2023年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

2022年09月01日号のレビュー/プレビュー

ルネ・デカルト『方法叙説』(講談社学術文庫)

翻訳:小泉義之

発行所:講談社

発行日:2022/01/11

古今東西の哲学書のなかでも、デカルトの『方法叙説』(1637)ほど広く知られているものはそうそうないだろう。同書の「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum; Je pense, donc je suis)」という言葉は、哲学や思想にまったく興味がない人であっても、どこかで一度は聞いたことがあるはずだ。

同時に本書ほど、その知名度に比して読まれていない本もあるまい。世間では「我思う、ゆえに我あり」という定式──ないしキャッチフレーズ──だけが一人歩きしているきらいがあるが、『方法叙説』の内容は、そのようなひとつの文章によって要約しうるものではまったくない。

今年のはじめ、講談社学術文庫に加わった本書は、そのあまりにも有名な古典の新訳である。巻末の訳者解説によれば、20世紀後半だけにかぎっても、本書の日本語訳は6種類におよぶという。訳者の小泉義之(1954-)は『ドゥルーズの哲学』(講談社学術文庫、2015)をはじめとする現代フランスの哲学・思想をめぐる仕事によって知られているが、最初の本である『兵士デカルト』(勁草書房、1995)をはじめ、デカルトを中心とする近世哲学が元来の専門である。

そもそも『方法叙説』とはいかなる書物か。若き日のデカルトは母国フランスで学業を修めたのち、「文献による学問」を捨て兵士としてオランダ、ドイツに赴いた。その間も、デカルトは「世界という大きな書物」(17頁)に学びつつ思索を続け、最終的に9年間の放浪を経てオランダに隠棲することになる。本書は、デカルトがそれまでの20年におよぶ精神の遍歴を綴ったものであり、間違っても第四部に登場する「私は思考する、故に、私は存在する」(45頁)というひとつの命題に収斂するものではない。

知られるように、そもそも本書は『屈折光学』『気象学』『幾何学』という三試論に先立つ「方法」についての概説であった(従来、方法「序説」という日本語訳が採用されてきたのもそのためである)。しかし、以上のような成立経緯をもつ『方法叙説』は、デカルトという人間の半生を綴った自伝的な書物でもある。げんにかれはこう言っている──「この叙説で、私が辿ってきた道の何たるかを示し、私の人生を一枚の絵画のように表象することができれば、私としてはとても喜ばしい」(12頁)。そう、本書は何よりもまず、40歳になったデカルトがおのれの半生を振り返りつつ書いた「一枚の絵画」なのだ。じっさい、全六部からなる本書を虚心坦懐に読んでいくなら、そこで第一にせり上がってくるのはデカルトというひとりの人間の肖像にほかならない。

この小泉義之訳の『方法叙説』──ちなみに、本書のタイトルが方法「序説」でない理由は訳者解説で説明されている──は、これまで同書を手にとり挫折した人にとっても、あるいは人生のどこかの段階で同書を読んだことのある人にとっても、ひとしく参照に値する一冊である。全体を通してきわめて行き届いた訳注を含め、本書はいわゆる学術書の翻訳作法に則っているが、そこに不必要な読みにくさはまったくない。なおかつ、エティエンヌ・ジルソンやフェルディナン・アルキエによる定評ある註解書にもとづいた訳注の数々は、あるていど専門的な内容を期待する読者の期待にも応えうるものである。

2022/08/18(木)(星野太)

NT Live『プライマ・フェイシィ』

会期:2022/08/05〜

TOHOシネマズ日本橋ほか[東京都ほか]

直視すべき現実に目を向けさせ、聞かれるべき声に耳を傾けさせる。イギリスのナショナル・シアターが厳選した傑作舞台をスクリーンに届けるナショナル・シアター・ライブ(NT Live)で8月5日に日本公開された『プライマ・フェイシィ』は演劇にその力があるのだということを、そしてその力によって社会を変えようとするつくり手たちの強い意志を、まざまざと感じさせる傑作だ。

