artscapeレビュー

2020年12月01日号のレビュー/プレビュー

光─呼吸 時をすくう5人

会期:2020/09/19~2021/01/11

原美術館[東京都]

見に行く前は、出品作家の人選と展示意図がうまく呑み込めなかったのだが、実際に会場を回って、とてもよく練り上げられた展覧会であることがわかった。「手に余る世界の情勢に翻弄され、日々のささやかな出来事や感情を記憶する間もなく過ぎ去ってしまいそうな2020年。慌ただしさの中で視界から外れてしまうものに眼差しを注ぎ、心に留め置くことはできないか」というコメントがチラシに記されていたが、たしかにそのような思いを抱いている人は多いのではないだろうか。「コロナの年」として記憶されるはずの今年は、日常がアーティストにもたらす「ささやか」だが大切な促しがあらためてクローズアップされた年でもあった。その時代の気分を掬いとった本展はまた、40年の歴史を持つ原美術館の最後の展覧会(2021年1月に閉館)にふさわしいものであるともいえる。

出品作家は今井智己、城戸保、佐藤時啓、佐藤雅晴、リー・キットの5名。作風はバラバラだが、日常のディテールに目を凝らし、細やかに定着しようという点では共通点がある。展覧会の総題にもなっている、ペンライトや鏡の反射の光を長時間露光で捉えた佐藤時啓の「光—呼吸」や、福島第一原子力発電所の遠景を30キロ圏内の山頂から撮影した今井智己の「Semicircle Law」シリーズは以前も見ているが、城戸保や佐藤雅晴の作品は初めて見たので印象が強かった。「突然の無意味」をカラー写真で探求し続ける城戸の試みは、さらなる「無意味」へとエスカレートしていってほしい。佐藤雅晴が東京の日常の光景を撮影し、その一部をアニメーションで忠実にトレースした「東京尾行」シリーズは、実写とアニメーションとの微妙なズレが絶妙な異化効果として作用している。昨年、まだ40歳代で逝去したとのことで、惜しい才能だったと思う。

原美術館とハラ ミュージアム アークの建物を題材にした佐藤時啓の「こんな夢をみた─親指と人さし指は、網目のすき間の旅をする─」には、別な意味で可能性を感じる。ドローンで撮影した風景をデジタル変換で3D化して、現実世界と仮想世界との両方に足を掛けることで、ぐにゃぐにゃの軟体動物を思わせる奇妙な眺めが出現してきていた。

2020/10/23(金)(飯沢耕太郎)

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第16回死刑囚表現展

会期:2020/10/23~2020/10/25

松本治一郎記念会館[東京都]

会場は、部落解放の父とも呼ばれた松本治一郎記念会館。玄関を入ると佐藤忠良による松本の銅像が立っている。差別をなくそうとした人の銅像というのも、なんか違和感があるなあ。本人が望んだわけではないだろうけど。その5階の会議室に簡易な仮設壁を立て、作品を展示している。主催は、死刑制度について考えるために設立された「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」。死刑囚の作品展を始めたのは2005年からで、これまで谷中のギャラリーや鞆浦のミュージアムなどで目にしてきたが、そのつど出品者が異なっている。おそらく刑が執行されたり、新たに死刑を宣告されたりで、少しずつ入れ替わっているのだろう。もうそれだけですくんでしまう。

作品の大半は紙に色鉛筆や水彩で描いた絵だが、俳句もあれば、書画のように絵に文字を加えたものもある。内容的には、仏画や神像などの祈り系、花や富士山などの癒し系、名画やマンガなどの模写系、欲求不満のエロ系、理解不能なアウトサイダー系、自説を訴えるアジ系などに分けられる。パズルやエッシャー的な位相空間を描いた秋葉原通り魔事件の加藤智大はアウトサイダー系、ピカソやマティスを意識した露雲宇流布(ローンウルフ?)は模写系、安楽死の法制化や大麻合法化などを主張した相模原殺傷事件の植松聖はアジ系、ケバい化粧の女性ヌードの余白に粉砕、弾劾、革命といった勇ましい言葉を書き連ねた保険金目的替え玉殺人事件の原正志は、エロ系+アウトサイダー系+アジ系の合体か。

