artscapeレビュー

2021年12月01日号のレビュー/プレビュー

市川信也「2014 ni-ou-ichi-yon Ⅱ」

会期:2021/10/20~2021/10/31

ギャラリー イー・エム西麻布[東京都]

京都在住の市川信也は、精神医療の現場で医師として仕事をしながら、写真作品を発表し続けている。今回の個展では、村上春樹の小説『1Q84』に触発されて、公園の遊具を撮影したモノクローム作品25点を出品した。

市川は犬を連れて夜の公園を散歩していた時、『1Q84』に登場する天吾が、もう一人の主人公の青豆を公園の滑り台の上で待つシーンを彷彿とさせる光景を目にする。その場面を写真で再現することをもくろみ、懐中電灯で照らし出した遊具を4×5インチ判のカメラの長時間露光で撮影し始めた。それらの写真群は、2017年に京都のGallery Meinの個展で発表される。だが、それだけでは満足できず、中判カメラに赤外線フィルムを詰め、昼間にやや露出をアンダーにして撮影するようになった。それが今回展示された「2014 ni-ou-ichi-yon Ⅱ」のシリーズである。

市川はいつでも、しっかりとコンセプトを定め、的確な技術力を発揮して作品化する。その手続きが、今回もとてもうまく発揮されていて、完成度の高いシリーズとして成立していた。夜の公園には、イマジネーションを刺激し、遠い記憶を呼び起こすような独特の雰囲気がある。撮影場所や画角の選び方、露光時間の設定、プリントの仕方など細やかな操作を、手を抜かず、最後までやりきったことが着実な成果につながったということだろう。1990年代以来積み上げてきた市川の作品発表も、かなりの厚みを持ち始めている。そろそろ写真集にまとめる時期ではないだろうか。

2021/10/30(土)(飯沢耕太郎)

阿部航太『街は誰のもの?』

グラフィティは80年代前半ニューヨークで最初のピークを迎えたが、ニューヨークがジェントリフィケーションによって下火になるのと引き換えに、世界各地に飛び火していく。そのひとつがブラジルのサンパウロだ。この映画はサンパウロのグラフィティやスケートボードなどのストリートカルチャーを、デザイナーの阿部航太が追ったドキュメンタリー。

グラフィティを扱った映画は『WILD STYLE』や『INSIDE OUTSIDE』など、フィクション・ノンフィクションを問わず何本もあるが、違法にもかかわらず公共空間に書くことの意味を問うたり、依頼制作の合法的グラフィティ(それは「グラフィティ」ではなく「ミューラル=壁画」という人もいる)との違いについて語られることが多い。この映画も違法行為を繰り返すグラフィティライターを追いかけ、インタビューしていくなかで、タイトルにあるように、次第に街(公共空間)は誰のものなのかを問うようになっていく。ライターたちの言い分は、自分たちは無償で街を美しく飾っているのになにが悪い? ということだ。これはニューヨークでもヨーロッパの都市でも同じで、公共空間イコール自分たちの場所(だからなにやってもいい)という考えだ。実際、映画には路上で服や食べ物を売ったり、大統領に反対するデモを行なったり、地下鉄でギターをかき鳴らしたり、ホームレスが窮状を訴えたり、思いっきり街を活用している例が出てくる。

こういうのを見ると、やっぱりラテン系は騒がしいなと疎ましく思う反面、うらやましさを感じるのも事実だ。だいたい日本人は公共空間をみんなの場所(それはお上が与えてくれた場所)だから、自分勝手なことをしてはいけないし、自己表現する場所でもないと考えてしまう。だから、ゴミ拾いくらいはするけれど、街を美しくしようとか楽しくしようとか積極的に行動することはあまりない。これを国民性や文化の違いとして片づけるのではなく、表現の自由に対する自己規制や無意識の抑圧として捉えるべきではないかと思ったりもした。日本の街にグラフィティが少ないのは、必ずしも誇るべきことではないのだ。

さて、映画は後半以降グラフィティから離れてスケートボードの話に移るが、スケボーも同じストリートカルチャーではあるものの、とってつけたような蛇足感は否めない。映画としてはグラフィティだけでまとめたほうがよかったように思う。


公式サイト:https://www.machidare.com

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絵が生まれる場所──サンパウロ、ストリートから考えるまちとデザイン|阿部航太:フォーカス(2020年02月15日号)

2021/11/01(月)(村田真)

ほろびて『ポロポロ、に』

会期:2021/10/27~2021/11/01

BUoY[東京都]

