artscapeレビュー

地点『CHITENの近現代語』

2015年05月15日号

会期:2015/04/15~2015/04/16

アンダースロー[京都府]

明治期に制定された大日本帝国憲法に始まり、終戦の詔勅(玉音放送)、日本記者クラブでの昭和天皇の会見記録、夏が巡るたびによみがえる敗戦の記憶を扱った朝吹真理子の小説『家路』と、戦後の被爆者の生に触れた別役実の戯曲『象』という2編のフィクションを経由して、改正問題で揺れる現在の日本国憲法へ。『CHITENの近現代語』は、日本の近代の始まりから敗戦を経て現在へ至るまでのさまざまなテクストを引用し、コラージュすることで構成された演劇作品である。断片化されたテクストが、5人の俳優たちによって、アクセントや分節、音程やスピードを変幻自在に変化させて発語されることで、意味内容の伝達よりも音響的現前として迫ってくる。とりわけ、冒頭での大日本帝国憲法のシーンが圧巻。暴力的なまでに切り刻まれたテクストが、俳優の身体という楽器によってポリフォニックに奏でられ、戦慄的なまでに美しい。テクストの分裂、複数の声が口々に発語する多重化、詠唱のようにハーモニックな和音の同調性が共存することで、意味が破壊されたテクストの残骸が音響的に空間を漂っていく。あるいは、アコーディオンで、切れ切れの音程で引き裂かれるように奏でられる君が代の旋律の美しさ。
だがこの美しさは、単純な賛美ではない。アコーディオンの奏者は目を頑なに閉じ、両側から支えられないと自立できず、アコーディオンの蛇腹を他者に引っ張ってもらわずには演奏ができない。俳優たちの身体には常に外部からの圧力や負荷がかかっている。重力に抗えずくずおれる身体。あるいは機能不全や麻痺に陥る硬直した身体。それは発語を強要する負荷なのか、声を奪い沈黙させようとする圧力なのか。『CHITENの近現代語』は、空間(観客と今ここで共有する空間、日本語という共有空間、歴史と接続した空間、社会的現実と地続きの空間)に、俳優の身体性と音響的現前によって楔を打ち込もうとする。発語する複数の声たちは、「わたし」/「あなた」の指示的関係の中で幾重にも分裂し、「臣民/国民」として数値化され、「日本語」という言語的共同体の中にいくつものひび割れと異質さを打ち込んでいく。コラージュ素材として用いられるテクストの多様性もまた、祝詞のような大日本帝国憲法の御告文、戯曲の中の会話体、終戦の詔勅、議会での演説といった文体の差異を際立たせるとともに、声の主体のありかを問いかける。国家、国民、固有名を持った個人、「朕」という特殊な一人称……。ここでは、言語的パフォーマンスとその圧倒的な強度によって、言語的共同体の出現とその解体をもくろむことが仕掛けられている。


写真撮影:Hisaki Matsumoto(2枚とも)

2015/04/16(木)(高嶋慈)

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