artscapeレビュー
2013年07月01日号のレビュー/プレビュー
すいこみ はきだし ひろがる 小出麻代 展
会期:2013/05/25~2013/06/09
LABORATORY[京都府]
京都市内の繁華街にある小さな路地の一角、焼肉屋のビルの3階という意外なスペースで、小出が魅力的なインスタレーションをつくり上げた。素材は、糸、ガラス、紙、樹脂、押しピン、回り灯籠など。糸をガイドに視線を泳がせていくと、素材が織りなす繊細な造形がメロディやリズムを奏で、見る者を作品世界へと没入させる。そして見終わった後には、自分が爽やかな余韻に包まれていることに気付くのだ。その感触は、美術作品というよりも詩の読後感に近い。ここまで浸り切れるインスタレーションに出会えたのは久々だ。見逃さなくてよかった。
2013/06/01(土)(小吹隆文)
Noism1『ZAZA──祈りと欲望の間に』
会期:2013/05/31~2013/06/02
KAAT[神奈川県]
金森穣さん、『ZAZA──祈りと欲望の間に』を見ました。時間をかけて鍛え上げたダンサーの身体は圧倒的な力を発揮するものだなとあらためて確認しました。第1部の「A・N・D・A・N・T・E」、白い羽(俗にいえば紙吹雪)のようなものがつくる円の周囲をダンサーたちはぐるりと周り、ときに円に入るとダンサーたちは複雑に絡まって、羽を宙に舞わせながら、アクロバティックな連鎖を繰り広げました。そうしたときのよどみのなさに、ダンスのなかの非ダンス的要素を削ぎ落してはじめて生まれる、ストイックな美しさを堪能しました。ロマンチックバレエのしばしば第2幕で展開される妖精たちの世界を重ねて見ていました。妖精たちの世界は、人間の意識下に潜む欲望の世界です。その闇を白で描く。羽のような紙のようなものでつくった円の形がダンサーたちによって乱れていくさまに、そうした闇の姿を一瞬見た気がしました。バレエは狂気に迫りながらぎりぎりまで狂気を美しく可憐に描くものです。第1部はその狂気へ、つまりバレエの力へ向かっていると思いました。
以上のように第1部に魅了されたぼくは、その一方で、第2部、第3部をうまく受けとめられませんでした。第2部「囚われの女王」は、囚われた女王が主題のシベリウスの楽曲をバックに井関佐和子が踊るソロ作品。単純な話、ぼくにはダンサーのどこからも「囚われた」感じがしなかったし、目の前にいるのが「女王」という感じがしなかった。冒頭に長い説明がスクリーンに映りました。その説明内容とダンスとのギャップが埋まらないまま終わってしまった。気になったのは、井関の痩せた身体です。「短髪だからボーイッシュ」というのもつまらない理解ですが、井関の身体は「女王」の質をほとんど見る者に察知させません。その代わりに感じられるのは、鍛えられたストイックな身体が目の前にいるということです。チュチュを剥ぐと、バレエダンサーは無機質なダンス機械に見える。この事実を見ないことにして「女王」の主題を押し出すより、この事実を積極的に活かしたほうがよいのではなどと思いました。
ところで、金森さんはもっとダンス中毒だと思っていました。ダンス中毒の異常性が、狂気にもギャグにも見えるくらい爆発していると観客はグッとくるだろう──、そんなものが見られるという期待を抱いてこの日劇場に来たのですが、第3部「ZAZA」ではその期待は満たされませんでした。経験上、舞台にリンゴというアイテムが登場すると条件反射的に「マズイ!」と身を固くする習性をぼくはもっていますが、やはりあれは危険ですよ。いくら金森さんの表現したいことがデリケートだとしても、リンゴが登場しただけでそれが連想させるありがちなメタファーへと観客は単純化させてしまうものですから。ちなみに、ブラウン管テレビもおもちゃのピアノも拡声器も同様なアイテムで、無意味に60年代(「アングラ」!)を喚起させられたりします。自己顕示欲と性欲とが満たされぬままにはけ口を求めている、金森さんはそんな現代社会の姿を描きたいようにぼくには見えました。それをコント(非ダンス)的な表現ではなく、ただただ踊ることで描いたらいいのに。自分の踊りを見せたいというダンサーの自己顕示欲が、ガリガリの身体を生み出してしまう。フェティシズムを喚起しない身体が、性的に欲情している。そんなちぐはぐな、異常で、ときに切ないときに滑稽なダンス中毒の世界。これこそ、現代社会を語るのにふさわしい、バレエならではのメタファーなのではないか(『ジゼル』にはすでに、踊り死にしそうになるというダンス狂いのシーンがありますが)。そうした自己への批評が見え隠れしたら、そのとき現代的なバレエ作品が生まれるように思うのです。
