artscapeレビュー

2021年10月15日号のレビュー/プレビュー

TOVE/トーベ

会期:2021/10/01~未定

新宿武蔵野館、Bunkamura ル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか[全国]

本作は「ムーミン」の生みの親であるトーベ・ヤンソンの若き頃を描いた作品だ。深い森の中に暮らすムーミン一家のイメージから、てっきり作者も自然をこよなく愛する仙人のような人物と想像していたら、それはあっさりと裏切られた。第二次世界大戦の継続戦争が終戦した1944年から物語は始まるのだが、そのとき、トーベは30歳。風刺画家として活躍していたものの、厳格で著名な彫刻家の父のもと、自身も正統な油絵画家として認められるべく必死にあがいていた“売れない芸術家”だったのだ。金はないが自由はあるのが“売れない芸術家”の習性で、トーベもその典型だった。スタジオの家賃を滞納し、シケモクの煙草を吸い、キャンバスを白塗りして再利用する日々が描かれる一方、恋愛に関しては自由きわまりない。妻帯者の男性と一晩で恋に落ちたと思ったら、今度は舞台演出家の美女に誘惑され、激しい同性同士の愛に燃えるのだ。しかし程度の差こそあれ、こうした青臭い人間模様や葛藤は若い頃には誰しもあるもので、ムーミンの作者も例外ではなかったことにかえって安心した。仙人では世界中の人々を夢中にさせる物語をきっと描けなかっただろう。ちなみにトーベは50歳で孤島に小屋を立て、以後、1年の半分をそこで過ごしたという逸話がある。仙人生活は晩年に実行したようだ。


© 2020 Helsinki-filmi, all rights reserved


本作を観てから、私は「ムーミン」シリーズの漫画を改めて読んでみた。すると子どもの頃に観ていたアニメーションのおぼろげな印象とは、なんだか印象が違った。不思議なキャラクターがたくさん登場して惑わされるのだが、物語自体はとても素朴で平坦なのに、全体にシニカルな笑いに包まれていることに気づく。このシニカルな笑いに、自由に生きたトーベの姿が重なった。

さて、本作の見どころとしてもうひとつ挙げたいのは、エコール・ド・パリの流れを汲む若き芸術家たちの群像である。現に、物語の終盤ではリヴ・ゴーシュ(パリ左岸)が舞台となり、トーベの新たな出会いが描かれる。若き芸術家たちがたむろする場として何度も印象的に描かれるのが、ホームパーティーだ。ウォッカなどの蒸留酒をショットグラスでクイっとあおり、往年のスウィンギングジャズをレコードで流して、皆で愉快に踊りまくる。時に熱く討論し、恋に落ちる。そうした当時の雰囲気をたっぷりと味わえるのも楽しい。


© 2020 Helsinki-filmi, all rights reserved
出演:アルマ・ポウスティ(トーベ・ヤンソン)
クリスタ・コソネン(ヴィヴィカ・バンドラー)
シャンティ・ロニー(アトス・ヴィルタネン)
ヨアンナ・ハールッティ(トゥーリッキ・ピエティラ)
ロバート・エンケル(ヴィクトル・ヤンソン)
監督:ザイダ・バリルート
脚本:エーヴァ・プトロ
音楽:マッティ・バイ
編集:サム・ヘイッキラ
2020年/フィンランド・スウェーデン/カラー/ビスタ/5.1ch/103分
スウェーデン語ほか/日本語字幕:伊原奈津子/字幕監修:森下圭子
レイティング:G/原題:TOVE
配給:クロックワークス



公式サイト:https://klockworx-v.com/tove/

2021/09/18(土)(杉江あこ)

倉田翠☓飴屋法水 京都発表会 『三重県新宿区東九条ビリーアイリッシュ温泉口 徒歩5分』

会期:2021/09/18~2021/09/19

京都芸術センター[京都府]

倉田翠と飴屋法水、2人の演出家が共同制作した映像作品の上映と、彼ら自身が出演する上演を組み合わせた作品。倉田はこれまで、特別養護老人ホームの入所者や薬物回復支援施設の利用者などと協働し、プロのパフォーマーではない彼ら自身の個人史の断片を俎上に載せつつ、「家族」の呪縛やその虚構性、「疑似家族」だからこその微かな救いを通奏低音として提示してきた。

