artscapeレビュー
2022年10月01日号のレビュー/プレビュー
北島敬三 UNTITLED RECORDS
会期:2022/08/26~2022/09/25
BankART Station[神奈川県]
まだまだ残暑が続くなか、展覧会場に足を踏み入れるとひんやり感じられるのは、なにも会場が地下にあるからでも、エアコンが効いてるせいでもないだろう。断っておくが、ひんやりといっても「寒々しい」ということではなく、凛とした冷たさというか、覚めた寒さとでもいう感覚に近い。そう感じる理由はいくつかある。
まずなんといっても、北国の風景を撮った写真が大半を占めているからだ。撮影地は沖縄や鹿児島といった南国もあるが、半数以上は北海道と東北。しかも人けのない海景や雪景色が目立ち、荒涼感が漂う。季節でいえば秋か冬。なんとなく太平洋側より日本海側のイメージが強く、いってしまえば陽ではなく、陰なのだ。また、どれも一様に曇天のせいか、空も海も青色ではなく灰白色か鈍色で、最初に見たときモノクロ写真かと勘違いしたほど色彩に乏しい。
もうひとつ、海や山など自然も写っているけど、主題は建物やフェンスなど直線で構成された人工物であることも、冷たく感じる一因だ。特に被写体として頻繁に登場するのは、吹けば飛ぶような小屋やプレハブ、視界を遮るブロック塀やフェンス、壁が薄汚れていたり窓がなかったりするビルなど、取りつく島もない無愛想な建造物ばかり。そこに人がひとりでも写っていればまだ温度が感じられるが、まったくの無人なので不気味な寒さを感じてしまうのだ。
ここに写っている建造物で知っているものはひとつもないし、固有名詞で語られるべきものもほとんどない。だから見ていて高揚しないし、見ていたいとも思わない。すべて匿名のどうでもいいような風景ばかりなのだ。端的にいって、おもしろい風景ではない。北島はこれを「意味がくじけてしまうような場所」「言葉がつまずく場所」と呼ぶ。
例外は、東日本大震災の被災地を撮った一連の写真だ。これらの破壊された建造物は雄弁に物語るし、誤解を恐れずにいえば「おもしろい」。ただ、これらの写真も同じように「曇天」「無人」の条件下で撮られ、展示でも特別扱いされないため、ほかの写真と同じく見過ごしてしまいそうになり、ハッと気づくことになる。これは被災地の写真が日常風景と断絶しているのではなく、日常の延長線上に位置し、いつでもどこでも被災地になる可能性を示唆しているのではないか。別の見方をすれば、日本全体がすでに緩慢な被災地であり、進行性の廃墟であるということだ。ひんやりする正体はこれかもしれない。
2022/08/26(金)(村田真)
生誕100年 清水九兵衞/六兵衞
会期:2022/07/30~2022/09/25
京都国立近代美術館[京都府]
清水九兵衞と聞いて、真っ先に思い浮かべるのはどの作品だろうか。個人差があるに違いないが、京都市内に点在する朱色の彫刻作品を一度は目にしたことがあるという人も多いはずだ
。清水の野外彫刻は、建築に寄り添い、あるいは建築と公共空間をつなぎながら、見る角度によってさまざまに変化する。私自身、旅先などで清水の作品に出会うたびに、ランドマークとしての個性を放ちつつも、抽象的でどこか有機的なリズムを感じさせる形態に不思議と引き込まれてきた。今回の展覧会は、そんな清水の活動の軌跡を辿るまたとない機会であった。清水ほどよく知られていながら、全貌を捉えようとすると一筋縄ではいかない作家も珍しいのではないだろうか。展覧会名にある通り、清水は九兵衞/六兵衞という二つの顔をもち、現代美術の「彫刻家」と同時に、美術工芸と産業を担う京焼の名家の七代目として「陶芸家」という難しい立場を演じ切った。それだけに、一見すると乖離して見えるほどの複数の作風が、ひとりの作家のなかに同居しているのだ。社会的な立場もさることながら、その懐の深さは、陶器、木、和紙、ブロンズ、真鍮、アルミニウムなど、自身で扱う素材の多様さに表われている。とりわけ、今回初めてまとまったかたちで見ることができた襲名前の陶芸に圧倒された。花器や器、時にオブジェと名付けられた初期の陶芸作品は、厚みや撓みのある土の表情やエッジの効いた形を自由に操って表現されている。八木一夫や鈴木治らから想像する陶芸とも一線を画すような造形を目の当たりにして、一体何が清水の陶芸を育んだのかと、さらに謎が深まるばかりであった。
