artscapeレビュー

2023年10月01日号のレビュー/プレビュー

石内都 初めての東京は銀座だった

会期:2023/08/29~2023/10/15

資生堂ギャラリー[東京都]

「初めての東京は銀座だった」というタイトルがいかにも昭和でグッとくる。ぼくは都内のはずれに住んでいたから、子どものころ(昭和30年代後半)何度か親に連れていかれたが、ちょっといい服を着せられて訪れる銀座はやはり別格の華やかさがあった。横須賀に住んでいた石内が初めて銀座を訪れたのも同じころ、当時ファンだった飯田久彦のショーを見に、銀座4丁目のライブハウスに行ったという。1962年、石内15歳のこと。その後、美大生になってからは泰明小学校向かいの月光荘に画材を買いに行き、1977年には銀座ニコンサロンで初めて個展を開く。以来ほぼ毎年のように同サロンで個展を開いていた。石内にとって銀座は特別な街だったのだ。そんな石内が撮った銀座の断片を展示している。

同展の直接のきっかけは、資生堂の企業文化誌『花椿』のウェブ版に連載された「現代銀座考」の第2章「銀座バラード」において、石内が銀座の老舗の商品を撮り下ろし、その写真から森岡書店の森岡督行氏が物語を紡ぎ出したこと。被写体となったのは、前述の飯田久彦のレコードや月光荘の絵具をはじめ、昭和まで男女を問わず普通に被っていた銀座ボーグ帽子サロンの帽子、壹番館洋服店の生地やミタケボタンのボタン、銀座もとじの草履、新橋芸者の着物で仕立てたスカジャン、銀座天一の天ぷら、寿司幸本店の蛸引き包丁、資生堂パーラーのオムライス、資生堂の「香水 花椿」まで。レコードと絵具を除けば衣食に関するモチーフばかりで、いずれも高級品だ。これらをアップで撮った写真をそれぞれ2、3点ずつ選んで展示している。

奥の展示室にはニコンサロンでの石内の個展の案内状が並び、石内と森岡氏との対談の映像も上映。パンフレットには森岡氏による解説があるのだが、これが写真撮影にまつわるエピソードだけでなく、老舗の商店や商品に関するウンチクの詰まった銀座案内になっている。



展示風景[筆者撮影]



公式サイト:https://gallery.shiseido.com/jp/exhibition/6383/

2023/09/07(木)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00066556.json s 10187759

第4回ソウル都市建築ビエンナーレ(松峴緑地広場会場)

会期:2023/09/01~2023/10/29

松峴緑地広場[韓国、ソウル]

今回のソウル都市建築ビエンナーレの全体ディレクターは、5月に釜山で《キスワイヤー・センター》(2013)と工場をリノベーションした文化施設《F1963》(2016)など、彼の作品を見ていた韓国の建築家チョ・ビョンスだった。メイン会場は、都心でありながら、植民地の時代は朝鮮殖産銀行の社宅、戦後はアメリカ軍の宿舎などに使われていたため、長い間壁に囲まれていた松峴緑地広場である(2022年10月から公園として開放)。今後、ここをどう活用するかが検討されているらしい。ともあれ、これまでのビエンナーレは東大門デザインプラザがメイン会場だったので、初めての屋外の展示空間は大きく印象が変わり、市民に知られるチャンスを増やしたはずだ。また東側には、学校をリノベーションし、2021年にオープンした《ソウル工芸博物館》も存在する。屋外に仮設のパヴィリオンやインスタレーションが点在し、いずれも身体で体験する空間になっており、解説の文字は少ない。すなわち、サブ会場となる都市建築展示館と市民庁とは明快に役割を分担している。


松峴緑地広場を見下ろす


広場では、ビエンナーレに先行して高さ12メートルの階段式の象徴的な構築物が建設され、ソウルの風景を眺める展望台「ハヌルソ」(空と出会う場所という意味)になっている。普通に街を歩いていても、これは何だろう? と気づくくらいの存在感をもつ。なお、周りの山の風景と呼応するかのように、頂部の床には土が盛られていた。ビエンナーレでは、これを「スカイ・パヴィリオン」と命名し、その脇にランドスケープとして、低い丘の中央に水を貯めた「アース・パヴィリオン」が存在する。


