artscapeレビュー

2021年10月15日号のレビュー/プレビュー

木村華子「 [   ] goes to Gray」

会期:2021/09/17~2021/10/17

河岸ホテル[京都府]

「消えている」のに「現われている」。「何も表明しない」という表明。そうした存在論的矛盾がありえるだろうか。

木村華子の写真作品「SIGN FOR [    ]」は、「街中で発見した、何も書かれていない白紙のビルボード」を被写体にした写真の上に、青いネオンライトを取り付けたシリーズである。青白いネオンの光は、「広告」という目的や存在意義を失ってもなお屹立し続ける白い立方体を照らし出す。それは経済不況という時代の指標であると同時に、あらゆるものを「有用性」「生産性」で価値判断し、「白か黒か」「右か左か」といった両極的な選択を突きつける社会に対して、そこから逸脱する領域をセレブレーションするようでもある。



会場風景


一方、木村の作品は、美術史的な視点から読み込むことも可能だ。「余計なものが写り込まない青空をバックに撮影する」という同一条件で、消費資本主義の衰退を徴候的に示すモニュメントを撮り集める姿勢は、ドイツ各地に残る産業遺構を均質フォーマットで記録したベッヒャー夫妻を想起させる。また、「公共空間に置かれたビルボード」という点では、例えば「私の欲望から私を守って」といったメッセージを掲げ、欲望を作り出す広告装置を通して消費資本主義それ自体を批判したバーバラ・クルーガーがいる。フェリックス・ゴンザレス=トレスは、誰かが眠った跡を残す空っぽのダブルベッドの写真をビルボードに掲げ、エイズや性的マイノリティへの偏見に対して静かに訴えた。

だが、「白紙状態」に眼差しを向けるよう照らし出す木村作品は、そうした「批判や抵抗のメッセージ」が消去されたディストピア的イメージをも思わせる。それは、「声を上げること」を封殺し、塗り潰す抑圧的な社会の象徴でもある。と同時に、その「白紙」は、これから書き込まれるべきメッセージを待ち受ける希望的余白でもある。

社会の衰退の徴候であり、「ただ存在すること」の肯定であり、声の抑圧の象徴であると同時に、なおもメッセージを掲げることへの想像を止めないこと。そうした何重もの豊かな意味をはらんだ「空白」が見る者に迫ってくる。



会場風景



会場風景


2021/09/26(日)(高嶋慈)

リニューアル記念コレクション展 ボイスオーバー 回って遊ぶ声

会期:2021/09/18~2021/11/14

滋賀県立美術館[滋賀県]

今年6月にリニューアルオープンした滋賀県立美術館。リニューアル記念展「Soft Territory かかわりのあわい」では滋賀にゆかりのある若手作家12名がすべて新作で参加し、「同時代の創造の場所としての美術館」像を提示した。同時開催されたコレクション展に続き、リニューアル記念展の第3弾となる本展では、日本画、郷土美術、現代美術、アール・ブリュットの4分野からなるコレクションの名品100点以上を、ジャンルや年代の慣習的な壁を取り払って展示。思いがけない邂逅が展示室に出現する。例えば、「日々つくる」のテーマの下で、河原温の「デイト・ペインティング」と、アール・ブリュットの作家の澤田真一による、全身にトゲを生やしたトーテムポールのような陶作品が併置される。祈りや崇高さの形象をテーマにした一室では、禁欲的な色彩構成で宗教的な境地を感じさせるアド・ラインハートとマーク・ロスコの抽象絵画を経由して、鎌倉時代の不動明王像を白髪一雄の燃え盛る炎や火球の炸裂のような絵画が取り囲む。


会場風景[撮影:来田猛]


さらに本展では、田村友一郎、中尾美園、建築家ユニットのドットアーキテクツという3組のゲストアーティストが参加し、それぞれの視点からコレクションに新たな光を当てた。田村は、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンの連作《マリリン》と《電気椅子》をつなぐ相関関係を読み込み、拡張的に連想の輪を広げていく映像インスタレーションを構成。《マリリン》の引用画像が、サスペンス映画『ナイアガラ』のスチル写真だとされることを起点に、ナイアガラの滝を利用した水力発電による電気が、ウォーホルの《電気椅子》にも送電されていた可能性へとつなげていく。「CG合成」によるナイアガラの滝を背景に、2人の人物の会話体をとるこの映像では、「サスペンス」「ナイアガラの滝」「水力発電」「滝がもたらす死(電気椅子、サスペンスの山場)」「消失」「視線と主体」といったキーワードをめぐる会話が繰り広げられ、鏡合わせのように互いの「本名」と「芸名」が反転する2人の話者の自/他の境界も曖昧に消失していく。サスペンスの仕業である「消失」は《電気椅子》と《マリリン》にも起こっており、初期の《電気椅子》ではドアの上にあった「SILENCE」というサインが後の作品では消え失せ、同じく初期の《マリリン》の金色の背景も後に姿を消したという。そして会話体の字幕が流れる映像では、「語りの声」も滝の音などの「BGM」もすべて「消失」し、沈黙が支配する。