清水が彫刻家へと転身する1960年代には、プライマリー・ストラクチャーと呼ばれる欧米の新たな彫刻の動向が日本に紹介され、工業素材を用い、環境デザインに通じるような作風が注目された。その特徴を、後の「AFFINITY」や建築と協働した公共彫刻に当てはめるのは容易かもしれない。しかしながら、初期作品から真鍮や木による彫刻へと至る過程と対照しながら九兵衞の仕事を振り返る時、アルミニウムのような工業素材を繊細な表現へと昇華させた軌跡が見えてくる。清水にとって、設計とそれに基づき作ることは単なるプロセスではなく、理想を確かめ乗り越えていく、飽くことのない往復運動だったに違いない。特定のジャンルに与することなく素材や空間と向き合い、掌に収まる器から都市空間に至るまで、常に新たな解釈を追い求めた作家であることに、改めて気付かされるのだ。
2022/08/27(土)(伊村靖子)
建築学生ワークショップ宮島2022
会期:2022/08/27~2022/08/28
嚴島神社とその周辺[広島県]
毎年、楽しみにしている建築学生ワークショップ宮島2022の講評に参加した。今回は朝早くに集合するのが難しいため、初めて前泊する形式を採用し、池原義郎が設計した《グランドプリンスホテル広島》(1994)を堪能することができた。エントランスのホールでは、装飾的な天井の吹き抜けの中央に水盤をはり、螺旋スロープが囲む。まだお金が使えた時代の建築とはいえ、デザインの手数が多く、村野藤吾を想起させる細部も認められる。このホテルからは直接、宮島への高速艇が出発する。
今年は嚴島神社とその周辺が敷地となって、学生の10チームによる1日だけの仮設の構築物が制作された。限られた条件でのインスタレーションは、どうしてもワンパターンになりがちだが、今年は蝋燭、牡蠣、FRP、水そのものなど、これまでにない素材を導入したデザインに注目作が多い。一方、構造ぎりぎりの緊張感ある作品が少なかったのは残念である。このワークショップの見ものは、構造系のクリティークだからだ。もっとも、最優秀となった蝋燭の作品は、あとで熱で溶けて、倒れたらしい。
さて、講評の会場となった千畳閣という木造の巨大な吹き放ちの空間の使い方は圧巻だった。このワークショップは、回を重ねるごとに、伊勢神宮、東大寺を含む各地の寺社関係者など、ゲストが豪華になっているが、今年は複数のSPに警護されながら、国土交通大臣の斉藤鉄夫が来賓として訪れたことに驚く(コロナに感染していなければ、広島ということで、岸田首相があいさつする可能性もあったらしい)。最後の締めくくりには県知事も登場した。
翌日、三分一博志による《弥山展望休憩所》(2013)を見学するために、宮島に残り、もう一泊した。ロープウェイを乗り継いだあと、30分以上山道を登るため、往復で最低2時間が必要となることから、広島に来て、何度も訪問を断念していたからである。参拝中の滑落でときどき本当に人が死ぬ、投入堂(鳥取県)に比べると、だいぶ楽だったが、それでも到着すると、空気や景色が心地よく、よくここに建てたと思う(建設では、ヘリコプターを使ったようだ)。たどり着くまでの過程も含めた体験の空間であり、そこに存在するだけで感動をもたらす建築だ。
建築学生ワークショップ宮島2022 公式サイト:https://ws.aaf.ac
2022/08/28(日)(五十嵐太郎)
みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2022 内覧会、「ここに新しい風景を、」
会期:2022/09/03~2022/09/25
[山形県]
前回は完全オンラインとなった山形ビエンナーレ2022の記者発表に出席した。全体としては7つのプロジェクトを軸としているが、プレスからの何組参加していますかというお約束の質問に対し、正確には数えられないという答えが、その特徴を示している。すなわち、国内外の著名なアーティストを招聘するのではなく、地元の山形にゆかりのある芸術家、デザイナー、建築家、研究者が、チームをつくるほか、学生による「東北画は可能か? 」の作品群、ムカサリ絵馬、小学校教育の絵画も出品されるなど、さまざまなパターンで参加しているため、単純に何組という表現はほとんど不可能なのだ。
