社会という忘却の構造と負の記憶の健忘症に抗うものであることを本作は示している。


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2021/10/16(土)(高嶋慈)

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池内美絵「コサージュ」

会期:2021/10/12~2021/10/17

KUNST ARZT[京都府]

展示の妨害や中止を訴える攻撃や嫌がらせに対し、作家は「作品の制作」という本領でもってどのように応答できるのか。

池内美絵の《コサージュ》は、薄緑色の紙でつくった菊の花のコサージュを、リバティプリントの布で仕立てた上品な小箱に収めた作品である。花びらの一枚一枚には印刷された文字が見え、ディティールを引き伸ばした写真作品を見ると、「トリエンナーレ」「除外」「率直なご意見」といった文言がうかがえる。


この《コサージュ》の素材は、2019年秋、ART BASE百島での企画展「百代の過客」に池内が参加した際、あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」の騒動が飛び火し、展示会場に何者かが置いた抗議ビラである。「百代の過客」展には、「表現の不自由展・その後」の出品作家の大浦信行と小泉明郎が参加し、ART BASE百島の設立者であり自身も出品した柳幸典は「国家」の虚構性を問う作品群を制作してきたことから、同様に抗議対象となった。

また、抗議は池内の作品の「素材」にも及んだ。池内はこれまで、自身の排泄物、尿、経血、恋人の精液などを素材に、「汚物」「不潔」と見なす価値観を裏切るような、美しく繊細で宝物のような造形作品をつくってきた。例えば、《アリス》はミニチュア人形を飲み込み、排泄後、バラバラになったパーツを組み立てたものだ。純白の花の輪の《リース》の素材は精液の染み込んだティッシュであり、経血は砂糖と卵白を混ぜてスイーツやバラのアイシングに仕立てられる。宝石や高級スイーツのように美しい化粧箱に丁寧に収められたそれらは、むしろ「愛おしいもの」「大切な宝物」として聖別化されている。そこには、特に女性の身体に対して一方的に向けられる「美/醜」「不快」「隠すべきもの」という価値判断に対して、「誰が私の身体(の一部)を『汚い』と判断するのか」という抗議が込められている。

このように池内の過去作品を踏まえて改めて《コサージュ》に眼を向けると、「右翼の攻撃を、彼らが絶対視して掲げる『菊の花』に転換する」という毒のあるユーモアとともに、より本質的な反転の操作が見えてくる。つまり、排除の論理や排斥しようとする力それ自体を「排除されるべき対象」に反転してしまう。そのうえで、そうした「他者や異物の排除の論理」を自らにも内在するものとして見つめ直し、咀嚼するのだ。それは、理不尽な暴力に対する、作家の本分による痛烈かつ誠実な応答である。さて、抗議ビラの主はこの《コサージュ》を胸に飾るだろうか。



[撮影:高嶋清俊]



[撮影:高嶋清俊]


2021/10/17(日)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN 和田ながら×やんツー『擬娩』

会期:2021/10/16~2021/10/17

京都芸術センター[京都府]

「舞台上で行なわれる行為は、すべて擬似的な再現である」という演劇の原理を忘却・隠蔽しないこと。「儀礼」という演劇の起源のひとつへと遡行すること。この2つの秀逸な交点にあるのが、『擬娩』である。「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする」という実在の習俗「擬娩」を着想源とし、演出家も含めて出産未経験の出演者たちが「妊娠・出産を身体的にシミュレートし、他者の身体に起こる変容や痛みを想像すること」が、本作のコンセプトだ。本作のもうひとつのクリティカルな核は、手垢にまみれた「感動的な出産のドラマ」を消費することを徹底して排除し、「産む性」と切り離して「妊娠・出産」という行為を極私的に想像しようとする点にある。

2019年に初演された本作は、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMNにて、出演者と舞台美術のコラボレーターを大きく入れ替えてリクリエーションされた。初演の出演者は30代の男女の俳優・ダンサー4名だったが、今回は初演の2名(うち1名は声のみの出演)に加え、公募による10代の出演者3名が新たに参加した。また、舞台美術はメディア・アーティストのやんツーが新たに担当した。筆者は初演時のレビューを執筆しているが、大きく印象が変わったリクリエーション版について、本稿では、初演との比較を行ないつつ、大幅なアップデートが見られた点とジェンダーの視点からは批評的後退と感じられた点について述べる。


