artscapeレビュー

2014年04月01日号のレビュー/プレビュー

誰もみたことのない内海信彦 展

会期:2014/03/03~2014/03/08

Gallery K[東京都]

1953年生まれの美術家・内海信彦が20代に描いた絵画作品を見せた個展。いずれも1970年代前半、美学校の中村宏油彩画工房でフランドル技法を学んでいた頃の作品だという。
絵画のモチーフは天変地異。大空を縦横無尽に走る雷やこちらに押し寄せる大津波、山頂から溢れ出る灼熱の溶岩。大地の裂け目は地震だろうか。赤いマントを羽織って佇む人物の顔が隠されているところも、よりいっそう不安を煽る。
しかし、そうした予言的な主題より何より注目したのは、画面の保存状態がきわめて良好だった点である。ひび割れはほとんど見当たらず、発色も当時と変わらないという。中村宏による堅実な指導のおかげで、これらの絵は40年という時の流れに逆らい続けているのだ。
はたして昨今の絵画は、同じように時間に抵抗する堅牢さを持ちえているのだろうか。

2014/03/07(金)(福住廉)

岩渕貞太『斑(ふ)』

会期:2014/03/08~2014/03/09

アサヒ・アートスクエア[東京都]

60分間、自然の景観に身を漂わせているかのような時間だった。ぼくだけだろうか、優れたダンスを前にすると決まってそうなるのだが、舞台上の出来事とは無関係な考えごとに夢中になってしまった。黒沢美香を見ていてもそんな状態になるのだが、おそらくそんなことが起きるのは、目の前の運動に無理がなく、とはいえ常に微妙な変化やズレがそこにはあって、ゆえに見ている者の脳が活性化され続けるからではないのか。ダメだなと思うダンスというのは、見る者に頭での理解を促す。振り付けが伝えたい意味とか、テーマ性とかを読まされる。意味とかテーマの説明に身体が奉仕しているダンスは、曲芸の動物を前にするときのように、息苦しくなる。こちらの開かれたい部分が開かないのだ。岩渕貞太の今回の作品には、その息苦しさが皆無だった。それは、なかなか希有で、すごいことだ。冒頭、三人(岩渕の他、小暮香帆と北川結)が舞台に上がるとジョギング・ウェアに見えなくもない姿で、「ウォーミング・アップ」をはじめた。徐々に体をほぐす。この「ほぐし」が、少しずつバランスを変化させることで、動きのヴァリエーションをつくってゆく。「振り付け」が先にあるというよりは、筋肉や間接の構造が生む身体の性格がひとつの動きを生み、その動きがさらに次の動きを動機づける、そんな風なのだ。だから無理がない。最初は純粋に「ウォーミング・アップ」に見えた動きは、腰や腕や脚の付け根あたりが起こす「ツイスト」によって、たんなる体操ではない、ダンスが生じている。体が生むダンスだなと思わされた。体の構造が、また各自の構造の個性が、ダンスになっている。岩渕がもともともっているグロテスクさへの興味が、ことさらではないかたちで呈示されている、そうも思った。当たり前のようだが、簡単ではない。不意のツイストが、つむじ風のように自ずと生じ、さっきまでのリズムを崩す、変化に富んでいてずっと見てしまう。他の2人が退いて、結果的にソロになる場面など、構成の変化はある程度あるにせよ、ほぼ最初からの状態がずっと続く。きわめてミニマルなのだけれど、強烈な意志が背後にあると感じさせる。上手く説明できないのだが、初めて見る感触だった。この世のどこにもなかったダンス、だけれども、ぐっと引きつけられる力のあるダンスの誕生を目の当たりにした。

2014/03/08(土)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『ザ・ワールド』

会期:2014/03/08~2014/03/09

森下スタジオ[東京都]