被告人弁護を専門とする弁護士のテッサ。彼女は裁判の場における駆け引きに長け、ときに証人の証言の信憑性に疑問符をつけることで依頼人の勝利を勝ち取ってきた。疑わしきは罰せず。それが法律上の正義であり、彼女の正義だった。大手事務所から移籍を打診され、同僚のダミアンとは「いい感じ」になり、公私ともに順風満帆に思えた日々。しかしある日、性的暴行の被害者となった彼女は自らが信じていた法制度の矛盾に直面することになる──。

作者のスージー・ミラーはオーストラリア出身で現在はイギリスでも活動する劇作家。もともとは人権や子供の権利に携わる活動をする弁護士として活動していたミラーは、『プライマ・フェイシィ』はロー・スクールに通っていた頃の考えから生まれた作品だと戯曲の前書きで書いている。執筆する勇気と、届けるにふさわしい社会的環境を待っていた作品が#MeTooの光のもとで実現したのだと。2019年にシドニーで初演されたこのひとり芝居は数々の賞を受賞し2021年に再演。2022年には今回ナショナル・シアター・ライブの1本として上映されたジャスティン・マーティン演出/ジョディ・カマー出演によるプロダクションがロンドンのハロルド・ピンター劇場で上演され、同プロダクションは2023年にブロードウェイでの上演も決まっている。

性的暴行にあって動揺するテッサは職場での人間関係や自身のキャリア、そして何より性的暴行事件で被害者が勝訴することの難しさ(それは彼女自身が誰よりもよく知るところだ)を考えて警察に駆け込むべきか苦悩する。弁護士として考えれば今回のケースを性的暴行として立証することはきわめて困難だ。相手は同僚のダミアンであり、彼女がダミアンと「いい感じ」になりつつあったことは彼女の友人も知っている。当日は仲良くデートをしているところを複数の場面で複数の人に目撃されてもいる。ダミアンとは以前にもセックスをしていて、それどころか当日も一度、合意の上で行為に及んでいる。その後、酩酊し気持ちが悪くなったテッサは二度目の行為を拒絶するが、ダミアンはそれを無視して無理矢理に行為に及んだのだった。それまでの関係がどうであれ、同意なき性行為はすべて性的暴行である。だが、それを証明するのは当事者二人の証言だけだ。おそらく裁判には勝てない。そう知りながら、彼女は裁きの場に臨む決断をする。

タイトルの『プライマ・フェイシィ』はもともとはラテン語で「一見して」というような意味を持つ。法律用語としては例えば「prima facie evidence=(反証がないかぎり十分とされる)一応の証拠」というようなかたちで使われる言葉だが、日本語では「明白な(ひと目見てわかる)」とも「一見したところでの」とも訳されうる言葉だ。テッサと彼女の視点に寄り添う観客には「明白な」真実も、裁判の場においては反証可能性の残る仮の真実でしかない。作者自身の言い換えでは“on the face of it”。直訳すれば「それに直面して」というところだろうか。この言葉はテッサの置かれた状況を示しているようでも、彼女の物語に向き合う観客に向けられているようでもある。

ひとまず予定された自身の証言を終えるテッサ。だが、ダミアンの弁護士は彼女の証言や記憶の曖昧さを責め立てる。それはテッサ自身も弁護士として用いる戦法であり、ゆえに予想されたものでもあったのだが、彼女はうまく応じることができない。裁判の場においては論理的に整合した証言が求められるが、それを可能にする理性や意志を踏みにじり破壊する行為こそが性暴力だからだ。

この作品のクライマックスでテッサは、長年にわたる男性中心の社会のなかで築き上げられてきた現行の制度が、いかに女性の体験を反映していない理不尽なものであるかを訴える。ともすれば演劇のセリフとしてはあまりに直球の社会批判の言葉はしかし、彼女自身に起きた出来事に照らしたものであるがゆえに、強く聴衆に訴えかける力を持つ。裁判の聴衆と重なりあった劇場の観客は彼女の言葉に耳を傾けざるを得ない。ほとんどこの言葉を聞かせるためだけに、この作品は書かれたのだと言ってもよいだろう。

