artscapeレビュー
2023年11月15日号のレビュー/プレビュー
文学座『アナトミー・オブ・ア・スーサイド─死と生をめぐる重奏曲─』
会期:2023/09/21~2023/09/29
文学座アトリエ[東京都]
文学座9月アトリエの会として『アナトミー・オブ・ア・スーサイド─死と生をめぐる重奏曲─』(作:アリス・バーチ、演出:生田みゆき、翻訳:關智子)が上演された。本作は2017年にケイティ・ミッチェルの演出でロンドンのロイヤル・コート劇場で初演。2019年に同じくケイティ・ミッチェルの演出で上演されたドイツ版はその年にドイツ語圏で上演されたすべての作品から「注目すべき10作品」を選出するテアター・トレッフェンに選ばれるなど高い評価を得ている。
日本では2021年2月に『自殺の解剖』というタイトルで国際演劇協会日本センター主催の「ワールド・シアター・ラボ」の一作としてリーディング上演が行なわれており(演出・翻訳は同じく生田、關)、今回の文学座での上演はその成果を踏まえたものということになる。「ワールド・シアター・ラボ」は「海外で創作された現代戯曲の翻訳と上演を通して、次代を担う翻訳者の紹介・発掘と、私たちが生きる同時代の世界の現実をよりよく理解する視点に触れる機会をつくること」を目的としたものとのことで、同年1月にはリーディング公演に先がけてファシリテーターに瀬戸山美咲を迎えた戯曲読解ワークショップも実施されている。同時代の海外の劇作家の戯曲がこれだけ丁寧なステップを踏んで紹介されることは珍しく、それが文学座での上演として結実したことは事業の大きな成果といえるだろう。
ほとんど装飾のない殺風景な舞台の奥にドア枠と思しきものが等間隔に三つ。正方形の部屋が三つ横に並んだような舞台でキャロル(栗田桃子)、その娘アナ(吉野実紗)、そしてアナの娘ボニー(柴田美波)の三世代の女性の生が同時に描き出される。「死と生をめぐる重奏曲」という副題が示唆する通り(ただし副題は原題にはなく邦題として新たに付されたもの)、三世代それぞれの場面に現われる言葉や身振り、モチーフは互いに呼応しながら連なっていく。文学座の俳優は素晴らしいアンサンブルでもってその構造を見事に浮かび上がらせていた。
緻密に編まれた戯曲はしかし、その美しい構成でもってキャロルの、アナの、そして誰よりもボニーの生を縛り上げ窒息させようとするかのようだ。冒頭の場面からキャロルの自殺未遂が示唆され、精神的不安定と希死念慮は通奏低音のように作品全体を覆うことになるだろう。死と娘への愛に引き裂かれながら何とか生き続けようとしたキャロル。薬物依存を抱えながらジェイミー(山森大輔)と出会い、幸せな生活を夢見て娘を産んだアナ。医者となり忙しい生活を送るも、自分も母たちのようになるのではないかという不安から同性の恋人ジョー(渋谷はるか)とうまく関係を結べないボニー。戯曲を構造として支えるフーガの形式は出産によって命が、生が連なっていくことを示す一方、自殺という結末が世代を超えて繰り返されてしまっていることを示すものでもある。
しかも、キャロルとアナの死はそれぞれの物語でその結末に至るより先に、下の世代の物語のなかで語られてしまうのだ。三世代の物語が同時に提示されることで、キャロルとアナの結末は避けられない運命としてあらかじめ決定されてしまう。娘の生こそが母の死を決定づけるかのような作品の構造は残酷だ。
ボニーにとって母になることと自殺してしまうこととはほとんど不可分なものとしてある。だからこそ、自分もまた母や祖母と同じように自殺してしまうのではないかという不安を抱えるボニーは(それは自分も死を次の世代に引き継いでしまうのではないかという不安でもあるだろう)、子宮摘出によって両者を完全に断ち切ることを決意する。ボニーの決断はフーガに終止符を打ち、自らの生を生きるためのものなのだ。
ボニーは祖母キャロルからアナ、そして自分へと引き継がれてきた郊外の家も手放すことを決めるだろう。物語は、ボニーが、買い手としてその家を訪れた母娘に、キャロルが好きだった庭のプラムの木の果実を勧める場面で幕を閉じる。生田演出ではここで殺風景な舞台の背後に突如として緑溢れる庭が浮かび上がったのだった(美術:乘峯雅寛)。子を産まずともボニーもまた生命の、世界の大きな営みの一部であることを視覚的に示し、ボニーのこれからの人生を祝福するかのような美しい終幕だ。
だが、それでよいのだろうか。なるほど、ボニーの決断は自らが生き延びるためのものであり、それは肯定され祝福されるべきものだろう。そこに第三者の価値判断が入り込む余地はない。しかし、本来ならばボニーに、アナに、キャロルにその決断をさせるに至った状況こそが問題であるはずだ。作中で決断の明確な理由が示されることはない。しかし、家父長制をベースとした社会規範とそれに基づく周囲の人間の言動が女としての、母としての、クィアとしての彼女たちを抑圧し傷つける場面は繰り返し描かれていたではないか。真に断ち切るべき連鎖は、世代を超えていまなお連綿と受け継がれ生き延びているそのような社会のあり様の方だろう。終幕の美しさはともすればすべてを肯定し、断ち切るべき鎖から目を逸らす目眩しにもなりかねない危険なものだ。彼女は自らが囚われてしまった鎖を自分なりのやり方で断ち切った。私に求められているのはそこに心を寄せることではなく、では自分はどうかと問い行動することのはずだ。
