artscapeレビュー
2022年09月01日号のレビュー/プレビュー
森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
会期:2022/03/12~2022/06/05
京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ[京都府]
憧れの対象を見つけるということは、その対となる蔑みの対象を前提とする。憧れもまた罪なのだ
森村泰昌の作品制作の過程で撮影されてきたインスタント写真800枚以上を含む、35年超のキャリアを総括する大規模個展。森村はポストモダンの権化として、国ごと地域ごとに無数のステレオタイプと個別具体的な人物や写真や絵画に入り込んできた美術家だ。本展では「女優シリーズ」も多く展開されていたが、いずれも詳しいキャプションは会場には存在しない。見ればわかるほど著名な人物を演じ分けているということなのかもしれないが、ゆえに、森村の自作の小説の無人朗読劇《顔》に出てきた、しおらしい女が豹変し、男を喰らうという構造と言葉が前景化しすぎたきらいもある。そこで、本文では、森村が「女」ではなく「女優」とどう向き合ってきたのかを一作に絞り、少しまとめ添えたい。
森村は1980年代後半からデジタルでのマニピュレートをひと通り実施した後、「女優シリーズ」を開始する。本シリーズは化粧だけで有名女優への成り代わりが行なわれたシリーズであると同時に、映画批評でもあった。展覧会をはじめとして、さまざまな媒体で展開されているが、雑誌『月刊PANjA』(扶桑社、 1994.8~1995.7)での連載「女優降臨」がもっとも中心的な掲載と言えるだろう。シンディ・シャーマンのセンターフォールシリーズが「ただのセンターフォールでしかない」とロザリンド・クラウスに批判されたことを受けてか、森村は本誌のグラビアを担っていたのだ。
では一例だけ。映画『ティファニーで朝食を』(1961)でオードリー・ヘップバーン演じる主人公ホリーに森村はどう成り代わったのか。それは、トルーマン・カポーティの同名の原作(1958)と映画の相違点が関わっている。違いは大きくは2点。
1:
(原作)「ユニオシ」という男性の身体描写はない
(映画)「ユニオシ」という男性の身体描写が「反日プロパガンダ」的
2:
(原作)ホリーは誰とも結婚せず、旅立ちアフリカなど放浪を続ける
(映画)ホリーが最終的には愛を見つけ、ニューヨークに留まる
映画でユニオシを演じたのはミッキー・ルーニーという白人男性で、彼が「醜く」その外見を変化させて日本人を演じた。それに対して「美しい」登場人物であるホリーに日本人男性である森村がなることにどのような意味がありうるのか。
主人公ホリーは女優の卵であり、高級娼婦として男性から金を巻き上げつつも玉の輿を目論む自由奔放な女性だ。映画では、そのような女性が結婚という制度をもとに幸せをつかむという目線のもと、過去の自分との決別で終わりを迎えるが、原作では、ホリーはホリーのまま、自由を求め続ける。つまり、映画のホリーは映画のユニオシに向けられたステレオタイプ性と同等のものを当時のアメリカ人女性として受け、改変されたとも考えられる存在だ。つまり、ユニオシとホリーはこの映画に潜む「美醜観」で反転し繋がれた関係とみなし得る。
そのようななかで、森村は映画版のヘップバーンのホリーを演じるのだが、スタジオの撮影を中心としながら、最後は大阪の町へ消えていく。自身のナショナリティと化粧という技をもって映画の抱えていた抑圧を二重に引き受けて解放するのだ。そして、どのような「美」への志向性を抱いているのか、森村の写真は鑑賞者の憧れを暴く。
上野千鶴子が森村に投げかけた「女とは、一生を女装で通した者である」に対して、森村は「女優」というものを、以下のように述べたことがある。
自分にとって、女優観、女優っぽさというものは、実は女に化けることではないんです。そうではなくてむしろ、たった一人でそこにすっくと立って何かに立ち向かうということ。[中略]その一人の人間がそこに存在しなくなったら、その場は成り立たないような存在として、そこにあり続けなければならない。それが「女優」の重要な要素