何もしなければ現状が維持されるなどということはない。ほろびて『ポロポロ、に』(作・演出:細川洋平)は気づかないほどゆっくりと、はっきりとした理由もわからないままに取り返しのつかない状況へと落ち込んでいく人々と、その先でかろうじて結ばれる連帯を描く。

『ポロポロ、に』は大まかに二つの筋が交互に語られるかたちで進んでいく。上手にテントの置かれた舞台手前の空間ではジュンパ(浅井浩介)・エスミ(齊藤由衣)の兄妹とその友人のアクニ(藤代太一)がキャンプをしている様子が、舞台奥の洗濯機が並ぶ空間ではコインランドリーに居合わせた利用者のかか(はぎわら水雨子)とふあな(高野ゆらこ)、清掃バイトのいちき(和田華子)らの会話が描かれる。途中、ジュンパとエスミの住む家にアクニとふあなが結婚の挨拶をしに訪れる場面が挿入され、ふあながジュンパたちの姉だということは明らかになるのだが、それ以上のことはわからないままに話は進んでいく。


[撮影:渡邊綾人]


かかたちが利用するコインランドリーでは洗濯をするたびに何かがなくなるらしく、それを知っているいちきは「他行った方がいいんじゃないですか」と言ったりもするのだが、かかもふあなもいろいろなものを失くしながら利用をやめない。かかは携帯の向こうの男の言うことに逆らえず、いちきは誰かに暴行を受けている様子だ。一方、キャンプをするジュンパたちは装備が足りず、雨のせいで薪もうまく集められない。誰だってこの状況は怖いというアクニにジュンパは「考えるのよそう」と応じる。「姉を捨てた」とアクニを責めたエスミはテントの中で自殺を図るが、そのアクニに助けられ未遂に終わる。だが、直後にアクニはエスミを暴行しようとし、ジュンパが(一度は見過ごそうとするものの)アクニを殴りそれをやめさせる。こうして、見えないところで進行していた不穏な何かが観客の前にその姿を現わしはじめる。


[撮影:渡邊綾人]


直後のアクニの独白によって明らかになるのは、そこがキャンプ場などではなくただの路上だという事実だ。アクニたちは現実から目を背け、路上生活のことをキャンプと呼んでいたのだ。「生きていく場所がなくなっただけ」で「誰にも助けを求めることが出来ないだけ」、「ここにいるだけ」の自分たちには「見る価値なんてないと思いますけど」とアクニは観客に語りかけるが、再びアクニを殴ったジュンパは「寝言言ってたぞ」とアクニの行為も告白もなかったことにし、現実から目を背け続けようとする。

アクニの告白が衝撃的に響くのは、観客もまた、目の前の空間をキャンプ場としてそれまで認識していたからだ。だが、もちろんそこはキャンプ場ではない。公演会場のBUoYの地下はかつて銭湯として使われていた場所で、浴室だった部分には湯船や鏡、蛇口など設備の名残がある。公演会場として使うための最低限の整備はされているものの、ほとんど廃墟と言ってもいいような空間だ。観客は目の前の廃墟を見ないふりをすることで、そこがキャンプ場であるという「嘘」をアクニと共有していたのだ。では、そこはいつからキャンプ場ではなかったのか。原理的に、観客がそれを知ることはできない。たしかにキャンプ場であったはずのそこは、気づかぬうちに路上にすり替わっている。そしてその背後には、最初から廃墟が広がっていた。

私が立つこの場所がすでに「廃墟」であるという可能性。そこには倫理的な荒廃も含まれている。あるとき、ふあなは何者かに連れ去られ、しかしジュンパたち三人はそれを見ていることしかできなかった。ジュンパたちはそのことを抱えて生きていくしかない。悪を見過ごした事実はそれ以降の生を蝕む。あるいはアクニが独白のなかで語る、この国で広く浸透していると思われる女性観。そこに拠って立つ社会は「廃墟」ではないと言えるだろうか。舞台上の人々のふるまいに近未来の、いや、それどころか現在の日本の姿が重なって見える。見て見ぬふりが降り積もり、気づけば取り返しのつかない世界がそこにある。

ジュンパたちはどこに行くこともできず、そうするうちに悲劇的な結末を迎える。一方、かかといちきもどこにも行けないでいるが、やがてふあなが二人を自宅に誘う。そこで提示されるのは、行き場のなさゆえに出会った人々による、かろうじての連帯だ。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