会場風景[撮影:田村友一郎]


一方、中尾美園は、「消失した作品」の再現模写というかたちでコレクションに向き合う。中尾は保存修復の仕事に携わりつつ、日本画材を用いた精緻な「写し」によって、高齢の女性たちの遺品や生活のなかの慣習など「失われゆくもの」を記録し、紙の上に物質的強度として留める作品を制作してきた。本展では、美術館設立に関わりのある日本画家、小倉遊亀のリサーチを進めるなかで、1969年にホテル火災により焼失した《裸婦》(1954)という作品に着目した。日記体による小倉の著書に倣い、絵巻仕立ての「再現日記」では、生前のままに残された小倉の画室を訪問調査し、《裸婦》の下絵の発見、残された画材や画筆の観察などが詳細に記録される。また、美術館所蔵の同時期の小倉作品数点を実見し、金属箔の上に顔料を塗り重ねる背景処理、顔料比の推察、顔と胴体の肌色の濃度の比較、輪郭線からはみ出す肌色のおおらかな印象、たらし込みや胡粉の盛り上げなど、技法やディテールの詳細な観察メモも記される。「小倉がどう描いたか」の分析と追体験のなかに、描くことの喜びの共有が伝わってくる。また、中尾が「絵描き」ならではの視点で観察した小倉作品は、本展の前半でも展示されており、もう一度展示室に戻ってディテールをじっくり再確認したくなる。展示室内部でまさに「回遊」が発生するのだ。



会場風景[撮影:来田猛]



会場風景[撮影:来田猛]


また、完成した《裸婦》の再現模写の裏側には、小倉自身の言葉や《裸婦》の発表歴などの資料とともに、「火災を報じる新聞記事」の「模写」(!)が貼られている。作品の焼失をのちに知ったショックと、コレクターの無断の転売を非難する小倉の言葉からは、「保存し後世に残す」美術館の役割が改めて浮上する。

そして、「美術館の活動や機能」に光を当てるのが、ドットアーキテクツ。リニューアル前の4年間の休館中のアウトリーチ的活動を、地下に菌糸を伸ばす「キノコ」の生態になぞらえた資料展示を行なった。県内各所で若手作家を紹介し、リニューアル展の前哨戦となった「アートスポットプロジェクト」、子どもたちへの教育普及活動、他館への作品貸出といったさまざまな活動は、地下に張り巡らされた菌糸が地上に姿を現わした「キノコ」なのだ。

作品どうしの見えない相関関係を「消失と沈黙」によって逆説的に浮かび上がらせる田村、作品自体の「消失」を「記憶の継承や保存」へとつなげる中尾、美術館の機能を生き生きとした生態的ネットワークとして可視化するドットアーキテクツ。それぞれの視点がバトンを渡すようにつながり、コレクションとも呼応する充実した展示だった。



会場風景[撮影:来田猛]


関連レビュー

Soft Territory かかわりのあわい|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年07月15日号)
中尾美園「うつす、うつる、」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年01月15日号)
中尾美園「紅白のハギレ」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年05月15日号)
中尾美園 個展「Coming Ages」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年11月15日号)

2021/09/26(日)(高嶋慈)

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納富信留『ギリシア哲学史』

発行所:筑摩書房

発行日:2021/03/20

本書の著者・納富信留(1965-)は、これまで『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006[ちくま学芸文庫、2015])や『プラトンとの哲学』(岩波新書、2015)といった、専門的な知見に裏打ちされた好著を次々と世に送り出してきた。共同で責任編集を務めた『世界哲学史』(全8巻+別巻、ちくま新書、2020)のインパクトも記憶に新しいが、本書『ギリシア哲学史』はたった一人で執筆された、約750ページにもおよぶ古代ギリシア哲学の通史である。