2013/06/02(日)(木村覚)
かもめマシーン『スタイルカウンシル』
会期:2013/05/28~2013/06/02
STスポット[神奈川県]
萩原雄太さん、『スタイルカウンシル』を見ました。この作品は客席の観客に向けられているようで、「未来」や「宇宙」の言葉で指し示された不在の対象に向けられていました。この仕掛けにぼくは率直に感動してしまいました。本作は「3.11以後」の作品です。いわきで取材し、そこで収録したインタビューが用いられています。ボイスレコーダーを手にした役者が、イヤフォン越しにインタビューの音声を聞き、被災者の言葉を役者が口伝えすることで、事柄の焦点は具体化されていました。福島で取材した人の思いを舞台に上げること、同時に、取材したときの萩原さんの思いを舞台に上げること、これが本作のひとつのベクトルです。しかし、それにとどまらず、一体それをしてどうなるのか、被災地への自分の思いはどうしたらいいのか、もうひとつのベクトルはそこから発して、人類の姿を宇宙人にどう説明したら説明したことになるのかという問いへと向かっていきます。ぼくは単純にそのベクトルが引き出されたことに、感動してしまいました。ああ、この芝居の観客はぼくたちではなくて、宇宙人なのか! 宇宙人という観客に見せたい人類の姿とはなにかと問う一方で、リアルの観客は舞台から見放されるのか! 真の観客は神であるバリの芸能がそうであるように、特殊な関係性を舞台空間に構築した気がしたのです。萩原さんの試みは、荒唐無稽に思われるかもしれません。けれども、萩原さんの真面目さが、ここまで至らせたというところになんというか狂気を感じて、ぼくは魅了されました。ただし、こうなると真面目さの真実性が問われることになるのでしょう。萩原さんの真面目さは演技なのか本気なのか、そこが本作の一番の焦点のように思います。真面目さが突き抜けて、芸術どころじゃないと社会活動に向かう人もいるでしょうし、社会と芸術の関係に思い悩んだ末、芸術活動に専念すると決める人もいるでしょうが、萩原さんにはぜひとも、「(芸術も社会活動も)どっちもとる」という立場を選択して欲しいと思ってしまいます。そこで戸惑いあたふたすることも、ひとつのパフォーマンスでしょうし、ひとつ決定的なポイントを見つけて徹底的に掘り下げるのも、見所多いパフォーマンスになりうるかも知れません。たとえばセリフに「それは(ここにはいない誰かが演劇では「いる」と錯覚できること)、錯覚だけれども、僕らのその気持ちは、本当に、あります」「僕らは、僕らを信じます」などという言葉がアイロニーではなく、ストレートな表現だとしたら、この作品は萩原さんの芝居という以上に演劇論であり、もっといってよければ信仰告白です。告白を聞いてしまった観客の一人として、その信仰を萩原さんがどう生きるのかというドラマを見ていきたいと思っています。
2013/06/02(日)(木村覚)
牧野邦夫─写実の精髄─展
会期:2013/04/14~2013/06/02
練馬区立美術館[東京都]
現在の「現代アート」には、圧倒的に「過剰」が足りない。画家・牧野邦夫(1925~1986)の絵画を見ると、思わずそんな嘆息を漏らしたくなる。情熱、技術、視線など、あらゆる点で行き過ぎているのだ。そのような常軌を逸した過剰性が、私たちの眼を釘付けにするのである。