本作では、「家族」「親と子」が直球のテーマ。飴屋と倉田、それぞれの家族が暮らす土地(新宿のアパート、三重県の田舎)を互いに訪ねて寝食をともにする旅に、京都の崇仁地区および隣接する東九条で生まれ育った男性が加わり、彼の壮絶な家族史が差し挟まれる。3つの家族と土地をめぐる旅の記録映像は、旅という非日常の高揚感、東京観光、サッカーや水遊びに興じる姿を映し出し、ゆるいロードムービーの体をなす。だがその「軽さ」は、「重さ」「暗さ」を相対的に突き付ける。飴屋が「ある女性の半生」として語るモノローグは、結婚を機に差別を受ける土地に移り住み、ゴミ回収の仕事に就き、娘を自殺で失うというものだ。その絞り出すような語りが「フィクション」ではないことが、映像内の男性の語りと徐々に結びつく。全身に刺青のある彼は、「姉の自殺」を機に家族が崩壊したトラウマをもつことが語られる。



[写真:前谷開]


本作は安易な感傷には逃げないが、痛みと優しさが同居する。舞台上にはもうひとり、中学生の女の子が登場し、「クラシックギターの発表会」がもうひとつのレイヤーとして挿入され、傷をもつ者たちをギターの音色が優しく包み込む。それは同時に、「進行形の作品の発表会」の枠組みのなかで、実際に「クラシックギターの発表会」をやってしまうというメタ的な二重性をもつ。

「家族をもつこと、ある土地にとどまること」と同時に、「移動」も本作のキーワードだ。序盤と終盤、キャリーケースを引いて登場/退場する飴屋自身の娘が言う。「私は誰かの子どもです/でした」。

映像のなかでキャリーやバックパックを背負って旅する出演者たちは、次第に、「疑似家族」に見えてくる。「移動」は、ある土地と家族からの離脱であると同時に、新たな共同体の形成でもある。一方、「本当の」家族がもつ、一見普通の顔をした底知れない不気味さが露呈する瞬間がある。倉田の実家の食卓では、母親が淡々と食事の準備をし、父親が席につき、二人は素麺を食べ始める。その食卓上で、激しく踊る倉田。だが両親は彼女が存在しないかのように、無言のまま無視して食事を続ける。同じ食卓にいるのに、別次元に身を置いているような絶望的な距離感。そこに突如、全身ずぶ濡れの飴屋が窓から侵入してくる。川遊びから帰った少年のような彼は、「しばらくお世話になります」と律儀に挨拶し、夏休みに親戚の家に遊びに来たような空気が流れ、「家族」の境界が曖昧になっていく。

最後に、映像のスクリーンと相対して、一脚の「アウトドアチェア」が倉田の手で組み立てられ、不在のままスクリーンを見つめ続けていたことに留意したい。この「空の椅子」の座が意味するものは両義的だ。それは、「不在の死者」「喪失」を示すと同時に、「これから生まれてくる存在」が占める場所でもある。その不在感や欠乏感は痛みであり希望でもある。



[写真:前谷開]



公式サイト:https://kurata-ameya.studio.site/presentation/

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家族写真|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2021/09/19(日)(高嶋慈)

リャン・インフェイ「傷痕の下」

会期:2021/09/18~2021/10/17

SferaExhibition[京都府]

写真は、「出来事の真正な記録」としてのドキュメンタリーではなく、「イメージの捏造」によって、いかに告発の力を持ちうるのか。

昨年のKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の公募企画でグランプリを受賞した、中国のフォトジャーナリスト、リャン・インフェイ。今年は同写真祭の公式プログラムに参加し、より練り上げられた展示を見せている。