まず手始めに第I部「ギリシア哲学史序論」に目を通してみれば、本書がどれほど画期的な一冊であるかはすぐにうかがい知れるはずである。このテーマについてはすでに膨大な研究成果があるだけに、たいていの通史はごく一通りの説明に終始するか、せいぜい著者が得意とする領域の知見を二、三、披露して終わってしまいがちである。しかし本書においては、どの章節もごく最近の研究成果を踏まえたうえで書かれているということが、その揺るぎない筆致の端々からうかがえる。

本書の構成についても簡単に見ておこう。さきほども話題にした第I部は二つの序章からなる。まず序章1「ギリシア哲学とは何か」では、そもそもの「ギリシア哲学」をめぐる一般的な解説がなされ、これから記述される「ギリシア哲学史」の外延が過不足ないかたちで示される。つづく序章2「ギリシア哲学資料論」では、写本の伝承や校訂テクストをはじめとする基本事項が手際よくまとめられており、こちらも──とりわけ初学者にとって──きわめて有益である。

本編は、第II部「初期ギリシア哲学」と第Ⅲ部「古典期ギリシア哲学」に大きく分かれ、あわせて32の章からなる。第II部の「初期ギリシア哲学」では、タレス、アナクシマンドロス、ピュタゴラス、パルメニデスといった、イオニアおよびイタリアにおける「哲学の誕生」が、その社会的背景とともに論じられる。また第Ⅲ部の「古典期ギリシア哲学」では、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される、古典期アテナイにおける哲学者たちの学説が幅広く紹介される。内容は明快このうえなく、それぞれの典拠も註にかなり細かく顕示されているため、ここから難なくほかの文献にアクセスすることもできる。本書が、初学者と専門家のどちらにとっても必携であるのは、ひとえにこうした理由による。

ここまで見てきたように、本書は手元において事典的に用いることもできるが、もちろん前から順番に通読するという読みかたも十分に可能である。なかでも、本書のひとつの大きな読みどころとなるのが「ソフィスト」の扱いであろう。古代ギリシアにおける職業的知識人であったソフィストは、基本的には哲学史の正道から排除されることが常であった。より正確に言えば、ヘーゲル以来、ソフィストはこれまでの哲学史のなかにもその存在をみとめられてはいたが、そこではもっぱら「哲学者ソクラテス」対「有象無象のソフィスト」という、否定的な扱いがつきまとってきたのである。本書第III部Bパートにあたる「ソフィスト思潮とソクラテス」は、こうした表層的な見かたに一石を投じ、ソクラテスを同時代のソフィスト思潮のなかに位置づけた、とくに興味深いパートである。

なお、以上のことは、本書が示す歴史区分にとっても小さくない意味をもっている。本書の前半部にあたる「初期ギリシア哲学」は、従来「ソクラテス以前(Pre-Socratic)」の哲学と呼ばれることが珍しくなかった。しかしこの呼称は、昨今の研究成果によってその不正確さがたびたび指摘され、むしろいまでは本書が採用する「初期ギリシア哲学(Early Greek Philosophy)」という呼称のほうが一般的になっている。これだけでなく、本書が示す「ギリシア哲学史」は、過去の通念をくつがえすさまざまなアップデートに満ちている。日本語におけるギリシア哲学史のスタンダードとして、今後長く読まれるべき一冊である。

2021/09/27(月)(星野太)

Vincent Zonca, Lichens. Pour une résistance minimale

発行所:Le Pommier(Paris)

発行日:2021/01/20

本書のタイトルにある「lichen」(仏語)とは、日本語における「地衣類」に相当する言葉である。これは、菌類と藻類が共生してできた複合生物のことであり、生物学的には前者の菌類に分類される。現在、地衣類は世界で約2万種あるとされており、なかには「……コケ(ゴケ)」という名称をもつものも多いのだが、厳密には蘚苔類(コケ植物)とは別物である。

この「地衣類」といういささか聞き慣れない言葉を表題にもつ本書は、フランスの出版社ル・ポミエの叢書「共生(Symbiose)」の一冊として今年(2021年)のはじめに刊行された。この叢書は、哲学者ミシェル・セール(1930-2019)の『自然契約』に着想を得たシリーズであり、まだ立ち上がったばかりではあるものの、今後のラインナップが大いに期待される。本書の著者ヴァンサン・ゾンカ(1987-)は、現在はブラジルのフランス大使館に勤務するかたわら、独立した作家・研究者としても執筆を行なっている(本書がはじめての著書である)