本展で展示された、およそ120点あまりの作品の大半は、油彩による写実画。しかし、より正確に言えば、写実の技法を用いた幻想画というべきだろう。技法的には写実的に描きながらも、画面の随所に幻想的な主題が織り込まれており、そのことが絵画全体の性格を決定しているからだ。神話的な世界に投入した自画像や、建造物や植物にまったく脈絡なく挿入した人面などは、その幻想性を高める例証である。あるいは、こうも言えるかもしれない。牧野は写実に始まり、写実を極め、やがて写実を超えてしまったのだと。
そのように牧野を駆り立てたのは、いったい何だったのか。それは、おそらく現代美術の歴史に名を残す功名心などではなかった。なぜなら牧野の絵画にも言説にも表われているのは、あまりにも純粋なレンブラントへの憧憬ないしは衝動だからだ。それ以外は皆無であると断言してもいいほど、牧野はレンブラントに傾倒していた。この世にはいないレンブラントに手紙を書き、あまつさえその返信もレンブラントになりきって書いたという逸話は、その度を超えた情熱を如実に物語っている。
多くの近代美術家は、近代と伝統、ないしは西洋化と土俗土着の問題で思い悩んでいた。すなわち、近代芸術の理想と土着的な現実のあいだを縫合するには、あまりにも双方はかけ離れていたため、作品として結実させることが難しかったのである。西洋彫刻では筋骨隆々とした肉体が造形化されていたが、現実の風土においてはむしろ薄弱の身体でしかない。ところが、レンブラントしか見ていなかった牧野にとって、そうした問題に優先順位が置かれていたとは到底思えない。なぜなら、牧野が描く身体像はいずれも西欧人のような厚みがあり、そこには現実を必ずしも反映していないという後ろめたい影は微塵も見当たらないからだ。建物や風景を描いた絵画ですら、肉厚の身体のような量塊性がある。
この極端に偏った過剰性は、たしかに西欧芸術を崇拝する典型的な奴隷根性の現われだが、だからといって決して非難されるべきではない。しばしば引き合いに出される牧島如鳩もそうだったように、西欧だろうと土着だろうと、より徹底して、より過剰に、より大袈裟に表現したからこそ、あのような優れた絵画が生まれたのは否定できない事実だからだ。第一、どこかで過剰にならなければ、いったい何がおもしろいというのか。
2013/06/02(日)(福住廉)
大阪市立東洋陶磁美術館「森と湖の国──フィンランド・デザイン」展
会期:2013/04/20~2013/07/28
国立国際美術館[大阪府]
本展は、フィンランドの18世紀後半から現代にかけてのガラス・陶磁器約150点を展示したもの。フィンランドはアイスランドと並んで、世界でもっとも北に位置する国のひとつ。南部と西部の海域には多くの島々が点在し、大小6万を超える湖があり、森林全体の面積は国土の7割を超える。厳しいながらも豊かな自然環境は、人々のあいだに自然に対する畏敬の念と親近性を育んできた。これは、本展の出展作の多くに自然のモチーフが用いられていることからも首肯されよう。フィンランド・デザインの特徴とは、ひとつに「手仕事を基礎とするものづくり」の伝統、もうひとつが「機能性」。アルヴァ・アールト(1898-1976)のデザインで現在も生産されている、湖の形状の花瓶《アールトの花瓶 9750/3030》や、入れ子状に配置することで花のように見える《アールト・フラワー 3034A-D》のように、芸術性と機能性を兼ね備えたプロダクト・デザインが1930年代以降伝統となっていく。ガラスのみならず陶芸、銀細工、木工、またグラフィック等の多くの分野で活躍、47年からはカルフラ・イッタラ社に所属したタピオ・ヴィルッカラ(1915-85)のデザイン、《カンタレッリ(アンズタケ)3280》。フィンランドの深い森のイメージを強く喚起するこの花瓶には、有機的な形態に繊細な彫りが入ることで、生き生きとした生命感を感じさせる。また、「フィンランド・デザインの良心」と呼ばれた、カイ・フランク(1911-89)の食器シリーズ《キルタ》などは、盛り付けや保存、器同士の組合せや片付けの用にまで配慮がなされた好例。こうした機能追及の背景には、デザイナーたちが伝統を踏まえつつ、使用者の視点を重視する進取の気質が感じられる。初夏の季節にガラスの涼やかさが目に心地良く、フィンランドの豊かな生活文化を感じ取れる展覧会である。[竹内有子]
2013/06/05(水)(SYNK)