完璧な作品ではない。例えば、女性の登場人物、特にかかについてはほとんどステレオタイプな被害者としての姿しか描かれていないように見える点には引っかかりを覚える。それがステレオタイプな加害者の存在ゆえのものであったとしても、被害者を被害者としてしか扱わないことは二次的な加害にもなりかねないからだ。加えて、ラストにおける「ケア」を担うのもまた女性であるという点も気になった。作品と作家の性別とは切り離して考えるべきだが、男女平等からは程遠い現実がある以上、どうしても男性作家が書いた戯曲だということも考えざるを得ない。なぜ女性がすべてを背負わ(され)なければならないのか、という問いはしかし、本来は現実に向けられるべきものだろう。

いわゆる社会派と呼ばれるタイプの作品のなかには、あらかじめつくり手と観客との間で共有されている問題を、改めて問題だと指摘するに留まっているものが多々ある。単なる娯楽ならばそれでもいい。だが、自分たちは社会的な問題について考えているのだという自負は、簡単に驕りへとすり替わってしまう。それもまた「廃墟」から目を背けさせる甘い毒だ。それでもふあなの言うように「どれだけ気をつけてもなくなるけど、洗わないとダメなものはダメ」であり「なくなることを覚悟しながら洗」わなければならないのだろう。もちろんそれは作家だけに課せられたタスクではない。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]



ほろびて:https://horobite.com/


関連レビュー

ほろびて『あるこくはく [extra track]』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
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2021/11/01(月)(山﨑健太)

関口敦仁展 手がとどくけど さわれない

会期:2021/10/16~2021/11/23

O美術館[東京都]

O美術館へは、たぶん4半世紀ぶりぐらいの訪問となる。学芸員の天野一夫さんがいた90年代前半まではよく通っていたが、行かなくなった理由はただひとつ、おもしろい企画展をやらなくなったからだ。最近はせいぜい品川区にゆかりの作家を企画展として取り上げるくらいで、あとは貸し会場化していたらしい。そんな「美術館」で関口敦仁の個展が開かれるというから唐突に感じたが、なんのことはない、関口は品川区大井の出身、地元ゆかりの作家なのだ。

関口敦仁といえば、80年代のアートシーンを牽引した作家のひとり。「ニューウェイブ」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは関口の名前と作品だ。もの派やミニマルアートを引きずったような70年代の禁欲的な表現(非表現といってもいい)を払い除けるように、既視感のない流動的なイメージを奔放な色彩と構成で表現してみせ、新しい時代の到来を予感させたものだ。しかし1990年前後からメディアアートに軸足を移し、またパリに長期滞在した後、岐阜のIAMAS(情報科学芸術アカデミー)の教授に就任してからは、少なくともぼくの視界から消えてしまった。同展には1979年の《水中花1》《水中花2》から新作まで、約60点の作品が時代順に並んでいるが、ぼくになじみがあるのは前半を占める80年代の絵画、レリーフ、半立体状の作品たちだ。

最初の《水中花》の連作は学部生のころの作品で、波紋のような青と白の円弧が画面を埋め尽くし、画面の左右には垂直線、上方には2本の斜線が入ってている。円弧はフリーハンドで奔放に絵具を滴らせ、左右の垂直線はそれを制御するような役割を果たす一方で、上方の斜線と相まってどこか日本の伝統絵画を想起させもする。当時の絵画に対する関心ごとを見事に反映させた作品といえる。1981年の《自画像》でセザンヌ風のモチーフとシェイプトキャンバスが現われ、《食卓の夢》や《水の中から》では、金属や樹脂など異素材を組み合わせたレリーフ状の作品に発展していく。

しかし1990年前後からCGプリントや映像インスタレーションなどメディアアートに移行し、作品自体も少なくなっていく。作品リストで数えてみたら、80年代までが26点、90年代が16点、2000年代が7点、10年代以降が18点と、徐々に減りつつ近年再び増加に転じているのがわかる。もっともこれは出品点数であって制作点数ではないが、おおむね作品量を反映していると見ていい。

ところで、1990年前後に作品形態は大きく変わったと書いたが、コンセプトはほとんど変わっていないようだ。それはなにかというと、関口の場合とても難しいのだが、カタログの言葉を援用すれば、「自身の存在自体に目を向けようかと思ったり、創造衝動と存在の確認を重ねてみたりと、極めて内向きな視線を外の世界に接続させよう」とすることだろう。それがタイトルの「手がとどくけど さわれない」感覚につながるのではないか。