本書によると、地表における地衣類の割合は、およそ8%にもおよぶという。にもかかわらず、普段われわれがその存在に目をむけることは稀である。かれらはわれわれの世界の「周縁」にいるのであって、薬や食料、あるいは顔料として用いられるわずかな例外を除けば、何らかの有意な「目的」に転用されることもほとんどない。本書の副題にある「最小の抵抗にむけて(pour une résistance minimale)」という表現には複数の含意があるが、そのひとつが、もっぱら「開発」や「搾取」の発想に根ざしたグローバル資本主義への抵抗であることは注目されてよいだろう(pp. 274-276)。

しかし何よりも、地衣類の最大の特徴は、はじめにも述べたような菌類と藻類の共生関係にこそある。著者によると、生物学において「共生」という現象が厳密に定義されたのは1877年のことだというが、これはほかならぬ──共生体としての──地衣類の発見をきっかけとしていた(p. 222)。本書でもたびたび紹介されるように、以来この生物は科学者のみならず、「共生(symbiose)」──ないし「寄生(parasitisme)」──について考えるためのさまざまなきっかけを思想家たちに提供してきた。本書もまた、そうした過去の言説に立脚しつつ、「人新世」の時代における共生の問題をあらためて俎上に載せた、詩情豊かなエセーとして一読に値するものである。

本書が対象とする文化領域は多岐にわたる。過去、何らかのかたちで地衣類についての記述を残したカイヨワやバシュラールのような思想家をはじめ、ユゴーやユイスマンスといった作家、あるいはエドゥアルド・コーン(『森は考える』)やアナ・L・ツィン(『マツタケ』)のような人類学者の言説、さらには地衣類をテーマとする詩篇や美術作品の紹介も豊富である。著者ゾンカは、これまでフランス、スイス、フィンランド、日本をはじめとする世界各国の研究機関を訪問してきており、本書では自然科学を土台とした生物学的考察も疎かにされていない(著者が管理するInstagramのアカウントでは、フランス、ブラジルのものを中心とするさまざまな地衣類の写真を目にすることができる)。

なお、本書には『植物の生の哲学』(嶋崎正樹訳、勁草書房、2019)によって知られるようになった哲学者エマヌエーレ・コッチャ(1976-)が短い序文を寄せている。昨今、世界的に「植物の哲学」が活況を呈している様子は本邦でも知られるとおりだが(黒田昭信「他性の沈黙の声を聴く──植物哲学序説」『現代思想』2021年1月号、フロランス・ビュルガ『そもそも植物とは何か』田中裕子訳、河出書房新社、2021)、本書はそうした現代思想の流れにも棹さしつつ、植物ならぬ「地衣類」という小さくも大きな生命に光を当てた、いまだ数少ない領域横断的な試みである。

★──出版社の本著の著者紹介の項を参照。https://www.editions-lepommier.fr/lichens

関連レビュー

エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学──混合の形而上学』|星野太:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

2021/09/27(月)(星野太)

『風景』のつくりかた

会期:2021/09/28~2021/10/03

目黒区美術館区民ギャラリーB[東京都]

「『風景』のつくりかた」は東京藝術大学大学院美術研究科美術専攻先端芸術表現領域出身の大槻唯我、鈴木悠生、寺田健人の三人の写真家のアーティスト・コレクティブによる展覧会。会場で配布されたハンドアウトには「『風景』とは何か」という問いに続いて「身近で当たり前のものとして享受している現代の『風景』とはそもそも何か」「私たちは『風景』をどうつくっているのか」「写真として写しているものは何か」という三つの問いと、「地域社会や都市空間において人間の営為によって生じた痕跡を『まなざす』ことによって、新たな「風景」の獲得を試み」るという宣言が掲げられている。


[撮影:鈴木悠生]


大槻、鈴木、寺田の順に並ぶ展示空間は作家ごとに区切られており、突き当たりにある寺田の展示まで観た観客はそこで折り返し、再び鈴木、大槻の展示空間を通過して会場を出ることになる。