特に三瀬夏之介がキュレーションを担当した「現代山形考~藻が湖伝説~」は、かつて山形に大きな湖があったという言い伝えをもとに、さまざまなジャンルの展示物が混在し、メインの会場となった文翔館の議場ホールは、「驚異の部屋」的な空間になった。例えば、近現代の絵画、彫刻、ヤマガタダイカイギュウの模型、修復技術、仏像、考古学、ゲーム、映像、地蔵や街並みのリサーチなどだ。あいち2022のように、1部屋に1作家とは全然違い、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ超高密度な内容ゆえに、議場ホールの鑑賞はかなりの時間が必要となる。ちなみに、筆者の研究室も、会場となる文翔館の誕生時に開催された1916年の巨大博覧会(共進会)、ならびに古典主義の細部を分析したパネルを出品し、建築家の貝沼泉実が湖をイメージして、青いカーペットを敷いた会場デザインを担当している。
一方、いつも山形ビエンナーレの会場となる東北芸術工科大学は、今年が開学30周年を迎えるということで、その記念展「ここに新しい風景を、」が同時開催された。小金沢智によるキュレーションのコンセプトは、大学が始まったとき、「この敷地は全部畑と田んぼだった」という理事長の言葉を受けて、構想されたものである。大学の1階では大型の年表と関係者の言葉、7階では卒業生8組とひとつのプロジェクトを展示した。各ジャンルから、多田さやか、西澤諭志、近藤亜樹、近藤七彩、アメフラシ、飯泉祐樹、「東北画は可能か?」、かんのさゆり、F/styleが参加し、会場ではそれぞれの風景が展開されている。
公式サイト:https://biennale.tuad.ac.jp
ここに新しい風景を、
会期:2022/09/03(土)~2022/09/25(日)
会場:東北芸術工科大学THE TOP、THE WALL (山形市上桜田3-4-5)
2022/08/28(日)(五十嵐太郎)
新人Hソケリッサ! 横浜市役所パフォーマンス
会期:2022/08/29
横浜市役所アトリウム[神奈川県]
ホームレスによるダンスグループ「新人Hソケリッサ!」のドキュメンタリー映画「ダンシングホームレス」の上映と、ダンスパフォーマンスの公演。新人Hソケリッサ!は、振付家のアオキ裕キが路上生活者のメンバーを募って結成したダンス集団。洗練されたモダンダンスの動きに対して、日本人の土着的な身振りを強調した土方巽の暗黒舞踏のように、都市の狩猟採集民ともいうべき路上生活者の動きや身振りを踊りに反映させようということらしい。「ソケリッサ!」とは「それいけ!」といったニュアンスで、「H」は「ホームレス」「ヒューマン」「ホープ」などを意味する。映画のなかでも語られるとおり、メンバーは精神疾患があったり子どものころ親に暴力を振るわれたり、なにかしらワケありの人生を歩んできた人たちばかり。その多くが歯が欠けており、彼らの過酷な人生を物語っている。
都市の狩猟採集民と呼んだが、彼らの動きはハンターのように素早いわけではなく、逆におどおどしてどんくさい。むしろその不自由でのろまな肉体表現が、無駄のないテキパキ至上主義の現代では新鮮に映る。だが、それを見て喜ぶ人がどれだけいるだろうか。映画では、関西に遠征して釜ヶ崎で野外公演を行なったとき、観客から「いつまでやってんだ」みたいなヤジが飛ぶ。その後に出演したロックバンドはウケがよかったので、なおさら落ち込む。東京とは違って大阪人は反応がストレートなのだ。そりゃあ薄汚い中年オヤジがのそのそ動くだけの踊りより、ノリのいいロックに惹かれるのは当たり前、対抗するもんではない。
上映後、アオキ裕キのトークを挟んで、サウンドアーティストの西原尚をゲストに迎えてのパフォーマンスが行なわれた。西原は自作のキテレツな音具を鳴らしながら練り歩き、それに合わせるともなくダンサーは独自の踊りを始めるのだが、どうも映画で見た動きとは違っておもしろくない。市役所の巨大なアトリウムで、大勢の観客を前にアガってしまったんだろうか。無理しているというか、いつもよりうまく踊ろうと背伸びしているようにも見受けられ、見ていて辛かった。うまく踊ろうとすればするほど、単なる素人のヘタな踊りに近づいてしまうのだ。しかも西原の音とオブジェが圧倒的に場を支配したため、彼らの存在がますます霞んでしまったようにも感じられた。やはり音には敵わないのか。
だが、ハーメルンの笛吹きのように西原の先導でダンサーが屋外に出て行ったあと、最後に残ったメンバーのひとり平川収一郎が披露したソロが、すばらしいの一言に尽きた。背伸びも気負いも感じられず、路上生活者たる自分の動きをまっとうしたのだ。いやー、いいものを見せてもらった。こんな素敵な企画に真新しいアトリウムを提供した横浜市役所もエライ。ていうか、こういうイベントに使うほかに有効な使い道はあるか?
新人Hソケリッサ! 公式サイト:https://sokerissa.net
2022/08/29(月)(村田真)