出演者たちが自身の身体的特徴を列挙しながら、「個体差」のなかに次第に第二次性徴(初潮の遅さ、生理不順)が登場し、つわりの症状の多様性へと展開していく。「私のこの身体」にフォーカスしつつ、同時に匿名性を帯びる語りの並置と集積が、初演の前半部分を構成していた。一方、リクリエーション版では、出演者たちはそれぞれ、起床、着替え、朝食、通学、授業や部活、家事や仕事、帰宅、入浴、夕食、友達への電話など普段の日常生活のルーティンを同時多発的にマイムで淡々と再現していく。一周目が終わると「妊娠検査薬のシミュレーション」が挿入。「陽性反応の線が出た」出演者たちが二周目、三周目を繰り返す日常生活が次第に変容を被っていく。「つわりによる吐き気でご飯が食べられない」「階段がきつい」「部活に参加できない」「頭が重くてテスト勉強に集中できない」……。「実際にはそこに存在しないが、『ある』と仮定して振る舞う」演劇の原理に、「妊娠による体調・体形・体重・知覚の変化」というレイヤーがもうひとつ加わる、秀逸な仕掛けだ。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


初演の出演者たちはプロのパフォーマーであり、嘔吐の苦しげなうめき声、膨れたお腹を抱えた歩行の困難さ、そして分娩の耐え難い痛みの表現は迫真的であった。一方、リクリエーション版の10代の出演者たちは、不快感や痛みを懸命に表現しようとするが、演技としてはぎこちなさや硬さが残る。だがその「懸命に想像しようとしているが、『リアル』に再現できない」ことのリアリティこそが、「演技としてのリアルさ」よりも『擬娩』という作品の核に迫るものだったと思う。「私に属するものであるのに、私の意思で完璧に制御できない不自由な身体の他者性」を否定せず、引きずったまま存在することこそが、「理不尽な身体的変容」としての妊娠・出産と通底するからだ。

ぎこちない身体を(文字通り)引きずる出演者たちとともに並存するのが、やんツーによる舞台美術=自動化された機械の運動だ。擬人化されたセグウェイが舞台上を徘徊し、「5人目の出演者」としてつわりや日常生活の変化を想像的に語る。ルンバが床上を旋回し、台車の上では臨月へ向かって赤い風船が次第に膨らみ、3Dプリンタが上演時間の90分をかけてゆっくりとリンゴの形を成形していく。舞台美術として効果的・多義的に作品に奥行きを与えていたのは初演の林葵衣の方だが、ドラマトゥルギーに回収されない「異物」と舞台上でどう共存するかという点から新鮮な投げかけを与えていた。

ラストシーン、初演では出演者たちは手枷をはめ、出産の国家的管理、生殖医療の高度発達や産業化、性暴力、「女性なら産むのが自然」という社会的圧力などを呪詛のように唱え続け、「管理と搾取と暴力と闘争の場」としての女性の身体をめぐる政治的力学へと一気に跳躍した。一方、リクリエーション版では、出演者たちは一列に並んで客席と相対し、「ははも ははのははも…そのまたははも はらんではるはらにはらはらしながらはるばるとつきとおか…」という言葉遊びの詩のような一節を唱和し、語感の軽やかさやリズム感も相まってポジティブな印象を残した。また、上演を通じて舞台中央にはスマホ画面を模したスクリーンが屹立し、つわりの症状緩和の検索に始まって、アドバイスのまとめサイトや出産経験を綴ったブログ、「#マタニティマーク」「#陣痛バッグ」などさまざまなハッシュタグが次々と表示され、痛みの緩和対策や便利アイテムなど妊娠・出産経験者からの膨大な助言が経験知の集合的蓄積として表示されていく。(何かに対して闘っているわけではないので「連帯」という言葉は適切ではないかもしれないが)それでもやはり経験知を共有する連帯的な場としてのネット=「現代の妊娠・出産」像を示していた。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


このように何重にもアップデートされたリクリエーション版だが、最後に、ジェンダーの視点から批評的後退と感じられた2点について指摘したい。上述の「擬人化されたセグウェイ」は、「妊娠・出産から最も程遠い存在としての、性別のない機械身体」という点でポストヒューマン的な視点を切り開いたと言えるが、「女性の声」で話すことの意味や必要性がどこまで考慮されていたのか疑問が残る。「産む機械」の文字通りの実装による批判性が見えてこなかった。

また、「クライマックス」としての分娩シーンを担うのは、初演時は男優であったが、リクリエーション版では女子高校生に変更された。日常生活の再現マイムで「鼻歌を歌いながら鏡の前で楽しそうにメイクし、付き合っている彼と一緒に下校」する彼女の振る舞いは、「シスジェンダーかつヘテロセクシュアル女性であること」を強く印象づけ、出演者のなかで最も「妊娠・出産の現実的可能性が高い」人物にあえて担わせた点に疑問が残る。「他者の身体に起こったことを習俗/演劇のフレームを借りて想像的に引き受ける」ことが本作の要だが、いったん(機械を含めて)限りなく広げた想像の域を、再び「自然的性」(と想定されるもの)に閉じ込めてしまったのではないか。例えば、分娩シーンを複数人でリレー的に分担する、いっそセグウェイに演じさせてみる、などの選択肢もあったのではないかという思いが残る。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]



関連レビュー

したため #7『擬娩』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年01月15日号)

2021/10/17(日)(高嶋慈)

