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2022年12月15日号のレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022
フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』
松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』

ロームシアター京都 サウスホール、THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「美」という絶対的権威の下に女性の身体を搾取・消費してきたバレエの制度に対し、ポルノ・サーカス・フリークショー・スタントの猥雑さやキッチュさを総動員して過激なアンチを突きつけるフロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』。月経の理不尽さや痛みをコントロールするために、相撲の四股を参照した新たな「儀式」を開発する松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの『女人四股ダンス』。本稿では、「女性の身体の表象/不可視化されるもの」「身体の鍛錬・改造」「“痛み”をどう肯定的に取り戻すか」という共通項から、この2作品を取り上げる。

ウィーン出身の気鋭の振付家、フロレンティナ・ホルツィンガーは、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2021 SPRINGで映像上映された『Apollon』においても、バレエとフリークショー、ボディビル、マシン・トレーニング、スプラッター、SMプレイ、スカトロを接続させ、全裸の女性パフォーマーによる血みどろの饗宴を通して、「規範的な美」「男性のポルノ的欲望の視線」の拘束からの解放を提示した。『Apollon』というタイトルは、1928年に同名のバレエ作品を振付け、バレエ界に父として君臨するジョージ・バランシンを示唆する。作中で『スター・ウォーズ』のパロディが示すように、「悪役かつ絶対的存在である父(=ダース・ベイダー/バランシン)」を女性たちが倒すというストーリーが、さまざまな身体鍛錬や「逸脱的」な快楽のプレイを通して描かれる。

一方、三部作の最後を飾る『TANZ』が下敷きにするのは、19世紀ヨーロッパのロマンティック・バレエ。儚く美しくこの世のものではない「妖精」を表現するために、トゥシューズを履く苦痛を女性だけに与え、ポワント(爪先立ち)で重力を感じさせない軽やかさを求め、実際に吊り物の使用で「飛翔シーン」が演じられた。ロマンティック・バレエの構成を踏襲し、二部構成の本作では、第一幕で「老いた女性教師が指導するバレエのバーレッスン」が展開する。ただし、女性教師は全裸。「暑いでしょ」と言われた生徒たちも次々と服を脱ぎ、全裸でのバーレッスンが淡々と続く。脱衣の指示にも「型の習得」にも従順に従う生徒たち。「教師による生徒の支配」を通じての、「(バレエのポジションという)規範的身体の獲得」という二重の身体の支配があぶり出される。だがそこに、サーカスの曲芸、マジック、スタント、フリークショーなど「ハイアートの領域外」が召喚され、スペクタクルとしての同質性を暴くと同時に、生徒たちは、トゥシューズとポワントに依存しない「超人的な飛翔能力」を試み始める。お団子に縛った髪で身体を吊るワイヤーアクション。回転する宙吊りのオートバイにまたがり、脚や腕だけで身体を支えるパフォーマーは、「危険なアクションをこなすスタントマン」というジェンダー規範を転倒させつつ、「バイクにまたがり腰を振る美女」というポルノの定番を示し、崇高さもまとう。

生徒たちが魔女やオオカミに姿を変え、血みどろの饗宴と惨劇を繰り広げる第二幕のハイライトは、肩甲骨辺りの肉に巨大な鉤針を貫通させてワイヤーで吊る、衝撃的な「空中浮遊」だ。ただし、女性たちの「勝利のポーズ」で終わる『Apollon』と比べ、ラストは皮肉。狂乱の末、魔女もオオカミも老教師も血糊まみれで死ぬが、何事もなかったかのように再びバーレッスンが開始される。「規範的身体の鍛錬」はそれほどまでに深く内面化されているのだ。



フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022)
[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]



フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022)
[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]


一方、リサーチを元に、レクチャー・パフォーマンスとダンスを融合させる松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの『女人四股ダンス』が扱うのは月経。近年、「生理の貧困」が構造的問題として指摘され、自治体や学校でのナプキンの無料配布や、女性の心身の不調をテクノロジーで解決を目指す「フェムテック」の商品開発が進み、月経についてオープンに語られる機会が増えてきた。だが、「舞台公演と月経」の関係は「ない」ことにされてきたのではないか。本作の出発点は、松本自身が、昨年のKEXでの公演を月経中の身体で踊った体験だ。月経=血の持つエネルギーを想像し、集めたエネルギーで大地を踏みしめ、増幅させる。かつて月経中の女性を隔離した「月経小屋」の目的が「月経で失われる霊的エネルギーの回復」でもあったことと、古来より邪気をはらう「足踏み」の儀式性を融合させた。もちろんここには、「月経」というまだ社会に根強いタブーと、「女性が大相撲の土俵に上がる禁忌」という、2つのタブーが重ねられている。