リャンの「傷痕の下」は、性暴力を生き延びたサバイバーへのインタビューを元にした写真作品。教師や上司、業界の有力者など年齢も社会的立場も上位の男性から性被害を受けた時の恐怖、不快感、憎悪、屈辱感、誰にも言えない抑圧、長年苦しめるトラウマが、悪夢のようなイメージとして再構築される。首筋をなめる舌はナメクジに置換され、助けを呼べず硬直した身体は、ベッドに横たえられ、空中で口をパクパクさせる魚で表現される。女性たちの顔は隠され、身体は断片化され、「固有の顔貌と尊厳の剥奪」を示す。また、「人形」への置換は、抵抗や告発の言葉を発さず、意のままに扱える「所有物」とみなす加害者の視線の暴力性を可視化する。



リャン・インフェイ《Beneath the scars PartII, 4》(2018)


展示会場は、半透明の壁で仕切られた個室的なスペースに分割され、両義的な連想を誘う。それは性暴力の起こった密室であると同時に、プライバシーの安全が保障された、カウンセリングのための守られた空間でもある。



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]


だが、いずれにせよ「外部からの遮断」「隠されるべきもの」という構造を外へと開くのが、「性被害について語る音声」の演劇的かつ秀逸な仕掛けだ。被害者の肉声ではなく、インタビューを再構成したテクストを朗読する声が写真とともに聴こえてくる。その声が複数性を持つことに留意したい。女性の声だけでなく、男性が読む声も混ざることは、「女性対男性」という単純な二項対立の図式を撹乱し、分断や敵対ではなく、体験の共有を志向する。同時にその仕掛けは、「性暴力の被害者は女性」という思い込みを解除し、「(性自認も含め)男性も被害者になりうる」ことを示す。性暴力は「一方のジェンダーに関する問題」ではなく、「あらゆるジェンダーにとっての問題」であることを音響的に示すのだ。

加えて、朗読する声には、年代差や関西弁のイントネーションなど、さまざまな差異が含まれる。少女や若い女性の声、中年女性の声といった年代差には、「10代、20代に受けた傷を後年になって語れるようになった」時間の経過を示す意図ももちろんある。だがより重要なのは、「被害者の代弁」を特定のひとりに集約させず、声を一方的に領有しない倫理的態度である。バトンを手渡すようにさまざまな声によって紡がれていく語りは、あるひとつの固有の体験と苦痛について語りつつ、その背後に無数の声が潜在することを可視化していく。

「出来事の決定的瞬間に立ち会えない」写真の事後性という宿命の克服に加え、写真と語りの力によって「体験を想像的に分かち合うこと」へと回路を開く、秀逸な展示だった。


KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2021/09/19(日)(高嶋慈)

《秋田市文化創造館》、200年をたがやす、《秋田市立中央図書館明徳館》、ルーヴル美術館の銅版画展

会期:2021/07/01~2021/09/26

秋田市文化創造館[秋田県]

秋田県立美術館が2013年に移転新築し、解体が予定されていた旧県立美術館は、保存を望む市民の声によって、県から市に無償譲渡され、今年、秋田市文化創造館として再生した。2021年に開館した長野県立美術館の旧館は、同じ場所での建て替えなので、消えてしまったが、秋田市の旧館は新しい道を歩みはじめたのである。なお、秋田市と長野市の旧館は、いずれも日建設計が手がけ、1966年に竣工した建築であり、特徴的な屋根をもつ。



《秋田市文化創造館》



《秋田市文化創造館》


そのオープニングとして開催された服部浩之監修「200年をたがやす」の展示期間「みせる」では、生活、食、工芸など、秋田のさまざまな文化資産を掘り起こしつつ、空間設計に建築家の海法圭が入り、空間を自由に使う可能性を提示していた。かつて藤田嗣治の巨大な絵画「秋田の行事」が展示されていた壁には、同じサイズの鏡面を設置し、過去を想起させながらも現在の姿を写しだす。美術の分野で特に印象的だったのは、「農民彫刻家」として活動した皆川嘉左ヱ門である。大きく力強い木彫の作品は、吹き抜けの大空間においても圧倒的な存在感を維持していた。



皆川嘉左ヱ門の作品展示風景



1階のリサーチセンター



工芸の展示


秋田市文化創造館の横は、谷口吉生による美しい階段をもつ《秋田市立中央図書館明徳館》(1983)が建ち、また向かいでは、佐藤総合計画の設計による《あきた芸術劇場ミルハス》が建設中であり、この一帯が文化のエリアとして再編されている。


