2020年02月01日号
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artscapeレビュー

岩淵多喜子『パフォーマンスキッズ・トーキョー:からだのキモチ』

2013年04月01日号

会期:2013/03/24

ルネこだいら[東京都]

(以下の文はリハーサルとゲネプロを基にしている。見学を許可してくれたスタッフの方々に感謝致します)
子どものからだは面白い。筆者の家に暮らす3歳児のからだは柔軟で機敏で、ときに暴力的、ときに奇想天外だ。息子がポーズをとり親が2人でそれを真似する、なんて遊びがはじまると、超ユニークなポーズを真似できず四苦八苦する親たちの低スペックぶりにあきれながら、フレッシュなからだの面白さを痛感してしまう。泣けばからだ全体が泣く。文化の諸コードにどんどん呑み込まれていくと彼の涙も文化的になるのだろう。それは確かに成長である。何かを習得するとからだの能力は拡張する。けれども、その成長は同時に、過去の人間たちがつくった規範に縛られてゆくプロセスでもある。
岩淵多喜子が振付・構成を担当した本作を見た(以下は本番ではなくリハーサルとゲネプロを見ての文章である)「パフォーマンスキッズ・トーキョー」はNPO法人芸術と子どもたちらが主催して上演されてきたプログラムで、24年度は山下残、山田うん、セレノグラフィカなどダンス系や音楽系の作家たちが携わり、約10日間のワークショップの後で発表会を催してきた(学校の授業で実施されるプログラムもある)。ぼくは2011年の鈴木ユキオによる公演『JUST KIDS』をここで評したこともあるが、そのときもまた本作でも感じたのは教育(振付)というものの難しさだ。教育はできないことをできるようにする。その成長が、できるようになった子どもをどこへ導くのかにその真価かかっていよう。鈴木の場合は、彼のルーツである舞踏の暗黒性へと子どもたちを連れて行った。そうして、死や絶望を含んだ生活の暗部へと子どもたちを向き合わせた。岩淵の場合、例えば、自分の過去にあったこと、将来あったらいいと思うことなどをジェスチャーで表現している(ように見える)シークエンスなどがあり、子どもたちを自分自身へ向き合わせようとしていた。それもひとつの教育方法だろう。この向き合う「自分自身」が本人も自覚していなかった何かであれば、そこには驚きがあり、発見があるはず。今回の上演がまさにそんな自分自身(=「からだのキモチ」)に気づく機会であったらと思うのだが、上演の主たるベクトルはそうした気づきを大切にする方向よりも、上演の完成度を高める方向にあったように感じられた。一番正直な感想は、よくここまで大人数の子どもたちをまとめたというものだった。その努力はしかし、「からだのキモチ」とは別の方向への努力ではないかとも思ってしまうのだ。
「からだのキモチ」が現われるのはむしろ振付を逸脱する瞬間だった。例えば、ジェスチャーの動きがどんどん速くなってしまうとき。あせっているのとも緊張しているのとも異なる子どものからだらしいテンポ感が出てしまっている。間をとったほうがきれいだろう。けれども、そうするとからだの「キモチ」が消えてしまう。確かに子どもは異常なほど機敏なときがある。決まった台詞を読み上げるときなど、よくそれが現われる。脇にそれるが、NIbrollの速さを、そうした幼児的身体の「キモチ」と連関づけて理解することは可能かもしれない。
仮想の虫をキャッチしては誰かに投げるという場面でも、相手が投げきる前にキャッチしてしまう速い(早い)子どもが何人かいた。こうしたゲームは舞台の上ではなく、純粋に遊びとしてやると集中してでき、より実感をともなったものになるのだろう。そう思うと、観客の前で作品を完成した状態で披露する劇場空間という仕組みが「からだのキモチ」の現われを邪魔している気がしてくる。
ここまで書いてきてはたと気づいたのだけれど、ぼくが夢想しているのはNPO法人芸術家と子どもたちが掲げる「CHILDREN MEET ARTISTS」とは逆で「ARTISTS MEET CHILDREN」が起こる場なのかもしれない。整った大人の身体たちが構成する一般的な舞台公演の一様さとは異なり、子どもたちのからだはじつに多様で、スペックの違いが感じられ、面白いのだ。子どものからだという素材の面白さに気づいて、自分の作品作りが変容してしまうような作家が出てきたら、などと想像してしまう。ただ、子どものポテンシャルが引き出されても、子どもたち自身は日々生きている自分のからだを動かすだけで別段目新しくなく、楽しめないかもしれないけれど。

2013/03/24(日)(木村覚)

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