月経についての知識の問い、松本とゲスト出演者(内田結花)の「月経日記」を交えながら、股を開き、力強く地面を踏みしめる四股のムーブメントがひたすら繰り返される。もう一人の男性出演者(美術家の前田耕平)の参加に加え、2人の「月経日記」の朗読は月経の個人差や時期による症状差を示す。言語化の作業と同時に、「理不尽で共有も困難な痛みをどう想像するか」を徹底して身体化して落とし込んだ。



松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ『女人四股ダンス』(2022) 
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]



松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ『女人四股ダンス』(2022) 
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]


舞台上で不在化されてきた「月経中の身体」に対し、「女性の身体美の規範化」「制度化された大文字の芸術」の背後で不可視化されてきたものとして『TANZ』が暴くのが、男性のポルノ的な欲望の視線だ。チュチュという覆いを取り去り、開脚や脚を高く上げる全裸のダンサーたちは、「美しい」とされるポジションがポルノと同質であることを突きつける。四つん這いで開脚し、一列に並ぶダンサーたちの「ヴァギナの品評会」を老教師が行なうシーンは、その真骨頂だ。「男性不在」の本作だが、「教室」という舞台設定は、「教師と生徒」というヒエラルキーによる規範の再生産構造を提示する。

そして両作とも、「身体の鍛錬」を通して、ジェンダーの不均衡な構造下でこれまで声を与えられず、「ない」ことにされてきた「理不尽な痛み」にどう向き合い、どう肯定的に自身の手に取り戻すかという強い意志に貫かれている。特に『TANZ』における「肉に貫通させた鉤針で身体を吊る空中浮遊」のシーンが象徴的だ。纏足やコルセットにも通じる、「美」という大義名分に奉仕させられた、トゥシューズで足を痛めつける苦痛。一方的な消費の眼差しで搾取されてきた「痛み」。その両方の痛みを、現実に血を流す肉体の「痛み」でもって自分自身の手に取り戻すこと。「空中浮遊」を支えるワイヤーは、ほかの女性パフォーマーたちの手で支えられている。物理的なリフトも、「男性の視線」にもよらずとも、自分たち自身の力でこんなにも優雅に力強く「翔べる」ことを宣言していた。



公式サイト:https://kyoto-ex.jp

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』

会期:2022年10月1日(土)~10月2日(日)
会場:ロームシアター京都 サウスホール(京都府京都市左京区岡崎最勝寺町13-13)

松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』

会期:2022年10月8日(土)~10月10日(月・祝)
会場:THEATRE E9 KYOTO(京都府京都市南区東九条南河原町9-1)

関連レビュー

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』上映会|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年04月15日号)

2022/10/10(月)(高嶋慈)

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KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022
ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』

会期:2022/10/15~2022/10/16

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

タイの俳優、劇作家、演出家、プロデューサーであるジャールナン・パンタチャートが、タイと隣国のミャンマーの俳優たちと作り上げた多言語の演劇作品。荒唐無稽でゆるい雰囲気で始まるが、国家が基盤として欲する神話や伝説の虚構性、「神格化された絶対的権威」としての演出家を通した王室プロパガンダ批判、国籍・民族・言語といったアイデンティティと「役」の着脱(不)可能性など、さまざまなメタ批判を重ねていく。タイとミャンマーの歴史を古代から近代の植民地支配、そして現在の軍事クーデターへと駆け抜けた先に、「日本人観客」の消費の眼差しの倫理性を突きつける。重層的で非常に秀逸な作品だ(なお、ミャンマー/ビルマの表記の使い分けについて、本稿では、KYOTO EXPERIMENTでの表記に従った)。

会場に入ると、舞台上には、お土産用のいかにもエキゾチックなフィギュアが並べられ、モニターには絢爛豪華な寺院や青い海など「魅力的な観光地」のアピール映像が旅行会社の広告のように流れ、観客はまず「観光客」として迎え入れられる。また、上演前、観客=観光客は、舞台上を回りながら俳優が英語や日本語で「ガイド」を務める「ツアー」に参加できる(もちろん、「観光客のふるまい」として、写真や動画撮影は推奨されている)。



ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』(2022)
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]