《秋田市立中央図書館明徳館》



《秋田市立中央図書館明徳館》


道路を挟んだ秋田県立美術館では、「ルーヴル美術館の銅版画展」を開催していた。あまり知られていないグラフィック・アート部門の銅版画のコレクションだが、ルイ14世の時代に始まり、現代作家のものも収集されているという。

ここでは藤田の「秋田の行事」のための展示空間が設けられているが、創造館における不在を示す鏡面を見てからはしごすると興味深い。なお、彼がこの絵を制作した当時の空間の模型に加え、常設展示するための美術館の図面が発見されたことにより、その建築模型も置かれていた。秋田県立大の研究室が制作したものだが、1938年に着工されたものの、戦争で中止になったという。驚かされたのは、そのデザインである、ガラス張りの鉄骨の屋根の展示空間だから、もし実現していれば、当時の日本としては画期的な美術館になったはずだ。

200年をたがやす / CULTIVATING SUCCESSIVE WISDOMS

会期:2021年7月1日(木)~9月26日(日)
会場:秋田市文化創造館
(秋田県秋田市千秋明徳町3-16)ほか

秋田県誕生150年記念 ルーヴル美術館の銅版画展

会期:2021年9月11日(土)~11月7日(日)
会場:秋田県立美術館
(秋田県秋田市中通1-4-2)

2021/09/22(水)(五十嵐太郎)

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山形のムカサリ絵馬

会期:2021/09/18~2021/12/12

天童織田の里歴史館[山形県]

山形においてムカサリ絵馬めぐりを行なう。ムカサリ絵馬とは、子供を失った親が、実現しなかった結婚式の絵を奉納する山形の風習であり、明治期から昭和にかけて興隆したものだ。靖国神社の遊就館では、特攻など、戦争で亡くなった息子のために制作された花嫁人形が数多く展示されているが、その絵画バージョンといえる。なお、花嫁人形は青森にある風習らしい。ともあれ、男女の結婚という制度を重視しているという点において、近代的な発想だろう。


永昌寺と久昌寺では、いずれも本堂の一角に掲げられていた。そして黒鳥観音と小松沢観音は、三方の内壁すべてをぎっしりと覆いつくす圧巻の風景だった。巡礼のお札も大量に貼られていたが、特に後者は天井面にもムカサリ絵馬が掲げられている。若松寺の絵馬堂には過去のものが収蔵・展示されている。


《黒鳥観音》



《小松沢観音》



《高松観音》



《若松寺》


地元の絵師によって描かれた絵の構図や内容は、ある程度様式化されているが、ひとつひとつの絵に子供を失った親の強い想いが託され、未来の花嫁/花婿が想像で加えられている。アーティストが表現として描く絵やインスタレーションではない。だが、結果的に絵とは何かを鋭く問いかける空間だった。

かつては戦没した子供のためのムカサリ絵馬が多かったが、いまも継続している場所はほとんどないようだ。若松寺は現在も受け付けており、関東や沖縄など、全国から奉納されている。また令和にもその数は増えている(時代を反映し、同性のカップルも確認できた)。ここでは下手でもいいから、家族が自ら絵を描くことを推奨しているという。もっとも、どうしても無理な場合、やはり絵師にお願いしているようだ。


ここから、天童織田の里歴史館の企画展に貸し出し中のムカサリ絵馬が2点あると知り、足を運ぶ。役所を復元した資料館の2階では、「天童の人々と信仰」展が開催されており、観音信仰、キリスト教の布教とともに、ムカサリ絵馬を紹介していた。そして東北芸術工科大学では、青山夢によるムカサリ絵馬に着想を得た絵画のシリーズと巨大なインスタレーションのプロジェクトを見学する。すなわち、現代美術にも影響を与えているのだ。


《天童織田の里歴史館》


天童の人々と信仰

会期:2021年9月18日(土)~12月12日(金)
会場:天童織田の里歴史館
(山形県天童市五日町2丁目4-8)

2021/09/24(金)(五十嵐太郎)

2021年10月15日号の
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