庵野秀明展

会期:2021/10/01~2021/12/19

国立新美術館[東京都]

まず第一印象は、出し惜しみがないこと、また意外に撮影可能な展示物が多いことである。じっくり見ると、相当の時間を要する濃密な展覧会だった。全体は五章から構成され、第一章「原点、或いは呪縛」はかつて企画された「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」(2012)のような彼が影響を受けた作品群(ゴジラ、ウルトラマン、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダムなど)、第二章「夢中、或いは我慢」は少年時代からエヴァンゲリオン旧劇版までの作品を豊富な資料で展示している。注目すべきは、やはり学生時代の絵画や映像、そしてプロ初期の作品だろう。すでにこの時点から、あとで開花する庵野の作家性を確認できるからだ。続く第三章「挑戦、或いは逃避」は、実写の映画からエヴァンゲリオン新劇版までを扱い、第三章の巨大な模型が目を引く。第四章「憧憬、そして再生」は今後公開される「シン・仮面ライダー」と「シン・ウルトラマン」の予告であり、第五章「感情、そして報恩」はアニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)などの取り組みを紹介する。いわば、過去(第一章)・現代(第二、三章)・未来(第四、五章)という展開になっており、とてもわかりやすい。




第一章 展示風景



第一章 展示風景



第二章 展示風景



第三章 展示風景



第四章 展示風景



第五章 展示風景


もっとも、膨大な展示物に対する個別の解説はもっと欲しいし、テーマなどの設定がなく、第三者からの視点によるキュレーションはやや物足りない。もちろん、読みとるべきラインは無数に存在し、それは鑑賞者のリテラシーに委ねられる。ともあれ、ものづくりに関連する人にとって刺激的な内容であることは間違いない。個人的に一番感心したのは、最後のATACである。というのは、以前、「館長 庵野秀明 特撮博物館」展を見たとき、これは常設で存在して欲しいと思ったからだ。いずれ、そうした公立や国立の施設が誕生するかもしれないが、待っていては手遅れになるかもしれない。ATACは、アニメや特撮を創造する過程で生ずる中間の制作物や資料を文化として可能な限り後世に残したいという目的で設立され、円谷英二の出身地である福島県須賀川市と連携している。しかも、特撮博物館展の全国巡回が契機になったという。つまり、トップ・クリエイターが自らの原点となった過去の作品群への敬意を示し、その恩返しとしてアーカイブ事業を推進している。

2021/10/20(水)(五十嵐太郎)

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高岡で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき

会期:2021/09/14~2021/10/31

高岡市美術館[富山県]

今年は「ボイス+パレルモ」展や「ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ」をいずれも三会場で見るなど、巡回展を違う美術館で鑑賞することで、改めて空間の与える影響について考えさせられたが、山形美術館から富山に巡回した「高岡で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」展は特別な体験だった。キュレーションを担当した国立西洋美術館の学芸員、新藤淳氏に確認すると、これは正式な「巡回」展なのだが、あまりにも異例なのは、およそ2/3の内容が入れ替わることである。すなわち、地元のアーティストを絡めた第一章と第三章は、ほとんど違うものとなり、西洋美術館のコレクション史の形成を紹介する第二章のみが同じだ。もともとカタログは、上下に山形と高岡のテキストを並行させる構成であり、両館で展示される作品も紹介されていたが、高岡市美術館も訪れることで、ようやく完結したという充実感が得られた(両方見た人がどれくらい存在するか謎だが)。また上野ではなく、地方都市で西洋美術館のコレクションがどのように形成されたかを初めて知るというのも興味深い。


高岡市美術館


さて、高岡の第一章では、森鴎外による「西洋美術史」や「美学」の講義ノートのほか、これまであまり活用されていなかった富山県美術館が所蔵する本保義太郎の資料を導入しつつ、彼が憧れのロダンと実際に面会し、その直後ミケランジェロのデッサンを行なったエピソードなどを紹介していた。そして第三章では、パリ万博で通訳として活躍した高岡出身の美術商、林忠正を通じた西洋と日本の美術の邂逅、また彼が「西洋美術館」の構想をもっていたことなどをとりあげる。したがって、これは展覧会史を踏まえつつ、巡回展の枠組を再構築した知的な冒険であり、説明文の入れ方を含めて、今年もっとも大胆な企画展だろう。にもかかわらず、おそらく会場で鑑賞していたほとんどの人は、普通にコレクション展として楽しんでいた。こうした複数の層が共存する、ただならぬ異様な雰囲気をもつ展覧会であると同時に、日本から見た西洋、山形や高岡から見た西洋、もし過去の美術家がその後の未来を見ていたらどう考えるか、逆にわれわれが過去をどう見るかなど、さまざまな視角から空間と時間が隔てられた世界をどう想像するかを問いかけてくる。


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山形で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年09月15日号)

2021/10/24(日)(五十嵐太郎)

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2021年11月15日号の
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