スカイ・パヴィリオン


展望台「ハヌルソ」の頂部


アース・パヴィリオン


また大階段の下では、グローバル・アート・アイランドのコンペ案(トーマス・ヘザーウィックやBIGらが入賞)や、世界各地の大学から漢江の未来像を提案する「グローバル・スタディーズ」を展示していた。ほかには中庭の屋外を反転しつつ室内化したようなアウトドア・ルーム、大きな三角形に挟まれたペア・パヴィリオン、空気を送り込んで膨らむドーム、竪穴式住居のようなパヴィリオン、音が鳴るサウンド・オブ・アーキテクチャー、テントの下の丸いドローイング・テーブルなど、国内外の建築家による作品が楽しめる。こうした展開は、これまでのビエンナーレになかった新機軸だろう。


アウトドア・ルーム


ペア・パヴィリオン


空気のドーム



第4回ソウル都市建築ビエンナーレ:https://2023.seoulbiennale.org/indexENG.html



関連レビュー

第4回ソウル都市建築ビエンナーレ(ソウル都市建築展示館/ソウル市民庁・市庁舎会場)|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年10月01日号)

「ホーム・ストーリーズ:100年、20の先駆的なインテリア」展|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年07月01日号)
2019ソウル都市建築ビエンナーレ|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2019年10月15日号)
2017ソウル都市建築ビエンナーレ|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2017年11月15日号)

2023/09/07(木)(五十嵐太郎)

アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~

会期:2023/07/08~2023/09/10

浜松市美術館[静岡県]

浜松市美術館を訪れ、今年の8月に亡くなったアニメ背景美術の巨匠の展覧会、「新・山本二三」展の最終日に駆け込みで入った。1969年以降、彼は『サザエさん』(1969-)、『一休さん』(1975-82)、『未来少年コナン』(1978)から、『天空の城ラピュタ』(1986)、『火垂るの墓』(1988)、『天気の子』(2019)まで、数多くの作品を手がけ、ゲームの美術や絵本の挿絵も描いている。ジブリの宮崎駿のような有名性はないが、おそらく、ほとんどの日本人は知らない間に山本の絵に慣れ親しんでいるはずだ。また実際、会場では親子連れが目立ったが、親も子も楽しめる内容だろう。今回のタイトルに「新」と付いているのは、2011年に神戸市立博物館で始まった「日本のアニメーション美術の創造者 山本二三」展がその後も全国で巡回していたからだ。2014年に筆者は静岡市美術館で鑑賞し、映画館で大きく伸ばしても耐えられるよう、小さな絵に細部を緻密に描く手技に感心させられた。新旧両方の展示のカタログを比較すると、131ページから231ページに増えており、単純にボリュームからも内容が充実したことが確認できる。なお、前回の展示では、最初の会場であった神戸を舞台とすることから『火垂るの墓』を詳しく取り上げており、担当学芸員の岡泰正の論考は今回のカタログに再録された。



山本はもともとカメラマンに憧れ、絵を描くことが好きだったが、それでは食っていけないということで、夜学の大垣工業高校定時制建築科を卒業後、働きながら、アニメーションの専門学校に入ったという。彼が図面やパースの技術を学んだ経験は、キャラではなく空間を表現する背景美術の仕事に生かされており、今回の展示では高校時代の設計課題も紹介されていた。なるほど、しっかりと建築の室内外を描いている理由として納得が行く。展示全体を通していくつかのテーマが設定されており、第1章「冒険の舞台」(『ルパン三世 PART2』[1977-80]など)、第2章「そこにある暮らし」(『じゃりん子チエ』[1981-83]など)と続く。第3章「雲の記憶」(『時をかける少女』[2006]など)と第4章「森の生命」(『もののけ姫』[1997]など)では、「二三雲」と呼ばれる独特な雲の表情や、作品の世界観を決定する森や自然に注目する。そして第5章「忘れがたき故郷」では、2010年から2021年にかけて全100点を完成させたライフワークである、生まれ育った五島列島の風景画シリーズを取り上げる。なお、浜松市美術館では、特別に浜松城を描いたドローイングも出品されていた。





アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/artmuse/tenrankai/nizou.html



関連レビュー

「架空の都市の創りかた」(「アニメ背景美術に描かれた都市」展オープニングフォーラム)|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年07月01日号)
山本二三展|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2014年09月15日号)

2023/09/08(金)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00065604.json s 10187785

横尾忠則 寒山百得展

会期:2023/09/12~2023/12/03

東京国立博物館 表慶館[東京都]