森村にとっての「女優」とは、「ジェンダーを演じるものとしての女」をどのように考えるのかといったとき、「無数の個別具体的な女」ではなく「一人ひとりの人生」に応答をすることを可能にする経路だ。たくさんのポラロイドの前後には、このような思考と造形理論が一つひとつに広がっている。
公式サイト:https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20220312-0605
2022/05/08(日)(きりとりめでる)
山市直佑「Oneness」
会期:2022/05/03~2022/05/15
Koma gallery[東京都]
山市直佑は旅をする写真家だ。山市の個展名であり作品のシリーズ名でもある「Oneness」は、唯一性と全体性という相反する意味を持つ言葉である。山市は2008年にはカザフスタン、2011年からはブルガリア、ルーマニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、そしてロシアを訪れ、インタビューと撮影を行なってきた。撮影以降、グローバリゼーションで均質化する世界と、言いようのないその土地でしかなさに着目したシリーズとしていままでに何度か展覧会が開催されてきている。有名飲料メーカーのロゴはどこにでもあるのかと思ったり、石造りの建物の中にこんなダイナミックなエレベーターがと唸ったり。写真のレンズの向きがもう少し違えば、もうどこで撮影されたものだかわからなくなってしまいそうな作品が並ぶ。いや、そしたらまた何かその土地の固有性がどこかからか飛び込んでくるに違いないと思わせられる。
今回の展示は2022年5月に開始された。ウクライナ侵攻が続くいま、写真の見え方は変化した。当時撮影したキーウはほとんど残っていないと山市は言う。ロシアとウクライナは鉄道でつながっていて、朝8時半に列車に乗った山市は、夜20時半にはキーウにいた。鉄道の中でウクライナの人ともブルガリアの人とも片言のロシア語でやりとりができたこと。当時のメモと写真を見返しながら、2022年の山市の言葉はその二者の近さに引き寄せられる。
展覧会会場には額装された写真が端正に並び、全体の撮影地域が示されるだけで、撮影の仕方、どの写真がどの土地のひとで、どんなやりとりを山市としたのかは開示されない。だが、そのなかにはついさっき失われたものがあるかもしれない。わたしが写真からわかることはわずかだが、そのわからなさのなかですべての写真を見ようと思った。
山市直佑「Oneness」:https://yamaichinaosuke.info/works/oneness/
タイガの森を抜けて──写真家 山市直佑 ロシア・ウクライナ紀行──(PicoN!):https://picon.fun/photo/20220503/
2022/05/13(金)(きりとりめでる)
高尾俊介「Tiny Sketches」(高尾俊介を中心に考えられること[1])
会期:2022/05/13~2022/06/12
NEORT++[東京都]
高尾俊介による初個展「Tiny Sketches」は、2019年3月から高尾が始めた「デイリーコーディング」で制作された作品1500点以上のなかから200点を選出しプリントした展覧会。デイリーコーディングとは、高尾が1日ひとつ、少しでも何かコードを書いて、それをTwitterにアップロードするという修練でもあり日記のようでもある活動だ。紙に出力された作品にはプロジェクターの光が照明として投げかけられ、その輝度に眼が揺らされて、モニターを見ているような心地になる。
連動企画のトーク「NFT, コーディングの観点から考えるメディア・アート」
では、畠中実は高尾のオルタナティブ性を、ジェネラティブ・アートは出力物ではなくコーディングに力点があったこと、そしてNFTアートはNFTを使っているという意味ではないはずであり、NFTによってジェネラティブ・アートの成果が作品にできたのではないかと指摘した。いわば、高尾は二重の宙づりのなかでその特異性が成立したということだ。これは慧眼だと思った。続く久保田晃弘はより形式の次元での検討を進める。メディア・アートの定義のうち「作品が流通・受容・再生産される媒体過程そのものを作品の本質としてとらえるアートの呼称」(中井悠『アメリカ文化辞典』)という点に着目し、コーディングとNFTとメディア・アートの位相を考える。