観客がまず、そして最後に再び目にする大槻唯我《Study of Abandoned Mines and Forests》(2020-)は、いまや国内ではひとつを除いてすべてが閉鎖された金属鉱山をテーマにした写真群。有害な排水を処理する鉱滓ダムや不要な土砂を捨てた堆積場、そして破壊された森の植生などを写した写真が並ぶ。「『風景』のつくりかた」と展覧会のタイトルが大きく記された入口を入ってすぐの展示が大槻のものであるインパクトは大きい。展示の冒頭から、都市部に住む私の生活こそが、私の目には入らないところでこのような「風景」をつくり出しているのだということが突きつけられ、展覧会のタイトルの意味するところについて改めて考え込んでしまった。


[撮影:鈴木悠生]


一転、鈴木悠生《TOKYO TRANSPARENT BOUNDARIES》で鑑賞者が目撃するのは、鈴木が「生まれ育ち日常を過ごす東京という都市の風景」。テーマは境界ということで、フェンスや道路、川、陸上競技のトラックなどの境界がある風景に、ところどころその風景のどこに「境界」があるのか判然としない写真も混じっている。例えばある写真では境界を形成していた樹木が別の写真では単に風景の構成要素の一部となるなど、写真間で連続したり変化したりする要素が「境界」とは何かという思考を誘う。鈴木の撮る都市の風景と大槻の撮る山間部の、都市からは排除された風景。その境界はどうつくられているのかなどとも思う。


[撮影:鈴木悠生]


[撮影:鈴木悠生]


展示空間最奥部の寺田健人の連作写真《New Shelter》はタイトルの通り公衆トイレをテーマにした作品。排泄、SNS、食事、クルージング。「公に開かれた私的空間」である公衆トイレを「様々な欲望の実践の場所」として捉える寺田の写真は、公衆トイレの外観やトイレ内部での行為、あるいはその痕跡を捉えたものだ。


[撮影:鈴木悠生]


[撮影:鈴木悠生]


一方、寺田の展示空間の中央に置かれた映像インスタレーション《Act in public toilet》は「①トイレに残された痕跡を写真で撮り収集家のように集め、②トイレに残された痕跡から浮かび上がる人物像を想像して演じるというパフォーマンス」を映したもの。映像が映し出されているディスプレイは四方をパーティションで囲まれていて、鑑賞者はトイレの個室を上から覗き込むようにして(展示の1枚目に置かれた写真のように盗撮めいたアングルから!)映像を鑑賞する。

映像は三種類あり、ひとつは男がトイレの個室で歯を磨いている映像。残る二つはともにトイレを掃除している映像で、一方はインスタライブとして配信されていたもののようだ。歯を磨く男はカメラを意識することもなく、まさに盗撮風の映像なのだが、トイレ掃除の映像については、途中まではやはり盗撮風に見せつつ、やがて男がカメラに向かってジェスチャーをして見せたりカメラの位置を調整したりすることから、それが「やって見せている」行為であることがわかる趣向になっている。インスタライブに関しては言わずもがな。男と鑑賞者との関係が映像によって少しずつ違っているのが巧妙だ。


[撮影:鈴木悠生]


《Act in public toilet》を見終え、再び《New Shelter》に戻ると、鑑賞者は二つのことに気づくことになる。ひとつは展示空間自体が《Act in public toilet》と入れ子構造をなすトイレの個室に見立てられていること(展示の壁面は公衆トイレのパーティションにそっくりである)。展示空間はアーティストの、そして鑑賞者の欲望の発露する空間でもある。もうひとつは、《Act in public toilet》に付されていたという説明に虚偽が含まれていたのではないかということだ。《New Shelter》には《Act in public toilet》のトイレ掃除の最中に撮られたと思しき写真が含まれており、ならばそれは、寺田自身がトイレに残した痕跡だということになる。そこでは痕跡=写真とパフォーマンスの因果が、そして見る/見せるの関係が寺田の説明とは逆転しているが、しかしそれが実際にトイレに残されていた痕跡なのか、それとも寺田が残した痕跡なのかを鑑賞者が判別する術はない。見ることと見せることの欲望は絡まり合っている。

大槻と鈴木の展示はそれぞれ単独ではやや物足りなくも感じ、寺田の展示についてはコンセプトに比して映像やインスタレーションの設えが十分には練りきれていなかったのではないかとも思う部分もある。だが、三つの展示は連なることで、欲望と見ること、視線をめぐるさまざまな思考を誘発する。私的な領域から再び外へと展示空間を逆戻りしながら見る写真に、私はまた異なる思考を誘われる。


鈴木悠生:https://www.yu-suzuki.com/
寺田健人:https://kentoterada.myportfolio.com/work

2021/10/03(日)(山﨑健太)

2021年10月15日号の
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