出品は18人による120点ほど。それがさほど広くない会議室に並んでいるため、観客もけっこう密になる。だいたいこんなに人が入るのは(しかも若者が多い)、死刑制度に対する関心が高まったからではなく、植松の作品が展示されるとネットで話題になったかららしい。植松は「より多くの人が幸せに生きるための7項目」と題し、前述のように安楽死や大麻のほか、環境問題や美容整形、軍隊などについて書き連ねた。これが異色なのは、背景に墨を散らせているとはいえ、明らかに「作品」というより扇動的なメッセージとして読めるからだ。もちろん作品に扇動的なメッセージを込めて悪いはずはないのだが、しかしそれが大量殺人を犯した死刑囚のものであり、それを見に若者たちが集まるのを目の当たりにすると、やはり小心者のぼくなんかはとまどってしまうのだ。死刑囚に表現の自由はあるのか? 人権はあるのか? そもそも死刑制度は必要なのか? そんな問題提起的な展覧会。

2020/10/24(土)(村田真)

吉川直哉「Family Album」

会期:2020/10/12~2020/10/24

ギャラリーナユタ[東京都]

吉川直哉のような1950-60年代生まれの世代は、家族アルバムに強い思い入れがあるのではないだろうか。父親が折に触れて家族の写真を撮り、母親がそれらにキャプションを付して、アルバムのページに貼りつける。そんな分厚い家族アルバムが、どんな家にも1冊や2冊はあったものだ。だが、1980年代頃から写真を撮る量が増えてくると、アルバムに貼る余裕もなくなり、90年代以降はデジタル化によってプリントすらされなくなった。だから、吉川が母親の死や東日本大震災を契機として、自分の家のアルバムの写真を複写し、「自分についての物語」を確認しようとした気持ちはよくわかる。家族アルバムが、記憶をつなぎとめておくアーカイブの役目を果たしてきたのだ。

だが、今回ギャラリーナユタで展示された「Family Album」シリーズは、単純な複写ではない。写真を斜めに傾け、その一部にピントを合わせて残りをボカしたり、画像の一部だけを切りとったりすることによって、家族の記憶は再構築され、新たな「物語」が立ち上がってくる。それは優れて批評的な写真読解の試みといえるだろう。もうひとつ重要なのは、この「Family Album」が、今年6月に東京・松原の半山ギャラリーで展示された「HOME 家」シリーズと対になる作品だということだ。そちらの展示は見逃してしまったが、展覧会に合わせて刊行された写真集『Family Album』(私家版)には、両シリーズが掲載された。もはや家族の住処ではなくなった奈良市の「家」にカメラを向けた「HOME」では、吉川は、いわば記憶の器としての「家」そのものの姿を浮かび上がらせるように、その細部を克明に描写している。

大阪芸術大学写真学科で教鞭を執り、2016年には韓国・大邱の大邱写真ビエンナーレの芸術監督を務めた吉川は、今回の連続展示で、写真家としての新たな水脈を見出したようだ。

関連レビュー

吉川直哉 展 ファミリーアルバム|小吹隆文:artscapeレビュー(2014年11月01日号)

2020/10/24(土)(飯沢耕太郎)

中西敏貴「Kamuy」

会期:2020/09/19~2020/10/31

キヤノンギャラリーS[東京都]

昨年1月~3月にキヤノンギャラリーSで開催されたGOTO AKIの写真展「terra」を観た時にも感じたのだが、風景写真の新世代が胎動しつつあるようだ。彼らの仕事は、基本的に「花鳥風月」の美意識に則って、箱庭的な日本の自然を細やかに描写してきた前世代とは一味違うスケール感を備えている。今回「Kamuy(カムイ)」展を開催した中西敏貴も、その有力な作り手の一人といえるだろう。

