2022年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

劇団スポーツ『怖え劇』

2022年04月01日号

会期:2022/03/18~2022/03/21

王子小劇場[東京都]

パワハラはなぜいけないのか。改めて問う必要すらない(はずなのに一部からはいまだに必要悪論が聞こえてくる)ようにも思えるこの問いを愚直に正面から引き受け、演劇ならではのかたちで自分たちなりの応答をしてみせる。劇団スポーツ『怖え劇』はそんな作品だった。

劇団スポーツは法政大学文学部の同期である内田倭史と田島実紘によって2016年に結成された劇団。2017年からは早稲田演劇倶楽部を拠点に活動し、2018年には俳優の竹内蓮が加わり現在の3人体制となっている。今作はもともと、佐藤佐吉演劇祭2020参加作品として2020年3月に上演が予定されていたものだったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため演劇祭自体が中止となり、それに伴い公演も中止に。今回、佐藤佐吉演劇祭2022参加作品として2年越しの上演実現となった。

これまでの劇団スポーツの多くの作品では内田と田島が共同で作・演出を担当していたが、今作では内田が単独で作・演出を担当。俳優それぞれの持ち味を活かす台本と演出はそのままに、コメディ色は残しつつもパワハラというテーマと正面から向き合った今作は劇団としても新たな挑戦と言える作品になっていた。なお、『怖え劇』は4月5日(火)まで映像配信もされている。以下では結末まで含めた作品の内容に触れるため注意されたい。


[撮影:月館森]


公演を控え、新人劇団員の真隈(竹内)は稽古場とバイト先であるゴーストレストランの往復生活を送っている。入団して初めての新作公演を楽しみにしつつ、演出の尾上(甲野萌絵)のこれまでとは異なる様子に戸惑う真隈。先輩劇団員の工藤(タナカエミ)と矢野(てっぺい右利き)によれば、新作に臨む尾上の厳しさは再演のときの比ではないらしい。今回、演出助手として参加する金丸(三宅もめん)がしばらく休団していたのも、尾上の演出に耐えられず俳優を続けられなくなったからなのだという。真隈と同期の結木(高久瑛理子)も萎縮気味でうまく演技ができない。苛立つ尾上の「指導」はさらにエスカレートしていく。


[撮影:月館森]


一方、真隈はバイト先でも店長(タナカ)からパワハラを受けていた。稽古場とバイト先の往復、そして双方で受けるパワハラに疲れ切った真隈はやがてバイト先=現実と新作公演の舞台としてのゴーストレストラン=虚構の区別がつかなくなってしまう。電車に乗り、家に帰り着き、布団に入る(マイムをする)真隈。だがそこはいつまでも舞台の上のままだ。


[撮影:月館森]


どんな場所にでもなれる稽古場とさまざまな顔を持つゴーストレストラン(ウーバーイーツなどの配達に特化した、複数の「専門店」[たとえば作中ではエスニック、豚丼、唐揚げ、お好み焼き、ラーメンなど]のキッチンを兼ねる形態の店舗)を重ね合わせる設定が秀逸だ。どんな場所にでもなれるはずの稽古場=ゴーストレストラン=舞台はしかし俳優を閉じ込める檻となり、真隈はどこにも行けなくなってしまう。それは演劇という枠組みを使ったメタなギャグであると同時に、小劇場というフィールドで活動する俳優の置かれた苦しい状況を直球で表わしたものでもあるだろう。

俳優を「閉じ込める」のは金銭的、時間的(≒体力的)問題だけではない。尾上のパワハラに対して見て見ぬフリをするべきではないという真隈の主張に対し、それでは公演が中止になってしまうと劇団員たちは微妙な反応をする。公演を打つこと、あるいは劇団として活動をすることそれ自体が、他者との約束というかたちで俳優に対するある種の束縛となっているのだ。


[撮影:月館森]


尾上のパワハラ問題は解決しないまま公演本番がやってくる。だが、真隈はその舞台上で突然、バイト先から退勤し、電車に乗り、家に帰るマイムをやりだす。台本にない、作品をぶち壊しにする行為を尾上は止めようとするが、ますますエスカレートしていく真隈。やがてほかの俳優やスタッフ(舞台監督:水澤桃花、照明:緒方稔記、音響:大嵜逸生)も真隈の「芝居」に乗っかり、桜が舞い、蛍の光が流れる祝祭的な空気のなかで、店長と真隈は和解し、尾上は金丸とともに劇団をはじめた頃のことを思い出しetcetc、怒涛の大団円。一同は花見をするために劇場を出ていくのであった。


[撮影:月館森]


勢いと感動に任せてすべてをうやむやにするエンディングにも思えるがそうではない(いや、尾上のパワハラについて何の決着もついていないという意味でそれは正しくもあるのだが……)。結木の台本にはお守りのようにしてスーパーマンの絵が書き込まれていた。結木は先輩から言われた「役者はスーパーマンだって思えば、何でもできる」という言葉の意味を忍耐と捉えているフシがあり、また、真隈はそれをアンパンマンと取り違えてしまうのだが、エンディングに至ってその意味は自己犠牲から可能性としての「何でもできる」へと読み替えられていく。パワハラはいけない。なぜなら、何でもできるはずの俳優の、演劇の可能性を潰してしまうからだ。ラストで爆発する演劇のエネルギーは軽やかに、しかし力強くそう主張していた。

現実と虚構の区別がつかなくなり演劇に閉じ込められてしまった真隈は、その区別のつかなさを反転することで「現実」を改変してみせた。だがそもそも演劇は最初から虚構であると同時に複数の意味で現実でもある。一方、現実もまた、習慣や法律など、複数の「虚構」によって構築されたものだ。だから、『怖え劇』のエンディングが示しているのは演劇の可能性だけではない。強固と思える現実だってきっと、書き換えることは可能なはずだ。


[撮影:月館森]



劇団スポーツ:https://gekidansport.com/
劇団スポーツTwitter:https://twitter.com/gekidansport
『怖え劇』配信映像:https://twitcasting.tv/gekidansport/shopcart/144514

2022/03/20(日)(山﨑健太)

2022年04月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