artscapeレビュー

2010年02月01日号のレビュー/プレビュー

泉洋平展「トけゆくシカク」

会期:2010/01/09~2010/01/31

studio90[京都府]

暗室の中でピンスポットライトが壁に向けて照らされている。壁にぶつかって反射した光がおぼろげに照らし出すのは、宙に浮かぶ大きな立方体。立方体といっても確固たる立体物ではなく、縦・奥行きともに68段ずつ張られた黒い糸の一部分を白くペイントすることで立ち現われる立方体のイメージだ。エッジがぼやけ、見る角度によって微妙に様相を変化させるそれは、なるほど「トけゆくシカク(四角と視覚のダブルミーニング)」。これまで主にタブローで「見る」ことと「認識する」ことの関係性を問いかけてきた泉だが、今回のオプ・アート的作品は彼の新たな武器となることであろう。

2010/01/17(日)(小吹隆文)

日常/場違い

会期:2009/12/16~2010/01/23

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

雨宮庸介、泉太郎、木村太陽、久保田弘成、佐藤恵子、藤堂良門によるグループ展。わかるようでわからない展覧会のタイトルはさておき、それぞれ堅実な作品を発表していた。飛びぬけていたのは、泉太郎。旧作と新作の映像など10点あまりの作品を一挙に発表した。新作の《さわれない山びこのながめ》は、泉が作った出鱈目なオブジェを街の人びとに見せて何に見えるかを問い、彼らが応える声だけを頼りにボランティア諸君がオブジェを作り、それをまた街の人びとに見せて、さらにまたボランティア諸君が作るという連想ゲームのようなプロジェクトの経過を写し出す映像と、実物のオブジェ。美術妙論家・池田シゲルによる解説文「やまびこと転倒」もあわせて発表された。近年、泉が熱心に取り組んでいる無数のビデオカメラの映像と鏡を重ね合わせてイメージを錯乱させるシリーズでは、モニターの画面上に鏡の断片を直接貼りつけて乱反射の度合いを倍増させるなど、新たな展開を見せていた。先の「ヨコハマ国際映像祭」では野毛山動物園のシロクマの檻を存分に使い切った見事な空間インスタレーションを発表していたが、泉の強みはどんなクセのある空間でもその場の特性をいかしながら遊べる柔軟性にある。それにたいして、十分な空間を与えられることによってはじめて本領を発揮できるタイプが、久保田弘成だ。館内の展示とは別に、久保田の代名詞ともいえる演歌を流しながら自動車を回転させるパフォーマンスが屋外で何度か実演されたが、それが同館の脇のじつに狭いスペースで催されていたため、その迫力が半減していたばかりか、なんとも窮屈な印象を与えてしまっていた。海外ではいずれも広々とした空間で行なわれていたように、このパフォーマンスは広い空と大きな土地という環境があってはじめて、回転する自動車の侘しさや滑稽さが際立つものである。目前に山下公園という絶好の場所が広がっているにもかかわらず、その使用がかなわないところに、日本で芸術表現を志す者にとっての大きな不幸がある。

2010/01/17(日)(福住廉)

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東京藝術大学先端芸術表現科卒業|修了制作2010

会期:2010/01/16~2010/01/24

BankART Studio NYK[神奈川県]

毎年恒例となった東京芸大先端芸術表現科の卒業修了制作展。BankART Studio NYKの広大な空間を過不足なく使い切った展示で、なかなか見応えがあった。昨年に引き続きプロジェクト系の作品が激減したせいか、モノとしての作品で真っ向勝負する傾向が強かったようだが、なかでも際立っていたのが下平千夏。大量の輪ゴムをつなぎあわせた直線で放射状のオブジェをつくりだした。マンガで多用される効果線のようでありながら、同時にソリッドな物質感も感じさせる、不思議な立体作品で、たいへんおもしろい。

2010/01/17(日)(福住廉)

束芋 断面の世代

会期:2009/12/11~2010/03/03

横浜美術館[神奈川県]

束芋の新作展。横浜美術館の企画展示室を存分に使い倒して映像インスタレーションや平面作品を発表した。2006年に原美術館で催された「ヨロヨロン」展と同じだったのは、空間を大胆に演出した映像インスタレーションを発表していたこと。ちがっていたのはその映像作品の内容が人体や生命の根源への志向性をよりいっそう強めていたこと、そして展観を見終わった後に煮え切らない物足りなさが残されたこと。それは、おそらく束芋がいう「断面の世代」に由来しているのだと思う。たとえば象徴的なのが、展示室の内壁を一巡するように展示された平面作品だ。ここでは日常生活を構成する数々のモノと身体部位が節合しつつ分節する様子が絵巻物のように連続的に表わされていたが、それらはいずれも断片の連続に終始しており、決して全体へと統合されることがない。物語に集約されることがないまま、モノローグが延々と繰り返されているといってもいい。ねらいとしては、部分の中に全体の構造が反復されているフラクタクル理論のように、その断片を基準に全体を想像させたいのだろうが、モノと身体が融合するというモチーフがワンパターンであるせいか、平面作品に全体を見通すような断面を見出すことはなかなか難しい。団地のなかの部屋をずらしながら見せていく映像作品にしても、たしかに断片の集合によって全体を見通すことができるような気がしなくもないが、それは「集合」であって「全体」ではない。束芋とほぼ同世代のわたしが、むしろ強く思い至ったのは、そうした、いわば断片への居直りにたいする苛立ちである。古今東西を問わず、およそ芸術的な表現は全体を魔術的に想像させてきたからこそ、芸術という価値を社会的に公認されてきたのではなかったのだろうか。それができない不可能性こそ「断面の世代」の特徴だといわれればそれまでだが、作品を見る側としては延々と繰り返される断片のモノローグだけでは到底満足できない。先行する鴻池朋子ややなぎみわが「神話」という壮大な物語を見事に紡ぎ出しているように、(ある意味で)嘘でもいいから、想像的に全体へと一歩踏み出すことが、「断面の世代」が乗り越えるべきハードルではないだろうか。それが欠落したまま、いくら生命や身体の神秘を描き出してみても、その深度はたかが知れている。生命や身体こそ「全体」の最たるものだからだ。

2010/01/17(日)(福住廉)

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コイズミアヤ展 隣の部屋

会期:2010/01/18~2010/01/30

ギャラリー編&かのこ[大阪府]

《隣の部屋》と題されたシリーズ作品は、建築模型を思わせる白い立方体の中にさまざまなパーツが組み込まれたもの。観客はそのパーツを取り出し、自由に配置して楽しむことができる。一方、《monado》は玩具のダイヤブロックを素材にした小品群。既成品を用い、できるだけ少ない手数で造形化することを課した作品だ。ミニマルなフォルムとダイヤブロック特有のマットな色彩がマッチしてとても美しかった。

2010/01/18(月)(小吹隆文)

2010年02月01日号の
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