テッサは裁判に負ける。だが、テッサの母親や付き添いの婦人警官らは彼女に連帯の意志を示す。テッサの言葉は、そして『プライマ・フェイシィ』という作品は、男性原理の支配する裁判所という法の場の外側で人々に働きかけ世界を変えようとしている。法律の専門家であるカレン・オコネルがCurrency Press版の戯曲に寄せた前書きは ‘Making law from women's lives’ と題されていた。女性の生に根ざした法をつくること。テッサの裁判記録が仕舞い込まれると、同じ棚に並ぶ無数のファイルが光り出す。それは現在までの戦いの記録だ。livesを人生の意味に取るならば、その意味するところはあまりに重い。

『プライマ・フェイシィ』の東京での上映はひとまず終了したが、これまでナショナル・シアター・ライブの作品のほとんどは再上映されている。重いテーマを扱いつつ、観客を掴む力を持った作品だ。機会があればぜひ鑑賞していただければと思う。英語が読める方には優れた前書きがついた戯曲もおすすめしたい。ジョディ・カマーが出演する映画『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督、2021)も近いテーマを扱った作品だ。合わせて観るのもいいだろう。




NT Live:https://www.ntlive.jp/primafacie

2022/08/23(火)(山﨑健太)

鳥公園の『abさんご』2022/蜂巣ももチーム・ワークインプログレス

会期:2022/08/27~2022/08/28

おぐセンター2階[東京都]

黒田夏子の小説『abさんご』を上演として立ち上げる。どう上演するのかまったく予想のつかない状態で、そもそもそんなことが可能なのかといぶかりながら向かった会場では、驚くべきことに相応の説得力を持ったかたちで『abさんご』の一部が上演されていた。だが、この企みはそれで成功だとはならないところが一筋縄ではいかない。

そもそも今回のワークインプログレスは研究プロジェクト「近代的な個の輪郭をほどく演技体──『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる──」の一環として実施されたものだ。鳥公園は2021年から黒田夏子の小説『abさんご』に取り組んでおり、2021年度には読書会とワークショップを実施。2022年度は「『abさんご』の文体をいかに演技体に立ち上げることができるのか?」という問いのもと、鳥公園のアソシエイトアーティストである三浦雨林・和田ながら・蜂巣ももの三人の演出家が「それぞれに稽古場で方法を模索し、その取り組みを観察・記述しながら、劇作家の立場から西尾が劇作論を書く」ことが試みられている。西尾は戯曲の文体と上演における俳優の演技体を「『卵が先か、ニワトリが先か』というような相補的な関係」と捉えており、このプロジェクトを通して「テキストの文体と上演の演技体との間にどのような相互作用があるかを検討し」「ゆくゆく新しい戯曲の文体を開発する」ことを目指しているのだという。私は残念ながら立ち会うことができなかったが、すでに4月に三浦チームの、7月に和田チームのワークインプログレスが実施され、今回の蜂巣チームのワークインプログレスをもってひとまず演出家サイドの取り組みは出揃ったということになる。

『abさんご』はきわめて特異な文体をもった小説だ。例えば冒頭の一文。「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと, 会うおとなたちのくちぐちにきいた百日ほどがあったが, きかれた小児はちょうどその町をはなれていくところだったから, aにもbにもついにむえんだった」。ひらがながやたらと多く、固有名詞が排除された文の連なりは慣れるまではひどく読みづらい。物語を抽出してそれを演じることはできるだろうが、それでは小説としての表われ、特異な文体が捨象されてしまう。いや、それはしかしあらゆる小説に言えることではないのだろうか。


[撮影:西尾佳織]


[撮影:西尾佳織]