NFTが希少性=作家性を人工的につくり上げる一方で、その対極にあるクリエイティブ・コモンズ0(著作権フリー)とNFTは「オーナーシップ」(Braian L. Frye)でつながるというのだ。つまり、NFT(アート)は所有が目的ではなく、所有の表明によるコミュニティへの影響が重要であるため、その公開自体はフリーでも構わないという作品とのかかわり方だ。ここで久保田はNFT(アート)を著作権をなくす行動、著作権がなくても経済が回る可能性であり、メディア・アートを考えるひとつの視点なのではないかと示した。いまは高尾の取り組みはたくさんの既存の文脈との比喩で語られることを積み重ねて、一体これが何であるのかと切り分けている最中でもあるわけだが、ここで、トークの途中で高尾がポロっと言った、NFTにおける「絶え間ない作品と作家との関係」に戻ってみたい。つまり、久保田の図式に「作家」のレイヤーを追加する必要性自体の検討であり、作家が存命であるときの時間幅での作品について考えることだ。NFTや美術作品全般は所有ではなく「影響」を買うものだとして、そのときの作品はどのようなコードをバックグラウンドに走らせているかではなく、高尾俊介のNFT上に紐づく作品だけでなく、ログ、プロジェクト、Twitterでの高尾の発言、時価を参照し続けているということだ。これもまた既存の作品の在り方との連続性のなかで語りうることでもあるだろう。しかし、NFTにおける「影響」の矛先、あるいは、高尾のデイリーコーディングのコミュニティを含めて考えるなら、それは外せないのだろう。
次回は、「継続性と高尾俊介とSNS」について考えたい。
展覧会は無料でした。作品のほとんどはウェブサイトで鑑賞可能です。
公式サイト:https://tinysketches.neort.io/ja/dailycoding
2022/05/15(日)(きりとりめでる)
ライアン・ガンダー われらの時代のサイン
会期:2022/07/16~2022/09/19
東京オペラシティアートギャラリー[東京都]
ギャラリーの入り口付近の床には、一辺が5〜10センチ程度の黒い紙片が散らばっている。これは紙幣や各種カード、航空券などをかたどったもので、《野望をもってしても埋められない詩に足りないもの》(2019-2020)という作品。こうして見ると、紙幣や金券というのはみんな似たようなサイズなんだな。壁際には白い服を着た2体の黒い人体彫刻がもたれかかり、服も壁も黒ずんでいる。彫刻はグラファイト製だそうで、あたかもこの彫刻が動き回ったかのような印象だ。タイトルは《タイーサ、ペリクルーズ:第5幕第3場》(2022)と《脇役(バルタザール、ヴェニスの商人:第3幕第4場)》(2022)で、どちらもリハーサルの舞台裏で出番を持つ脇役という設定だ。
奥には、ある抽象彫刻のレプリカが天井から落ちてきたかのように、壊れた台座の上に鎮座している。これは《編集は高くつくので》(2016)というタイトルで、2016年の「岡山芸術交流」で見たときには、あたかも駐車場に不時着したかのように半ば埋れていたので笑った。その隣には《摂氏マイナス267度 あらゆる種類の零下》(2014)と題する作品があるはずだが、見当たらない。解説を読むと「ヘリウムで膨らんだ風船の実物大のレプリカ。展示室の天井まで飛んで行ったようです」とあるので見上げると、確かにあった。
次のギャラリーの壁には、その名も《最高傑作》(2013)と《あの最高傑作の女性版》(2016)の2点が並んでいる。マンガチックな男と女の目玉がくるくる動く作品で、2017年に大阪の国立国際美術館での個展で見たときは感激した。いいのかこんなにおもしろくて。《ひっくり返ったフランク・ロイド・ライト+遠藤新の椅子、数インチの雪が積もった後》(2022)と、無意味なタイトルの多いなかでも珍しく説明的な題名の作品は、そのとおりライトと遠藤がデザインした椅子の上に、雪が積もったように大理石を載せたもの。同じデザインの椅子を使った作品に《すべては予定通り》(2022)があり、座面の上で小さな蚊がうごめいているように見えるが、これはアニマトロクスという技術で動かしているそうだ。このアニマトロクスを使った作品には、《僕は大阪に戻らないだろう》《2000年来のコラボレーション(予言者)》(2018)というのもあり、どちらも壁に開けた穴から機械仕掛けのネズミが顔を出す。