もうひとつ変わっていないものがある。それはコンセプトにも関係するかもしれないが、「円」への偏愛だ。もちろんお金じゃなくて丸のほう。最初期の《水中花》の連作では円弧の連なりとして現われ、《自画像》《ピークトルク》では赤いリンゴとして描かれ、その後も《みぬま》《食卓の夢》《ガラス球》など大半の作品に円が登場する。メディアを変えてからも、「笑いの回転体」シリーズは円形をしているし、《地球の作り方 赤道》は赤道という円環だし、《景観新幹線》は円環状のレールの上を模型の鉄道が走り、《知覚の3原色123》は3色の円形だけで成り立っている。最後の《赤で円を描く》はタイトルどおり、画面を赤い円で埋め尽くした絵画だ。そしてこの作品が、会場を一周して最初の《水中花》の連作に向かい合うように展示されているのは偶然ではないだろう。彼自身の制作もぐるっと回って円環状につながっているに違いない。

2021/11/06(土)(村田真)

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平川恒太 「Talk to the silence」

会期:2021/10/02~2021/12/19

カスヤの森現代美術館[神奈川県]

久しぶりに訪れた横須賀のカスヤの森現代美術館。今回は、一貫したテーマの下に多様な作品展開を見せる平川恒太の個展だ。瀟洒な尖塔を持つ教会風の建物に入ると、右手にこれも教会風の木の長椅子が置かれ、その上に黒く塗られた赤いバラ(造花)がシリンダーに挿してあり、脇に聖書が置かれている。赤いバラは同館がコレクションするヨーゼフ・ボイスのアトリビュート(持物)ともいうべきもので、平川のボイスに対する敬意を表わしているようだ。 入り口の正面には《Sarcophagus-トリニティ、トリニティ、トリニティ(ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ)》と題された3つの石の箱が並んでいる。「sarcophagus」は石棺を意味し、「トリニティ」は三位一体を指すと同時に「トリニティ実験」といえば史上初の核実験のことで、核の時代の幕開けを表わす。これら3つの石棺は、向かって左から広島の議院石(国会議事堂の外壁に使われた)、長崎の諫早石、福島の三板石でつくられ、蓋の部分に「Reflection」「Action」「Faith」の言葉と▷△◁の記号が彫られている。これらは過去、現在、未来を表わしているそうだ。


展示風景[筆者撮影]


こうした被爆や戦争をテーマにした作品が展示の中心となっている。《Trinitite-サイパン島同胞臣節を全うす》は、藤田嗣治が戦争末期に描いた最後の戦争画を黒一色で再現した大作で、近寄って凝視しないとなにが描かれているのかわからない。この作品は2013年の制作だが、同じ黒い絵画シリーズの新作として《Trinitite-悲しみの聖母》《Trinitite-三位一体の人形》があり、この2作は広島と長崎の被爆を扱っている。ちなみに「trinitite(トリニタイト)」とは、トリニティ実験の際に高温で溶けて固まった人工鉱物のこと。

今回はトリニティに因んだのか3点セットが多く、「何光年も旅した星々の光は私たちの記憶を繋ぎ星座を描く」シリーズも、「夏の大三角形」「こいぬ座」「や座」の3点からなる。これらはいずれも天井から吊るしたモビール状の作品で、重りにした従軍勲章を星座に見立てたもの。敵を倒せば倒すほどたくさんの勲章がもらえるのなら、これらの勲章は倒されて星になった兵士たちを表わしていることになる。「死んだら星になる」のではなく、「殺したら星=勲章がもらえる」のだ。こうした勲章はいまではネットで安く手に入るというから、なにをかいわんや。その領収書を添付した星座のドローイングも出品されている。

《PRISMEN-約束と祈りの虹(広島)》は、バーコードみたいなモノクロームの斜線が走る正方形の絵画。一見、名和晃平の作品と間違えそうだが、おそらく「黒い雨」を暗示しているのだろう。しかしそれで終わりではない。画材に光学実験用ガラスビーズを用いているため、見る位置によって画面の下方にうっすらと虹が浮かび上がるのだ。なるほど、黒い雨に虹をかけるとは。ことほどさように、平川の作品は解説を聞き、意味を考えながら見ればいちいち納得するものの、言葉なしで見ると近ごろ珍しいほど無愛想な作品ばかりで、取りつく島もない。その落差もまた魅力だといっておこう。

2021/11/07(日)(村田真)

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2021年12月01日号の
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