プロジェクトそれ自体に対する疑問(なぜ『abさんご』か)はひとまず措いて、蜂巣チームのワークインプログレスがどのような上演だったかを見てみよう。蜂巣チームは研究協力者=俳優(?)の二人(鈴木正也、藤善麻夕帆)が『abさんご』のテキストを発話するための仕掛けとして、閻魔さま(の絵)に話しかけるという設定を採用していた。というのも、『abさんご』はある人物が過去を回想するかたちで書かれており、しかもそこには自らの意志というよりは周囲の状況によってこうなってしまったのだというような調子がそこはかとなく漂っているのだ。過去を振り返りながらも自らの(あるいはあらゆる人間主体の?)責任を回避しようとするように響く『abさんご』の文体はなるほど、人の善悪を裁く閻魔大王の御前で発せられるにふさわしい。蜂巣演出による上演は『abさんご』とはたしかにそういう話であったと思わされるに十分な説得力があった。


[撮影:西尾佳織]


だが、これは演技体というよりは演出の範疇の問題だろう。今回のワークインプログレスでは基本的に二人の俳優がいくつかの断片的な場面をそれぞれに上演するかたちをとっており、つまりテキストはモノローグとして発話されていた。もともとが一人称小説とは言えないまでも一人称的な視点から語られた小説である以上、それを発話するための生理さえ整えられれば発話は可能なのだ。ここには演技体の問題は入り込む余地がないように思える。


[撮影:西尾佳織]


ところで、演技体という言葉から私は例えば鈴木忠志のSCOTが持つような集団的な身体性を想定していたのだが、終演後の西尾の話によればそれは体よりはむしろ態、話しかける対象や話す内容によって変わってくるモードのことを指しているのだという。問題とされているのは西尾がこれまで取り組んできた「現代口語の『自然』な会話をベースとする劇作」であり、「自然な会話」以外の発話を誘発するような文体こそが目指されるものだということらしい。例として樋口一葉『たけくらべ』が挙げられ、三人で百人を演じるような演劇、人ではないものを演じる(出来事を立ち上げる?)演劇という話も出ていた。

であるならば、『abさんご』(の一部)をモノローグとして成立させてしまった蜂巣の上演はプロジェクトとしては失敗ということにはなるまいか。いや、閻魔大王に言い訳をするというのはひとつのモードではあるかもしれない。だが、ここで相手取るべきはやはり特異な記述のあり方であり、そこにあるものごとへの「態度」をどのように演技体へと変換するかということこそが取り組むべき課題だったのではないだろうか。すると、『abさんご』のテキストをそのまま発話するというアプローチ自体がすでに設定された課題と噛み合っていなかったのではないかとも思われる。しかし、だとすると小説をもとに上演のためのテキストをつくる必要があるわけで、それは果たして演出家の仕事だろうか──。


[撮影:西尾佳織]


疑問や検討すべき点は尽きないが、いずれにせよプロジェクトは継続中だ。予告されているスケジュールでは西尾による蜂巣試演会のレポートの締切が9月28日に設定され、2023年度末までには劇作論が執筆されることになっている。今後の展開にも注目したい。


鳥公園:https://bird-park.com/
鳥公園の『abさんご』2022/研究 「近代的な個の輪郭をほどく演技体──『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる──」:https://bird-park.com/works/ab-sango2022/?pid=project

2022/08/27(土)(山﨑健太)

カタログ&ブックス | 2022年9月1日号[テーマ:紙と文字と本と──立花文穂の表現の「触感」が立ち上がる5冊]

紙や活版活字を用いたコラージュなど、視覚・触覚を喚起する平面作品や書籍の仕事で独自の立ち位置を築くアーティスト/デザイナー立花文穂。『風下』(2011)、『KATAKOTO』(2014)、『書体』(2018)、『傘下』(2020)など、セルフパブリッシングや少部数で発行されるアートピースのような本も数多く手掛けてきた立花ですが、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの「立花文穂展 印象 IT'S ONLY A PAPER MOON」開催(2022年7〜10月)に際し、彼の関連書のなかでも比較的入手しやすく、そして特にいま触れておきたい5冊をご紹介します。

※本記事の選書は「hontoブックツリー」でもご覧いただけます。
※紹介した書籍は在庫切れの場合がございますのでご了承ください。
協力:水戸芸術館現代美術センター