前半で展開されるのは、ジャールナン自身の「伝説的な半生」だ。民族衣装風の服装と儀式的なダンスを交えて語られる、桃太郎のように人間を逸脱した生誕。「賞を総なめにしたスーパー演出家」「どんな役でもこなせるスゴい俳優」「踊るだけで雨を降らせる伝説のダンサー」……。ジャールナンを崇拝する俳優たちは、トランプ前大統領の信奉者のようにおそろいの顔写真Tシャツに着替え、背後のモニターやスクリーンにはジャールナンの「神格性」を表現するふざけたCG合成映像が映る。だが奇妙なことに、俳優たちは誰もジャールナン本人に会ったことがないという。



ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』(2022)
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]


「神のような絶対的権威」であるジャールナンへの崇拝と忠誠度を競い合い、互いに牽制しあう俳優たちの語りは、「誰がジャールナンの役を演じるのにふさわしいか」をめぐって口論に発展する。「神聖な役をビルマ人が演じるなんて」と発言するタイ人男優。「(マイノリティに)チャンスを下さい」と反論するビルマ人女優。「タイの王子と少数民族の娘の悲恋」の配役をめぐる議論でも、「国籍や民族をめぐる帰属」とマジョリティ/マイノリティの微妙なパワーバランスや差別意識が露呈する。次第に浮き彫りになるのは、4人の俳優自身のバックグラウンドの差異や複雑な対立構造だ。タイ人(3人)/ビルマ人(1人)という非対称性。タイ人どうしでも、方言の強い地方出身者、先祖が中国出身の華僑という細分化された周縁性がある。女優のひとりは臨月に近い妊婦だ。「妊娠してなければジャールナンの役がやれたのに」という台詞は、マタハラを示唆する。ひとつのシーンを終えるたびに何度も衣装を着替える俳優たちは、国籍・民族・文化・言語的アイデンティティと「着脱可能なものとして役を演じること」との齟齬をメタレベルで上演している。さらに会話には、タイ語、ビルマ語、少数民族の言語、英語、フランス語が混じり合い、植民地支配の歴史が影を落とす多言語状況が浮かび上がる。このようにして、おそろいの顔写真Tシャツが可視化するように「ジャールナンへの崇拝と忠誠」によって形成される「共同体」の内部に分裂や亀裂が出現し、「近代国民国家の均質性」が揺さぶられていく。

後半では、写真や映像で繰り返し偶像化される「ジャールナン神話」はいつのまにか消えてしまう。代わりに語られるのは、男装して象に乗りビルマ軍と戦ったタイ王妃、植民統治下のビルマの不条理さを描いたジョージ・オーウェルの『象を撃つ』、独立後に繰り返される軍事クーデターという近現代史の断片だ。「村民の殺害を命じられた」という証言は時代や場所が曖昧化され、暴力や迫害の反復や遍在性を示す。2021年にミャンマーで起きた国軍によるクーデターに対し、2014年の軍事クーデターで成立したタイ政権は非難声明を出さなかったこと。



ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』(2022)
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]


本作の特徴である、一見脈絡のない断片的な語りは、国民国家の統合手段である「整合的で一貫したナラティブとしての歴史」への抵抗でもある。そして、途中でどこかへ消え失せた「絶対的権威として君臨するジャールナンの偶像」は、演出家の権力性への自己批判であるとともに、「タイ国家が統治の手段として国民にばらまく国王の御真影」「軍事政権のトップ」へと姿を変えて回帰してくる。

そして、俳優自身が親族や知人が軍事政権の弾圧を受けた当事者であることが語られる終盤、「現実の政治」がフィクションの領域を突き破って、一気に観客席に侵入してくる。冒頭、「気楽な観光客」として歓待された私たちは、舞台上の当事者たちにどのように向き合えばよいのか。現実の弾圧状況も、あなたたちは観光客と同じ眼差しで「消費」してしまうのかという倫理的問いを本作は突きつける。この問いを補強するのが、一見、「催涙弾の煙の立ち込めるデモ現場」に見える映像をスクリーンに投影する仕掛けだ。この映像は、実は、舞台前面に置かれたアクリルボックスに、チープでキッチュなお土産のフィギュアを閉じ込め、中でスモークを焚きながら「中継」されている。あなたたち観客は「観光客と同質の消費の眼差し」を内在化しているのではないかという無言の非難。あるいは、「舞台上にあふれる演出家の偶像」を通して「王室プロパガンダ批判」を繰り広げる本作が投げかける、「いかにイメージが信用できないか」という視覚の制度への批判。



ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』(2022)
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]