1971年に大阪で生まれた中西は、1989年ごろから北海道に通うようになり、2012年に撮影の拠点を美瑛町に移した。それ以降に撮影された本シリーズは、北海道の森羅万象に先住民族のアイヌが信奉していたカムイ(神)の存在を感じるという彼の思いを、「気配の集積としての風景」として投影した厚みのある作品群となった。

注目すべきなのは、彼が原生林で見出した木の肌、地衣類、菌類などが作り上げる自然のパターンを、アイヌや縄文人の造形物の紋様と結びつけて撮影していることだ。たしかに太古の昔から、人々は自然の造形を彼らの土器や織物や装飾物に取り入れてきたわけで、中西の試みは写真を通じてその歴史を辿り直そうとしているようにも見える。このところ、日本の先史時代への注目が増していることでもあり、中西の仕事も、自然環境だけではなく民族学や文化人類学の領域に伸びていってもいいのではないだろうか。北海道という魅力的なトポスに根ざした、より広がりと深みを備えた写真の世界をめざしていってほしい。

2020/10/24(土)(飯沢耕太郎)

アール・ブリュット2020特別展 満天の星に、創造の原石たちも輝く ─カワル ガワル ヒロガル セカイ─

会期:2020/09/05~2020/12/06

東京都渋谷公園通りギャラリー[東京都]

石原元都知事が設けた現代美術の拠点のひとつ、トーキョーワンダーサイト渋谷が、小池都知事によって東京都渋谷公園通りギャラリーと改められ、アール・ブリュットを普及していく場として再出発した。まあ現代美術もアール・ブリュットも境界線上に位置するキワモノ的存在である点、大して変わりはないんで、どっちでもいいけど。今回は「アール・ブリュット2020 特別展」として、日本人16人、海外から2人が出品。しかしキュレーターの名が明記されておらず、誰が、どういう基準で選んだのかわからない。

出品者は、各地で開かれるアール・ブリュット展の常連も多く、本岡秀則、魲万里絵、澤田真一らの作品は何度見ても驚かされる。なかでも感心するのは、本岡の《電車》。ただひたすら電車の正面を描き連ねたものだが、おもしろいのは、初めはフツーに描いていたのに、「いっぱい描きたかったから」という理由で1台1台の幅が次第に狭まり、ギューギュー詰めのまさに「満員電車」になったこと。別の紙に描けばいいものを、1枚にいっぱい描きたいという欲望を優先してフォルムを変えてしまったのだ。美濃部責夫の作品は抽象画のように見えるが、作画には独自のルールがある。まず着席する。また立って紙を持ってきて再び着席。また立ってペンを持ってきて着席、を繰り返す。いざ描くときは、まず小さな枠を描き、その中に仕切りのようなものを描き、最後に細かな縦線で埋め尽くす、という工程を何度も繰り返して画面を埋めていく。描く手順も配色もあらかじめ決まっているのだ。

Yasuhiro K.は札幌のテレビ塔から見た同じ風景6点を展示。それぞれ写真を元に1997年から2003年にかけて制作したもので、遠近法的に正確に作図されている。不可解なのは、どれも画面の左隅から描いていくのだが、最初のころは全体を描いているのに、徐々に右上まで描ききれなくなり、最後のほうは左隅の一部しか描いていないこと。同じ風景が徐々にフェイドアウトしていくのだ。原塚祥吾の《繋がってゆくまち》にも感心する。最初はチラシの裏に想像の街を細かく描いていたが、やがて上下左右に1枚ずつ紙を継ぎ足し、街の風景を広げていく。まるで高度成長期の都市開発を追体験しているよう。10歳のころから始め、現在14枚目。このまま死ぬまで続けたらどんな想像の大都市が築かれるやら。

いずれの作品もわれわれの常識のはるか上空を飛んでいる。凡人はそれを見上げてただ驚嘆するだけ。ひとつ難点をいえば、「満天の星に、創造の原石が輝く」ってタイトルがクサイ。誰がつけたんだ? 「難点の星」、なーんてんね。

2020/10/28(水)(村田真)

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