今月のテーマ:
紙と文字と本と──立花文穂の表現の「触感」が立ち上がる5冊

1冊目:かたちのみかた

著者:立花文穂
発行:誠文堂新光社
発売日:2013年3月16日
サイズ:19cm、151ページ

Point

立花が美術大学で教えていた際の、演習やワークショップでの実践の記録。自分の手や身近なものを「みる(観察する)」ことを出発点に、何かを作る際の身体性や想像力の働かせ方、感覚の研ぎ澄ませ方に至るまで、そのレッスンの射程は広大。立花文穂展の展示室全体にも、本書のエッセンスが散りばめられています。


2冊目:球体 volume4(2009) 運動〈特集〉

責任編集とデザイン:立花文穂
発行:ヨシモトブックス
発売日:2009年12月
サイズ:23cm、228ページ

Point

責任編集とデザインを立花が務める形で2007年に刊行開始した雑誌『球体』。各号ごとの遊びのある造本も魅力的ながら、特集内容も「文字」(1号)、「東北圏」(2号)、「機会」(最新9号)など、その時期ごとの立花の興味の変遷が物体として刻まれています。この4号ではテーマ「運動」のもと横尾忠則も登場。


3冊目:谷川俊太郎詩選集 1(集英社文庫)

著者:谷川俊太郎
編集:田 原
発行:集英社
発売日:2005年6月
サイズ:16cm、271ページ

Point

父親が製本所を営んでいたという話とともに、本というメディアへの思い入れを過去にもたびたび語り綴っている立花。立花文穂展にも、彼が装丁を手掛けた本/装画として使用された作品が展示されており、この選集通しての装画となったドローイング「変体」「変々体々」も、展示会場でその実物が観られます。



4冊目:自炊。何にしようか

著者:高山なおみ
発行:朝日新聞出版
発売日:2020年10月20日
サイズ:22cm、375ページ

Point

料理家・高山なおみが一人暮らしになり、家で自ら作って食べるレシピを集めた一冊。カバーの鈍い質感の黒インクの光沢とラップに包まれたごはんのコントラストは、立花の近年の装丁仕事のなかでもとりわけ書棚で目を惹きます。高山の過去の著作ではほかに『料理=高山なおみ』『高山なおみの料理』なども立花による装丁。



5冊目:Leaves 立花文穂作品集

著者:立花文穂
発行:誠文堂新光社
発売日:2016年5月11日
サイズ:24cm、316ページ

Point

装丁家としての側面に光が当たることも多い立花ですが、そのキャリアの始まりは95年、佐賀町エキジビットスペースでの作家としての個展から。本書は、立花が一貫して収集を続けている紙や本・活字を用い再構築した平面作品群を、制作当時の随筆などと併せて再録したもの。立花の表現の原点に触れられる気がする一冊です。







立花文穂展 印象 IT'S ONLY A PAPER MOON

会期:2022年7月23日(土)~10月10日(月・祝)
会場: 水戸芸術館 現代美術ギャラリー(茨城県水戸市五軒町1-6-8)
公式サイト:https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5185.html


[展覧会図録]
『球体 9:機会 オポチュニティーズ』

アナログ LPレコード2枚組(付録:ポスター9種)完全限定生産盤
責任編集+アートワーク:立花文穂
小説『ズトチ』:立花英久
ギター:畑俊行
ピアノ:野村卓史
発行:TACHIBANA FUMIO PRO
価格:9,999円(税込)

2021年の東京ビエンナーレでのインスタレーション「オポチュニティーズ」。会期終盤、活版印刷機をJR総武線の御茶ノ水駅~秋葉原駅間の高架下スペースに運び込み、『楽機』と称して、IL TRENOのギター畑俊行とピアノ野村卓史が参加しセッションを行ないました。そのときの録音をプレスした2枚組のレコードです。
水戸芸術館現代美術ギャラリーでは、第5室で『球体 オポチュニティーズ』が展示されています。レコードのabcd面が順番にかけられ、多様なスピーカーから流れる音を、大きな空間全体で浴びることができます。


水戸芸術館ミュージアム・ショップ コントルポアンで先行販売中。


2022/09/01(木)(artscape編集部)

artscapeレビュー /relation/e_00061817.json s 10178953

2022年09月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