artscapeレビュー

2013年07月01日号のレビュー/プレビュー

LOVE展 アートにみる愛のかたち

会期:2013/04/26~2013/09/01

森美術館[東京都]

「愛」についての展覧会。草間彌生、オノ・ヨーコ、ジェフ・クーンズ、デミアン・ハーストから、ロダン、マグリット、ブランクーシ、キリコまで、文字どおり古今東西のアーティストによる200点あまりの作品が一挙に展示された。
あまりにも中庸なテーマだからだろうか、総花的な展観であることは間違いない。とはいえそうだとしても、その群生のなかからひときわ美しい花を自分の眼で選び出すことが、こうした展覧会の楽しみ方である。
注目したのは、3点。アデル・アビディーンの《愛を確実にする52の方法》は、作家本人がタイトルが示すテーマについてカメラに向かって語りかける映像作品。恋愛マニュアルの形式をシミュレートしながらも、内容に皮肉や冗談を交えることで、逆説的に真実味を増大させた。映像としては簡素であるが、その内容は思わず膝を打ったり、首肯したりするものばかりでおもしろい。視点が男性側に置かれているので、ややもすると女性側からの反発もなくはないのかもしれないが、機知に富んだ翻訳も手伝ってか、来場者の多くは性差にかかわらず共感を寄せていたようだ。
ローリー・シモンズの《LOVE DOLL》は、日本で購入したラブドールをニューヨークに持ち帰り、衣服を着用させてさまざまなシーンで写真を撮影した連作。デートを楽しんだり、家事に勤しんだり、終始一貫して人間として扱いながら愛情を注いでいる。ところが、その写真そのものが人工的に撮影されたことを自己言及的に表わしているので、結果として変態性や人工性が倍増した奇妙な写真になっているところがおもしろい。
変態的といえば、むしろ出光真子の《英雄チャン ママよ》の方が強烈である。溺愛してやまない息子が遠方で暮らすようになってから、自宅で撮影したビデオ映像を食卓で上映しながら日常生活を送る母親の生態を描いた映像作品だ。映像のなかの息子を愛おしく見つめ、甘い声で語りかける母親の姿は、フィクションとはいえ、なんともおぞましい。とても80年代のビデオ・アートとは思えないほどの強い映像だったが、裏を返せば、つまりそれだけこの問題が依然として現在も継続しているということなのだろう。
3点に共通しているのは、いずれも愛の裏側を的確に表現しているところ。ダークサイドをえぐり出すことのできるアートの力を存分に楽しめる展観である。

2013/06/08(土)(福住廉)

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はえぎわ『ガラパコスパコス──進化してんのかしてないのか』

会期:2013/06/07~2013/06/16

三鷹市芸術文化センター・星のホール[東京都]

ノゾエ征爾が主宰するはえぎわの第26回公演は、2010年に初演した作品の再再演。はえぎわの芝居は、さまざまな人間のタイプを舞台にまき散らして、現代の社会を舞台に浮き彫りにする。本作では、とくに老いが求心力となっていたのだが、その際に特徴的なのが、人間の醜い部分を露出していく一方で、その表現はじつにカラッとしており、軽く、ユーモアに満ちているという点だ。派遣社員としてピエロを演じる気弱な主人公(ままごと主宰の柴幸男が演じる)が不意に出会った認知症の老婦人と意気投合、自分の部屋で暮らし始める。この出来事に、特養老人ホームのスタッフ、老婦人の娘や孫娘、主人公の兄夫婦や高校時代の友人たちが、絡まってゆく。類型的な人物造形はおもしろおかしくて、時代の病とでもいえるような諸問題を、ある程度自分との距離を置きながらしかし自分にも当てはまることとして観客に考えるよううながす。こうしたところにノゾエの演劇的力量が感じられ、引き込まれる。一方で、人物造形が類型的なぶん、わかりにくいところも出てくる。とくに、主人公と老婦人との愛情生活がどうして始まり、どう進んでいったのかという点。もちろん、老婦人のお漏らしや理不尽な行動に翻弄されつつも献身的に支える主人公の姿など、生活を描く部分はあるにはある。しかし、その生活に主人公は些細でもひとつの発見・感動を見出したりしなかったのか、なんて思ってしまう。結局、主人公の人間に向き合えない性格が自分の名前さえ覚えない女性との暮らしに居心地のよさを感じたという〈コミュニケーション不全状態こそが都合のよいコミュニケーション状態〉という、現代的若者の「らしい」姿を描くことに終始したということか。ところで、本作のタイトル。「ガラパゴス」は日本を指すとともに独自の進化を指しているようだ。進化はしばしば劇中で話題となり、ここが不思議なところなのだけれど、劇中では「老人」が進化の最終状態とされている。そして、老人の次の進化の状態は「?(わからない)」ということになっているのだが、この奇妙な老婦人との愛がより丁寧に描かれれば、そこに次の進化の様は示唆できるのかもしれず、そんなことが描かれたら!なんて空想しているうちに、芝居は終わった。

2013/06/12(水)(木村覚)

いつかいた場所 酒井咲帆 写真展

会期:2013/06/12~2013/06/23

iTohen[大阪府]