このように、重層的な仕掛けで、(観客を含む)アイデンティティの差異や分断、視線の政治性を鋭く問う本作だったが、それだけに、日本語タイトルには疑問が残った。邦題では『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だが、原題は『I Say Mingalaba, You Say Goodbye』と異なる。「Mingalaba」はビルマ語で「こんにちは」にあたる挨拶の言葉だ。「Mingalaba」と挨拶する「I」とは誰で、「Goodbye」と英語で返す「You」とは誰か? ビルマ語で挨拶したビルマ人と、「支配者の言語」で返すイギリス人か。「支配者の言語」を身に付けた植民地エリートとの、ビルマ内部の分裂なのか。あるいは、「片言の相手の国の言葉」で挨拶して心理的距離を縮めようとする「よき観光客」に対し、「グローバルな言語」で応対するビルマ人なのか。「他者」との埋められない距離やすれ違いを原題は端的に提示するが、邦題はその複雑なニュアンスを捨象してしまった(あるいは、このカタカナの並列化には、あらゆる差異をフラットに均してしまう日本の均質性という暴力が表出しているともいえる)。「個人」として出会っても、既に背負ってしまった先入観やステレオタイプな他者イメージにより、私たちはそのつど出会い損ねてしまう。それでも、さまざまに帰属の異なる者どうしが舞台上に集う本作には、やはり演出家の希求が込められている。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2022_jarunun_phantachat/

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KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 総評

会期:2022/10/01~2022/10/23

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、THEATRE E9 KYOTO、京都市京セラ美術館、京都中央信用金庫 旧厚生センターほか[京都府]

コロナ禍で制限されていた海外アーティスト招聘が2年ぶりに実現し、充実のプログラムだったKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下KEX)。本稿では、「ニューてくてく」という柔軟かつ深い思考の広がりを促すキーワードの下、全体的な総評を述べる(なお、梅田哲也『リバーウォーク』、フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ』、松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』については個別の評を参照されたい)。

「歩き続ける身体」のイメージを「境界」との接触面として提示するのが、ミーシャ・ラインカウフの映像展示と、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナス with 志賀理江子のビジュアルコンサート『Bipolar』。ミーシャ・ラインカウフの《Fiction of a Non-Entry(入国禁止のフィクション)》は、光のゆらめく海底をゆっくりと歩む人影が映る、幻想的で美しい映像作品だ。ラインカウフは、イスラエルとヨルダン、ジブラルタル海峡のスペインの飛び地とモロッコの間など、陸路では越境困難な国境を、「海中を歩く」ことで自由に横断してみせる。だが、酸素ボンベの重みや水圧に耐えながら歩む姿は、逆説的に、見えない圧力や不自由さを感じさせる。フーコーが指摘するように、規範や抑圧を個人が内面化し、不可視化されることで権力は完成する。そのとき、「歩行」という日常的かつシンプルな行為は、意志表明や抵抗の手段としての行進やデモを示唆すると同時に、水中に吐き出される息の泡は、「聴こえない声」を可視化する。



ミーシャ・ラインカウフ「Encounter the Spatial —空間への漂流」(2022)
[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


『Bipolar』では、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナスによる(事前に耳栓が配られるほどの)爆音の演奏のなか、巨大スクリーンに志賀理江子の新作映像が投影される。闇に浮かぶコンクリートの「一本道」を、ひたすら歩き続ける人物が映る。それは東日本大震災後に建設された巨大な防潮堤だが、津波の轟音にも、人の叫び声にも聴こえる有機的な音を「振動」として身体に浴び続けているうち、生と死の境界線や異界への通路にも見えてくる。フラッシュバックの嵐のように、視認不可能なほどのスピードで、不穏な写真が連射される。崖の上で何かを掘り返す人。回転して螺旋を描く掘削機械。「復興事業」という名の利潤追求か、何かを隠蔽するための穴を掘っているのか。光で顔を消されたポートレート。被写体を強制的に「死者」「亡霊」に転移させる写真の暴力性。上演時間をカウントする赤い数字が滲み、時間が融解していく。ジェット機のエンジンの轟音のようなノイズが「もうすぐ離陸するぞ」と叫び、防潮堤を異界への滑走路へと変える。寄せては返し、マグマのように沸き立つ赤い波の映像が冒頭と終盤で繰り返され、音のループや反復とともに、トラウマの回帰や非線的に失調した時間を示す。その奔流をせき止めようとする防潮堤は、死者や異界との境界であると同時に、「一直線の道を歩く」行為は(音楽がもつ)リニアな時間構造や「前進」を示唆し、極めて多義的だ。



メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナス with 志賀理江子『Bipolar』(2022)
[撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT]


一方、物理的な歩行や「電話の向こうの知らない誰かと通話する」といった観客自身の能動性を作品成立要件とする体験型の作品群(梅田哲也、ティノ・セーガル、サマラ・ハーシュ)も、今年のKEXの特徴だった。特に、「歩行による移動が視線の定位を揺さぶり、新たな視点の獲得をもたらす」ことを体感させるのが、森千裕と金氏徹平によるアートユニット「CMTK」の屋外展示だ。森が都市の断片を収集した写真を金氏がコラージュし、大型のレンチキュラー印刷で出力。見る角度でイメージが移ろい、視点の唯一性を軽やかに撹拌する。



KYOTO EXPERIMENT ミーティングポイント
CMTK(森千裕×金氏徹平)「Star & Dust(KYOTO)」(2022)
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


また、歩行を伴う身体的なリサーチに基づく語りと舞台上でのモノの配置換えにより、観客に想像上の旅をさせるのが、リサーチプログラム「Kansai Studies」の成果として上演された、建築家ユニットdot architects & 和田ながらの『うみからよどみ、おうみへバック往来』。大阪湾から何本もの川を逆流して琵琶湖へいたる水の旅、明治の近代化事業である疎水運河、治水工事による人工河川など「琵琶湖を起点とする水のネットワーク」が、木材、石、鉄板、流木、飲料水のペットボトルなどの配置を組み替えながら語られ、観客が想像上の「マップ」とともに旅する感覚を触発すると同時に、実際に舞台上で工具を用いて「土木工事」を演じて見せた。



Kansai Studies dot architects & 和田ながら『うみからよどみ、おうみへバック往来』(2022)
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


一方、より政治的な位相で、客席にいながらにして「視線の定位」を揺さぶられる体験が、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だった。開演前、「観光客」として舞台上に歓待された観客は、「神格化された絶対的権威」として舞台空間に氾濫する演出家の顔写真/タイの王室プロパガンダ批判を経て、終盤、タイとミャンマーの俳優たち自身が舞台上で語られる軍事クーデター反対デモの当事者であることを知る。そのとき突きつけられるのは、「日本人観光客」と同質の消費の眼差しを舞台に向けているのではないかという倫理的な問いだ。

ほかの海外の演劇作品も充実だった。フォースド・エンタテインメント『リアル・マジック』では、3人の俳優が、司会、出題者、解答者の役を順番に入れ替えながら、「テレビのクイズ番組」のワンシーンを延々と反復し続ける。「正解は明らかなのに、(あえて)間違った答えを言い続ける」不条理なループ構造。くどい「笑い声」のSEの効果もあいまって、「クイズ番組の視聴者=舞台の観客」のメタ的な二重性のうちに、「何が“正解”なのか麻痺した異常状態の常態化」がじわじわと浸透してくる。しかも果てしなく連呼されるのは、「消費」「資本主義」「セクシズム」を端的に示す3つの単語だ。



フォースド・エンタテインメント『リアル・マジック』(2022)
[撮影:吉本和樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


そして、アーザーデ・シャーミーリーの静かな会話劇『Voicelessness ─声なき声』が扱うのは、「死者の声(抑圧された者の声)を聴くこと」の可能性と倫理性だ。「2070年のイラン」という近未来の設定下、主人公の若い女性は、50年前の祖父の失踪事件の真相を突き止めるため、自作の装置を用いて昏睡状態の母と会話する。物理的な死者と、昏睡状態すなわち「声を封じられた者」。だが、「こだま」の反響が身体を離れても存在可能な声であるように、彼らの「遅れて届いた声」は受信可能なのではないか。「声の復元」の試みは同時に、「隠された過去を暴く」という倫理的問題との両義性を帯びる。また、「病前の母親の姿をデータ再生した映像」は、紗幕のスクリーンの向こう側に立つ生身の俳優によって亡霊的に演じられる。娘と母を隔てるスクリーンは、母娘の確執、生者と死者の隔たりを可視化すると同時に、現実の反映/遮蔽して見えづらくする装置でもあり、両義的だ。「SF」の設定だが、「科学的」説明もそれらしきギミックも登場しない本作は、「演劇」自体が、「語る」装置であること以上に、「他者の声を聴く」ためのものでもあることを示唆する。そして、死者、抑圧・忘却された者、未だ生まれざる胎児など「聴こえない声」の可視化への希求という点で本作は、海中を歩くラインカウフの映像と歩みを共にするのだ。



