artscapeレビュー

2010年02月01日号のレビュー/プレビュー

チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』/ポストメインストリーム・パフォーミング

[東京都]

2月の注目ナンバー・ワンは、チェルフィッチュの新作『わたしたちは無傷な別人であるのか?』であるのは間違いないとして、いやそれと同じくらい重要なのはポストメインストリーム・パフォーミングのラインナップだろう(辛口にレビューしてしまったけれど、今月とりあげた『リッキーとロニーのバラッド』はこのイベントの第1弾だった)。プロデューサーは、丸岡ひろみと日本パフォーマンス/アート研究所の小沢康夫。とくに見逃してはならないのは、イギリスのフォースド・エンタテインメントらしい。今回、『視覚は死にゆく者がはじめに失うであろう感覚』と『Quizoola!』の二作が上演される予定。後者は、6時間に及ぶクイズ・ショー形式のパフォーマンス。その他、山下残、ホテル・モダン、山川冬樹の上演が待っている。

2010/01/31(日)

青年団『カガクするココロ』

会期:2009/12/26~2010/01/26

こまばアゴラ劇場[東京都]

猿を人間に進化させるプロジェクト、そこで活動する大学院生と大学生が織りなす舞台。本作は、演劇と科学の融合を模索している平田オリザの原点だという。それはともかく、ぼくは平田らしい脚本の妙にあらためてすっかり魅了された。主たる登場人物は、男女の学生たちが十人ほど。それぞれは恋人同士だったり、片思いしたりされたり、先輩後輩の距離なども含め、人間関係の複雑な網目模様がとても丁寧に描かれる。そんなデリケートなバランスが演劇的な面白さを豊かに発揮するのは、誰かが誰かに発したささいな一言が別の誰か、そのまた別の誰かに思いがけない反響を引き起こす瞬間だ。しかも、その反響を感じるのが役柄(別の誰かやそのまた別の誰か)より先に観客であったりするときがあって、例えば、離婚経験者の院生の前で「別れ」という言葉を不用意に学部生が発してしまうとき、学部生が言いたかった文脈とは別に、院生はその言葉をどう受けとるのかと観客は推察する(というよりも精確には脚本の力によって推察させられる)。リアクションを待つ1秒もない瞬間に生じるスリルとサスペンス。演出方法に力点が置かれている昨今の演劇界のなかで、脚本の力というものを感じることのできた上演だった。

2010/1/10(日)

メゾンダールボネマ&ニードカンパニー『リッキーとロニーのバラッド』

会期:2010/01/16~2010/01/17

スパイラルホール[東京都]

現代ヨーロッパの舞台を見る度、ほぼ毎回出くわす一種のパターンがある。非人間化あるいは動物化と形容すればいいだろうか、理性を失った登場人物たちが次第に幼児化してゆき、また暴力性をむき出しにしてゆき、欲望のままに行動し始めるという流れだ。そして、たいていの場合、舞台後半になると役者は裸になる。本作もこのパターンに思えてしまった。若い男女がアパートに暮らしている。2人はほとんど外に出ない。妄想的な2人は隣人のパーティに翻弄されたり、幽霊のような赤ん坊の存在におびえたりする。原タイトルの副題に「ポップ・オペラ」とあるとおり、エレクトロ系のPC音楽を自ら操作して俳優2人はミュージカル風に歌う。シンプルな音楽は2人の内向的な暮らしにふさわしく見えた。最終的にアニメーションのなかで2人はアパートの窓から飛び降り自殺する(その後で飛翔のイメージが展開される)。甘美な絶望感。それは、リアルな絶望感が蔓延する日本で上演するとリアリティを感じられず、たんなる若い欧米人のファンタジーとしか映らなかった。

2010/1/17(日)

冨士山アネットproduce『EKKKYO~!』(企画・構成:長谷川寧)

会期:2010/01/14~2010/01/17

東京芸術劇場小ホール1[東京都]

ダンス、演劇、音楽演奏など、クロスジャンルで集まった六組を次々と食す特別コース料理のような本公演。僕は正直、バラエティあるディッシュの数々をうまく楽しめなかった。本公演は今回が二度目、出演は冨士山アネット、ままごと(柴幸男)、ライン京急、CASTAYA Project、岡崎藝術座(神里雄大)、モモンガ・コンプレックス。いま大注目のままごとは、友だち2人のストーリーを3人の役者が次々と入れ替わりながら上演するポスト・チェルフィッチュの方法に、さらに「歩く」というルールを設定。横断したり縦断したり、歩く方向が変わると舞台空間にさまざまなラインが構成される。さながらソル・ルウィットのよう。岡崎藝術座は、宇宙飛行士3人が地球に帰還する物語を、役者3人が横に並んでへヴィメタルのライブのごとく歌い叫びながら演じた。こうした方法的なアプローチは、いまや若い演劇人の得意とするところ。ただ、そんな彼らの姿勢に好感を抱いている僕がのれないでいた。観客は盛り上がっている。ぼくには、彼らの方法的試行がいわば公式の応用のように見えたのだ。「このXになにかを代入すればはいできあがり」ってこと? 本当にしたいことはなんなのか? 「越境」とは、どこからどこへの越境なのか? それがわからないままだったのだ。

2010/1/17(月・祝)

2010年02月01日号の
artscapeレビュー