仮に『あなたがここにいてほしい』(2004)から数えるならば、10年を少し越えた大橋可也の活動は、いつも一貫して「生きづらさ」にフォーカスしていた。新作『ザ・ワールド』を見ながら思っていたのは、絶えず変化と進歩を目指して走り続けていたこのカンパニーが、変わらずにずっとこだわってきたもののことだった。土方巽から始まり多様な派生物を生み出してきた舞踏というコンセプトが、たんなる歴史的な遺産としてではないかたちで、今日もなお生きて働く運動体そのものであるとすれば、例えば、大橋のこの10年ほどの試みを無視するわけにはゆくまい。その特徴は、暗黒舞踏の「暗黒」は日常とは別のところにあるのではなく、日常そのものが暗黒なのだと考えるところにある。比較の対象をあげてみよう。舞踏を今日も生きたものにしているもうひとつの存在に大駱駝艦がいる。彼らの公演もまた日常に依拠しているが、日常が非日常的なイメージへとスライドしていくところに彼らの特徴がある。まるでシュルレアリスムの絵画だ。あるいは少年漫画だ。白塗りが引きだす異形性は、そうして見方を変えることで気づかずにいた自分を掘り下げてゆく。そこにファンタジーも恐怖もエロティシズムもある。大橋は、白塗りも派手なファンタジーも用意しない。その代わりに、ごくごく日常的な衣裳を着た普通の男女が、突然、倒れたり、走り出したり、なにかに振り回される。自分の知らない自分のなにかが自分を襲う。大橋はいつもここにいた。このことにあらためて気づかされ、驚いた。今作は、長島確をドラマトゥルクに据え、大橋の住む江東区をリサーチして生まれた、という話だ。なるほど、冒頭で、街にひっそりと据えられた神輿の倉庫に暮らしたいと吸血鬼である男女2人が対話し、その後に10人ほどのダンサーたちが登場するのだけれど、彼らも街に徘徊する吸血鬼たちなのだろう、首や足首に噛みつく振る舞いが何度も繰り返される。「吸血鬼」や「リサーチ」という今作独自の試みは、きっと過渡的なものだろう、もっと街(土地)を感じさせたり、もっとファンタジーを巧みに利用する方途はありうるはずだ。そう感じつつも、そんなことは小さなことだと思った。それよりも大橋の試みてきたもっと大きなことが身に迫ってきた。吸血鬼は自分に戸惑い、自分を突き動かすものに抗えない。「噛む」という行為は彼ら吸血鬼の抗えない暴力性に違いない。大橋はこの10年、暴力の問題に向き合い、自分の作品に摂取してきたが、そのなかで「噛む」という「振り」は、こういっていいかわからないが、なんだかかわいい。エロティックな「愛撫」に転化できたらいいのだが、そうは簡単にはいかないもどかしさが、かわいい。こうして、人間のもどかしさ、生きることの難しさを見つめている大橋は、やさしい。大橋がこの10年の間貫いてきたのは、人間に対するやさしく繊細なまなざしだったのではないかと思う。

2014/03/09(日)(木村覚)

本郷仁 展 both sides of it

会期:2014/03/08~2014/03/29

CAS[大阪府]

本郷仁は、視覚や知覚をテーマにしたガラス造形を手掛けている作家だ。本展では2室で展示を行なった。1室は装置型作品、もう1室は立体作品だったが、筆者が惹かれたのは前者である。それは、3本のアームの先に光源を取り付けた巨大な機械がゆっくりと回転し、部屋の中央に吊られた鏡を照らすというもの。壁面には光源から放たれた光と鏡の反射光が映るのだが、それらはシンプルな円形や楕円形だけでなく、日食などの天体現象を思わせる形態など、実に多様な表情を見せてくれるのだ。また、装置の精度が高いのか、モーター音などのノイズがほとんど聞こえないことにも驚かされた。無音の空間で繰り広げられる、人工物なのに神秘的な光のショーだった。

2014/03/10(月)(小吹隆文)

窓花──中国の切り紙

会期:2014/02/28~2014/03/16

世田谷文化生活情報センター:生活工房[東京都]

黄河の上流から中流域に広がる黄土高原に位置する陝西省延川の人々は、ヤオトン(窰洞)と呼ばれる山にトンネルを掘った家に住んでいる。ヤオトンには正面に出入口、その脇に格子窓がある。新年を迎えるための窓の飾りとしてつくる赤い切り紙を「窓花」といい、格子窓の障子紙とともに毎年貼り替えられる。小さな鋏一本で切り出された図柄には、吉祥の祈願や魔除けの意味があるという。文化大革命期には旧来の風習や民間宗教が禁じられ、伝統的な図案を用いた窓花も迷信や旧風俗として禁じられたが、1980年代以降、民間芸術のひとつとしてよみがえった。この展覧会は、文化人類学者・丹羽朋子氏と造形作家・下中菜穂氏による現地のフィールドワークに基づき、ただ切り紙の作品を並べるだけではなく、生活の場を再現し、写真やテキスト、映像によって陝西省延川の人々の暮らしのなかの位置づけを見せる。また、「窓花」のほかに、死者を弔うための「紙花」や「紙銭」、先祖に供えられる「寒衣」などの切り紙、動物や人をかたどった「麺花」と呼ばれる小麦細工など、折々に用いられる細工物も並んでいる。
 昨年夏、長期にわたる未曾有の豪雨によって、陝西省北部地域の多くのヤオトンが倒壊してしまったために、平屋建てや集合住宅に移転する人も多いという。人々の暮らしかたが変わることで、「窓花」の伝統はこれからどのように変わっていくだろうか。[新川徳彦]

★1──関連レビュー:花珠爛漫「中国・庫淑蘭の切り紙宇宙」(artscape 2013年10月01日号)



展示風景

2014/03/11(火)(SYNK)

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