アーザーデ・シャーミーリー『Voicelessness ─声なき声』(2022)
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT]


公式サイト:https://kyoto-ex.jp

2022/10/23(日)(高嶋慈)

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山岸剛「Tokyo ru(i)ns」

会期:2022/11/01~2022/11/14

ニコンサロン[東京都]

山岸剛は2021年に『東京パンデミック──カメラがとらえた都市盛衰』(早稲田大学出版部)と題する著書を上梓している。新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言下の東京の様相を、写真とテキストで批評的に浮かび上がらせた意欲作だが、新書版という制約もあり、掲載されたモノクロームの写真図版の解像度、大きさが不足していて、その意図がうまく伝わり切れていないもどかしさも感じた。今回のニコンサロンでの個展に出品された23点は、同書におさめられたものが中心だが、カラー写真でプリントされ、大きく引き伸ばされているので、面目を一新する作品展示になっていた。

山岸は、展覧会に合わせて刊行した小冊子『Tokyo ru(i)ns』で、2019年6月から開始された横長、あるいは縦長のパノラマ画面で東京の各地を撮影したシリーズについて、こんなふうに書いている。

「東京を廃墟に見立て、遺跡として眺める、東京を、かつて華やかなりし都の跡を望むように、ある距離をとって、遠みから観察する。未来に破局が起こってわれわれの文明が滅び去った、その残骸の只中で、異郷からの客として見知らぬ遺跡の発掘現場に初めて立ち会っている、そんなふうに眺める」

この意図は、今回の展示作品でほぼ過不足なく実現しているのではないだろうか。「ある距離をとって、遠みから観察する」という視点を貫くことで、東京湾岸地域を中心としたパンデミック下の東京のうごめきが、異様なほどにありありと浮かび上がってきていた。パノラマ画面の写真による視覚的な情報量の拡張が、とてもうまく活かされたシリーズといえる。

もう一つ印象に残ったのは、東京の写真群の前(展覧会の始まりのパート)に一枚だけ、「2011年5月1日、岩手県宮古市田老野原」の写真が展示されていたことである。山岸には『Tohoku Lost, Left, Found』(LIXIL出版、2019)という著書もあり、東日本大震災以後の東北地方・太平洋沿岸の建造物を、克明に記録してきた。「Tokyo ru(i)ns」の撮影を開始したバックグラウンドに、東日本大震災があり、その経験が「東京を廃墟に見立て、遺跡として眺める」という発想につながっていったことがよくわかる展示構成だった。


公式サイト:https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2022/20221101_ns.html

2022/11/07(月)(飯沢耕太郎)

水越武「アイヌモシㇼ──オオカミが見た北海道──」

会期:2022/11/10~2022/11/27

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

水越武は、1988年に長野県御代田町から屈斜路湖畔の北海道弟子屈町に写真撮影の拠点を移した。以来、30年以上にわたって、北海道の自然・風土にカメラを向け続けてきた。今回、北海道新聞社からそれらの写真を集成した新刊写真集『アイヌモシㇼ──オオカミが見た北海道──』が刊行されるのを記念して開催された本展では、数ある写真群から選りすぐった33点を展示していた。

タイトルの「アイヌモシㇼ」というのは、アイヌ語で「人間の大地」を意味する言葉だという。山、海、森、川、湿原などが織りなす北海道の大自然は、この言葉とは裏腹に、人間の営みを寄せつけない厳しさを孕んでいる。それは、もはや絶滅したとされるエゾオオカミが100年以上前に目にしていた風景ともいえる。水越は人工物を一切画面に入れずに、まさに「オオカミが見た北海道」の姿を撮り続けてきたのである。

地を這うように北海道の大地を移動し、時には天空から鳥の眼で地上を見降ろしつつ撮影された写真群は、見方によっては美しい絵のようでもある。DMなどにも使われた、満月の夜に草を食む鹿たちを撮影した写真はその典型だろう。だが、一見日本画のようなこの写真が、実際の場面を撮影したものであることに、むしろ凄みを感じる。北海道の風景は人を寄せつけない厳しさを持ちながらも、崇高な美しさをも感じさせるのだ。水越にとっては北海道とのかかわりの総決算とでもいうべき、記念碑的な写真展、写真集になったのではないだろうか。


公式サイト:https://fugensha.jp/events/221110mizukoshi/

2022/11/10(木)(飯沢耕太郎)

2022年12月15日号の
artscapeレビュー