兵庫県出身で、現在は福岡県を拠点に活動する写真家・酒井咲帆の個展。2001年に富山県氷見市女良で4人の子どもたちと出会った彼女は、その後も彼ら彼女らと交流を続け、年に一度同地に出かけては写真を撮り続けた。本展では、2001年から12年までの作品を編年体で展示するとともに、4人から届いた手紙なども紹介した。当たり前のことだが、子どもにとっての10年は長い。最初は小さな小学生だったのがいつしか成人となり、4人が通った小学校は過疎化で閉校となった。その過程を綴るのに、写真ほど適した媒体はないだろう。ひとつの出会いを大切に温め、長期間のシリーズ作品にまで育て上げた作者に感心した。

2013/06/13(木)(小吹隆文)

EXIF Hideo Anze 2013

会期:2013/06/12~2013/06/25

DMO ARTS[大阪府]

カラフルな紙(タント紙)を絵具代わりに用いて写真作品を制作する安瀬英雄が、2年ぶりの個展を開催した。前回は室内の一隅と思しき空間をつくり上げ、絵具の垂れや飛沫といったペインタリーな要素も表現していたが、本展では白い箱状の空間に紙を配置するシンプルなスタイルに移行。ミニマルアートにも通じる静謐な世界をつくり出すことに成功した。また、紙の断面の重なりや、丸めた紙の組み合わせによる動的な作品もあり、バリエーションも豊かだった。ちなみに展覧会タイトルの「EXIF」とは、デジタル写真の撮影時に、画像データと共に記される撮影時のさまざまな付属情報とのこと。ペーパークラフトがアート作品へと生まれ変わる際のソースコード的な意味合いで名付けたのであろうか。

2013/06/13(木)(小吹隆文)

天才ハイスクール!!!!

会期:2013/06/01~2013/06/29

山本現代[東京都]

「天才ハイスクール!!!!」とは、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務める美学校の講座名で、本展は同講座の修了生を中心にしたグループ展。2011年以来、東京は高円寺の素人の乱12号店を会場にそれぞれ個展を開催してきたが、ついに昨年は旧東京電機大学の校舎で催された大規模なグループ展「TRANS ARTS TOKYO」で大いに注目を集めた。
その最も大きな特徴は、荒削りで奔放、野性的で直情的な美術表現。それは、ほとんどが美術の高等教育を受けておらず、その経験がある場合でも、おおむねドロップアウトしているという出自に由来している。アカデミックな知識や高度な技術は欠落しているが、その反面、美術教育の現場では敬遠されがちな、きわめてストレートなエネルギーの放出が、彼らの強みである。自分たちの日常と分かち難く結びついているネットカルチャーやアイドル、ゲーム、グラフィティといった若者文化を背景にしながら、家族愛や生きにくさ、3.11、生と死の問題といった、同時代の主題を表現する方法が、じつに清々しい。
事実、本展では旧作もかなり展示されていとはいえ、展示会場はおろか階段や洗面所、物入れなどのバックヤードにも作品を設置することで、それらの作品によって既存の空間を押し広げるほどの強力な表現意欲が伝わってくる。なかでも自分の母親への愛をテーマにした映像を見せた大島嘉人と、階段を無限に駆け上がるパフォーマンスを映像で見せたケムシのごとしが今回は際立っていた。前者は、ちょうど森美術館のLOVE展における出光真子の映像作品とは対照的に、息子の視点から母親との関係性を実直に描いたとすれば、後者は駆け上がっても駆け上がってもどこにも到達しえない今日的な無常感を簡潔に表現したのである。
とはいえ、一抹の危惧を覚えないわけではない。彼らは着々と経験値を上げており、作品そのものの質は別として、少なくとも空間の使い方に関しては抜群のセンスを発揮している。こうした点は、むしろ多くの美大生は見習うべきだろう。ところが、会場に立ち込めていた野性的で破天荒な空気感は、一方で容易にパッケージ化されやすい。仮に同展を地方都市の会場に巡回させたとしても、それぞれの会場で異なる空間的な特性を読み取りながら、ほぼ同水準の展示を構成することができるに違いない。だが、それ自体がひとつの芸風として定着すると、当初はその斬新さに目を奪われていた鑑賞者は必然的に作品の質を問うことに焦点を合わせるようになる。いくら集団性に基づくとはいえ、いくら美術教育の外側にいるとはいえ、最終的に問われるのはやはり個別の作品なのだ。
Chim↑Pomのように強固な集団的主体性を構築しているわけではなく、あくまでも個々のアーティストの集団としてあるならば、彼らにとって必要なのは「天才ハイスクール」という枠組みの外側に踏み出すことではないか。それは、天才ハイスクールという看板のもとで個展を催すことではない。もっと徹底的に外部へ踏み外し、さまざまな世界を渡り歩き、あるいは徹底的にひきこもり、場合によってはアートからも距離を取るような方向性に身を投げ出すこと。逆説的かもしれないが、野性が飼い慣らされることを拒否しながら表現をさらに展開するには、そのような方策が最も適切だと思う。

2013/06/13(木)(福住廉)

2013年07月01日号の
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