artscapeレビュー
交流するやきもの──九谷焼の系譜と展開
2015年08月01日号
会期:2015/08/01~2015/09/06
東京ステーションギャラリー[東京都]
江戸初期のいわゆる古九谷から江戸後期の再興九谷、明治の輸出陶磁、そして現代作家の作品まで、九谷焼360年の歴史を、「交流」をキーワードとしてたどる展覧会。展示は6章に分かれている。1章は古九谷。古九谷についてはその産地を巡って論争が続いているが、ここでは加賀の地に伝世してきた品としての色絵磁器が紹介される。たとえそれがどの地でつくられた焼物であったとしても、青手の色絵が後の九谷の焼物に大きく影響を与えてきたことは間違いないからだ。また論争のひとつとして、素地移入説(伊万里などの無地の器に九谷で絵付けをした)や、鍋島家と前田家が姻戚関係にあり、それによって人や技術が交流した可能性が示唆される。2章は再興九谷。1655年に開かれた九谷の窯は、約50年後の1710年頃に廃絶する。その100年後に九谷の焼物を復興したのが若杉窯であった。若杉窯ではおもに染付芙蓉手の日用品のほか、赤絵や古九谷青手風の器がつくられていたという。古九谷の色絵磁器を本格的に復興させたのは、豪商吉田屋。私財を投じて1824年に吉田屋窯を開いて優れた職人を集め、古九谷に倣った色絵磁器を生み出していった。3章では吉田屋窯と、職人・粟生屋源右衛門の仕事に焦点が当てられている。4章は明治期の輸出陶磁。明治政府の殖産工業政策にのって、九谷では欧米への輸出を目的とした陶磁器が大量に生産されるようになった。これらの製品は欧米では「ジャパンクタニ」と呼ばれて人気を博したという。絵付は赤を中心に金彩を加えて微細に文様を施したものが中心で、私たちが九谷焼と聞いてイメージするおおらかな意匠の青手とはまったく異なる。展示品にはベルナール・パリッシーの作品を思わせる、半立体の装飾を施した器もある。1887(明治20)年の九谷焼生産額の80%は輸出向。製品は九谷から横浜に鉄道で運ばれ、海外へと輸出された。しかしこの輸出は世紀転換期には欧米の趣味の変化で減少し、また関東大震災で横浜の輸出商が壊滅的打撃を受けて輸出は衰退、ふたたび国内向けの製品へとシフトしていく。新しい展開を模索する中で九谷の初代德田八十吉は釉薬の研究によって表現の幅を拡げていった。また板谷波山や北大路魯山人は九谷焼に触れたことをきっかけに陶芸を初めたこと、富本憲吉が九谷で色絵の技術を習得したことなど、5章では近代の九谷焼とこれら作家たちとの交流が紹介される。6章は現代の九谷焼。初代から独自の釉薬の配合を学んだ三代德田八十吉による、色釉のグラデーションを用いた新たな九谷焼の表現の数々が並ぶ。
意外なことに、このように九谷焼を通史でみる展覧会は初めて行なわれる試みなのだという。展示空間には興味深い工夫がなされている。展示全6章は、九谷焼を特徴付ける六つの色──緑・赤・黄・紫・紺青と金──と紐づけられて、解説パネルやキャプション、展示台の色に反映されている。エレベータを降りてすぐの3階第1室では九谷焼の歴史がダイジェストで紹介されている、広い空間を贅沢に使った構成には驚くと思う。図録の写真は三好和義氏、デザインはシルシの上田英司氏。[新川徳彦]
2015/07/31(金)(SYNK)