東博というと日本の古美術のイメージが強いが、忘れたころに現代美術もやる。5年前の「マルセル・デュシャンと日本」は記憶に新しいが(デュシャンはもはや古典かも)、表慶館では20年ほど前に東京国立近代美術館の企画で「美術館を読み解く:表慶館と現代の美術」を開いたこともある。前者は日本美術とのつながりを示し、後者は建築空間に触発された作品を展示するという点で、どちらも純粋な現代美術展というより、東博および古美術との関係を強調するものだった。今回もなんで横尾忠則が東博で? と思ったが、「寒山拾得」をモチーフにした作品だと知って納得。

寒山拾得は奇行で知られる中国の超俗的なふたりの僧のこと。伝統的に寒山は巻物、拾得は箒を持ち、どちらもボロを身にまとい、妖しい笑みを浮かべた姿で描かれる。横尾はこの寒山拾得を自由に解釈し、徹底的に解体し再構築してみせた。巻物をトイレットペーパーに置き換え、箒の代わりに電気掃除機を持たせるのは序の口。便器に座らせたり、箒にまたがって空を飛ばしたり、大谷翔平やドン・キホーテを登場させたり、マネの《草上の昼食》や久隅守景の《納涼図屏風》を引用したり、やりたい放題。古今東西、現実と虚構を超えた世界が展開しているのだ。その数102点、これを85歳から約1年半で描き上げたというから驚く。

画家は年老いてくると自分のスタイルを繰り返したり(自己模倣ともいえる)、筆づかいや色づかいが奔放になったり(成熟とも衰退ともいえる)するものだ。ティツィアーノしかり、モネしかり、ピカソしかり。ところが横尾はもともと自分のスタイルがあったというより、既存の図像やスタイルを寄せ集めて独自の世界観を築き上げるスタイルだった。だから1980年代初めに画家としてデビューしてからも、当時流行していた新表現主義をベースに、美術史のさまざまな様式を引用・模倣しながら(タダノリ?)横尾ワールドを展開してきた。今回は表現主義風あり印象派風ありシュルレアリスム風あり抽象風あり水墨画風まであって、まったくスタイルというものに執着しない。むしろそれが横尾スタイルというものだろう。

ただ最近は身体的な衰えが明らかで、筆づかいも色づかいも奔放を超えて荒っぽく、もはやグズグズといっていいような作品もある。だが、だれもこれを批判することはできないだろう。なぜならこれらはもはや従来の絵画の価値観から逸脱し、いわば治外法権のアウトサイダーアートの領域に踏み込んでいるからだ。アウトサイダーアートというのは目指してできるものではないが、横尾は明晰な意識を持ってアウトサイドに踏み出しているように見える。いや、ここはやっぱり寒山拾得の境地に達したというべきか。



展示風景[筆者撮影]



公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/kanzanhyakutoku/

2023/09/11(月)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00066543.json s 10187756

Q『弱法師』

会期:2023/09/15~2023/09/17

城崎国際アートセンター[兵庫県]

人間は単なる物体以上の存在だ。多くの人がそう信じて生きている。だが、人間は、人体は物体であることから決して逃れることはできない。それもまた真理だ。Q『弱法師』(劇作・演出:市原佐都子)を観ながら私は、“Bodies That Matter”という、日本語では『問題=物質となる身体』と訳されているジュディス・バトラーの著書のタイトルを思い浮かべていた。人の身体は物質にほかならず、だからこそその身体はときに「問題」となる。

『弱法師』はQの近作の多くと同じく、古典をベースに創作された作品だ。モチーフとなったのは三島由紀夫の『近代能楽集』などでも有名な「俊徳丸伝説/弱法師」。文楽の手法を取り入れ、市原の手によって人間の生と性を問い直す過激な人形劇として再創造された『弱法師』は、ドイツの世界演劇祭で初演を迎えたのち、高知での日本初演を経て豊岡演劇祭2023ディレクターズプログラムの1本として上演された。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


西原鶴真の琵琶の音に導かれるようにして幕が開くと上手に1DKのアパートの一室。「ここは日本の田舎 どこにでもあるアパートの一室 一組の夫婦がくらしていた」という原サチコの語りに続いて下手の工事現場に1体の交通誘導人形が現われる。工事中の道路などに立ちドライバーに注意を促すために赤く光る誘導灯を振り続けるあれである。大崎晃伸によって遣われるその人形は交通誘導員として働く「夫」らしい。「寒くても暑くても雨でも雪でも足が棒になるまで立ち続け」、ドライバーに「クソ」と吐き捨てられても「いちいち怒ったり悲しんだりしていては立っていられない」と「感情をミュート」して「私は人形だから」と言い聞かせる夫の姿は、それが人形によって演じられることによって奇妙に滑稽なものとなる。人間によって遣われる人形によって演じられる人形のような人間。交通誘導員という仕事が、場合によってはまさに交通誘導人形によって代替可能なものだという事実を思えば、この趣向のアイロニーはより一層際立つだろう。感情を殺さずにはやっていられないその仕事は、一方で(だからこそ?)機械仕掛けの人形によって容易に取って代わられ得るものなのだ。