今日は内覧会のせいか、奇妙な2人組を見かける。赤いシャツを着た男性と緑のシャツを着た女性のカップルだが、なんと同じカップルが2組もいるではないか。実は彼らは双子同士で、《時間にともなう問題》(2022)という作品。本来はそれぞれ会場の入口と出口に立っているはずだが、つい任務を忘れてしまったのか、4人一緒にいるのでよく目立つ(しかも出品作品の大半がモノクロームなので、補色のカップルはなおさら映える)。 とまあ、こんな具合にふざけた作品が続く。まるでギャグの小ネタ集、イタズラの百貨店、笑いのクラスター爆弾みたい。別にけなしてるわけではない。そもそもギャグもイタズラもお笑いも、常識や既存の価値観を転倒するという意味ではアートのもつ機能と似ている。違うとしたら、アートはもったいぶった理屈をつけて知を装ったりするものだが、ライアン・ガンダーはそんな小賢しいことはしない。いや、したとしても無視するにしくはない。それがもっとも彼の作品に近づける道だと思うからだ。
ちなみに、この個展は2021年の開催予定がコロナ禍により1年延期されたもので、昨年は個展の代わりに「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵作品展」を開催。今年も再び同様の収蔵作品展が上階で開かれている。昨年の収蔵作品展は見逃したが、写真を見る限り同じようだ。すなわち、コレクションのなかから内容を問わずモノクローム作品ばかりを選び、壁面に左右対象になるように並べるというもの。収蔵作品を使ったライアン・ガンダーのインスタレーション作品といっていい。これは考えてもみなかったなあ。素材にされた個々の作品からすればひどい扱いだが、はっきりいってふだんスルーされてきた収蔵作品が注目されたというだけでも効果はあったはず。
公式サイト:http://www.operacity.jp/ag/exh252/
2022/07/15(金)(村田真)
前橋の地域活性 JINS PARKと煥乎堂
[群馬県]
すでに二度、その空間を体験しているが、一度泊まってみたかった《白井屋ホテル》(2020)を予約したので、前橋を訪れた。少し街の中心部から離れていたため、未見だった永山祐子による《JINS PARK》(2021)にも足を運んだ。もちろん、JINSの店舗なのだが、よくあるビルの中のお店ではない。銅板にくるまれた本体の手前に庭をもち、ベーカリー&カフェを併設した独立した建築である。内部に入って驚かされるのは、非店舗の部分が多いこと。中央に座れる大階段があり、登った先はテーブルと椅子が並び、さらに屋外テラスに続く。大都市の中心部では、稼ぐための空間が求められるため、こうした余裕のある空間は難しいだろう。実際、これは地域に貢献する公園のような場所として構想されたプロジェクトである。《白井屋ホテル》も、通常のスキームならば、もっと部屋数を増やすと思われるが、そうではないからこそ、贅沢な空間を味わえる。ほかの宿泊客がいない朝食のときは、吹き抜けの大空間を少人数で占有できた。
一連のプロジェクトは、前橋でJINSを創業した田中仁が展開しているものだ。彼は各地の店舗デザインでも建築家を起用してきたが、近年は積極的に地元の街を活性化することにも取り組んでいる。現在の日本では、あちこちの地方都市で百貨店が消えているが、特に前橋では、民間の側からどのように再生できるのかが注目されている。
ところで、今回、店頭に大きく記されたラテン語の文章「QVOD PETIS HIC EST」を見て、初めて気づいたのが、《煥乎堂》の位置だった。これは明治初年に創業した書店だが、かつて1954年に白井晟一が設計した本店が建てられ、文学者が集まったり、展示なども行なわれ、文化の中心だったらしい。白井の空間はもう壊されていたことは知っていたが、建て替えによって、書店のビルは存在していたのである。3階の古本屋もなかなか良い品揃えだった。なお、建物のファサードをよく観察すると、右側の壁に白井の建築についていた小さな水栓が残っている。
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群馬の美術館と建築をまわる|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年12月15日号)
2022/07/18(月)(五十嵐太郎)