ところが、観客の認識はすぐさまひっくり返されることになる。次の場面で帰宅した夫は、ラブドールによって演じられる妻(人形遣い:川村美紀子/豊岡公演では川村の怪我のため中西星羅が代役)とセックスに及ぶのだが、驚くべきことに、行為を終えた夫は妻の股間から脱着式のオナホールを取り外し、それを洗いはじめるのだ。夫の帰宅を待つ妻は不妊の悩みを語っていたが、なるほど、妻が見た目通りのラブドールであり、夫が見た目通りの交通誘導人形なのだとすれば、子ができないのも道理である。そういえば、語りを担う原もまた、まるでフランス人形のような装いをしていたのだった。人形のような人間の物語は、転じて人間のような人形の物語となる──かと思いきや話はそう単純ではない。妻の願いが届いたのかオナホールには魂が宿り(!)、坊や(人形遣い:畑中良太)が誕生するからだ。登場人物たちは人間と人形の境界を生きながら、いかにも「人間らしい」男女や親子の愛憎を巡る、言ってしまえば通俗的な物語を紡いでいく。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


文楽の形式もまた、人間と人形の間で観客の認識を揺らす効果を持っている。例えば夫婦のセックスの場面。『弱法師』ではひとりの人間が1体の人形を遣う「乙女文楽」の手法が採用されているため、人形は人形遣いの動きをダイレクトに反映して動く。人形同士のぎこちないセックスは性行為の滑稽さを露わにするが、同時に、人形の背後でそれを遣う人間の動きはその存在を見ないふりをするにはあまりに生々しく、ここでは人形を操る人間の存在こそが急激に立ち上がってくることになる。

では、主体はやはり人間だということになるのだろうか。たしかに人形は人形遣いによって操られている。だが、人間もまた、自らの内に巣食う得体の知れない欲望によって、あるいは、神経を伝う電気信号によって突き動かされているという事実を考えれば、そこに人形との違いはどれほどあるだろうか。いや、その欲望でさえしばしば外部的要因によって形づくられることを考えれば、人間もまた外からの働きかけによって「操られている」のは明らかだろう。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


目の前で展開されているのは人形のような人間の物語なのか人間のような人形のそれなのか。演じているのは、操られているのは人形なのか人間なのか。私は人形を通して人間を見ているのか人間を通して人形を見ているのか。複数のレイヤーでの二者択一は一意に正解が定まるものでもなく、場面ごとにどの見方を採用するかによって見え方も変わってこよう。人間を演じる人形が「私は人形だから」と言えばそれはいわば人形ギャグだが、人間の言葉として受け取るならばそこには悲愴が漂う。

だが、私もまた、挑発的なまでにグロテスクな人形の姿に反射的に嫌悪感を覚えたひとりだったということを白状しておかなければならない。その瞬間、私は自らの固定観念と倫理観の限界を思い知らされたのだった。おそらくそれらは私自身の身体の、物理的な限界とも強く結びついたものだということなのだろう。しかしだからこそ人形たちの「逸脱」に、私は「自由」を見てしまうのだった。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


グロテスクで荒唐無稽な展開はもはや人間の物語として見ることは不可能なようにも思われる。だが、ピアッシングや整形、臓器移植、性別適合手術と日々「装い」を変える人形たちの営為との境界はどこにあるだろうか。「入る店を間違えてしまった」とこぼし「産まれたときに役所に届け出された性別はなんですか?」と問う夫の言葉は近年苛烈さを増すトランス差別を思わせ、しかし人形の返答は「は どういうことっすか」とにべもない。

人形たちのふるまいは固定観念や既存の倫理に疑問符を突きつけ、もっと自由でいいのだとそこからの逸脱を唆す。その誘いに応じたとき、私はもはや人間とは呼ばれないのかもしれない。だがそれの何が悪いのだろうか。そう思いながら、現実は相も変わらず私自身の体に縛りつけられている。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]



Q:https://qqq-qqq-qqq.com
豊岡演劇祭2023:https://toyooka-theaterfestival.jp

2023/09/15(金)(山﨑健太)

2023年10月01日号の
artscapeレビュー