2023/09/26(火)(山﨑健太)
KYOTO EXPERIMENT 2023(前編) チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』
会期:2023/09/30~2023/10/03
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
出演者の属性(社会的、人種的、国籍、母語、ジェンダー、セクシュアリティ、障害/健常……)はどこまで舞台作品の成立に関与するのか。とりわけ、マイノリティ性をもつ当事者の出演は、「再現/表象」という演劇の原理とどこまで批評的に関わるのか。演出家の権力性、そして「観客」という立場は、どのように反省的に問われうるのか。本稿では、こうした視点から、KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭 2023の上演作品のうち4つを取り上げる。前編ではチェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』、中編ではバック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』、後編ではアリス・リポル/Cia. REC『Lavagem(洗浄)』とウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』について考察する。
チェルフィッチュの新作『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』は、日本語を母語としない出演者との協働により、「アクセントや文法の正しさ」というネイティブ視点の基準から解放し、「日本語で上演される演劇」を更新しようとする画期的な試みである。チェルフィッチュ主宰の岡田利規は、2021年からノン・ネイティブ日本語話者との演劇プロジェクトを始動。ワークショップやトーク、オーディションを経て選出した俳優とともに本作を制作した。戯曲は『新潮』2023年10月号に掲載。
舞台は宇宙船イン・ビトゥイーン号の船内。「わたしたちの言葉の著しい衰退」を食い止めるため、地球外知的生命体を探索し、言葉を習得させるという政府主導のミッションを帯びた4人の隊員と、船内の掃除など雑用を担う人型ロボットが乗船している。宇宙船がワームホールを抜けて太陽系の外へ出たとき、いつのまにか船内には一体の地球外知的生命体が入り込んでいた。それは正確にはどのタイミングだったのかを「再現」する、という体で6名の会話が展開する。
これだけでも十分メタ演劇的な構造だが、本作のポイントは、「日本語を母語としない俳優が日本人隊員を演じ、日本語ネイティブの俳優がロボットや宇宙人を演じる」という逆転の構造にある。この戦略的な「反転」により、言語の政治性をめぐる問いがさまざまにパラフレーズされ、立体的かつ歴史的な奥行きを獲得していく。
開始早々、コーヒーの抽出開始を告げるマシンの「不自然な」人工音声が流れることは示唆的だ。この演劇が、日本語の「自然さ/不自然さ」の基準、その判断を下すネイティブ=マジョリティの特権性、AIのアルゴリズムによる言語学習/ノン・ネイティブ話者による外国語学習といった主題を扱うものであることを予告する。そして、登場した隊員たちは、「宇宙の音楽」についての会話を始める。それは「地球の音楽」とどこまで似ている/違うのか。
隊員たちは、存在しないヘッドフォンを耳に当てて「音楽を聴くフリ」をし、見えないヘッドフォンを手渡し合う。「宇宙の音楽」への想像は、詩的なメタファーとして機能し始める。母語という重力圏を離れ、意味から遊離し、純粋な音へと近づく言葉の群れ。隊員のひとりは「ここにあるよ」とヘッドフォンを仲間に手渡すが、まさに彼らの話す日本語の響きは、アクセントの位置や強い母音の発音などにより、音楽的に聴こえ始める。あるいは、「発音の不安定さ」は、意味の揺れや多重性を偶発的に引き起こし、聴く側の想像を拡張する。例えば、「地球を思い出させる音楽を聴きたくないが、地球の存在を頭のなかから消すと、地球に残した人たちを見捨てたことになってしまう」と語る隊員の「カットゥのドラマ」は、「葛藤」のなかに「切断(cut)」をはらんでいる。また、政府主導のプロジェクトへの参加を文部科学大臣から打診され、「悩んでいる」と正直に発言したら、大臣がブチギレて暴れたというエピソード。「犠牲になったショッキ」は、「食器(床に叩きつけられた皿)」だけなのか。不機嫌な上司の暴言・暴力を浴びた「書記」もモノ化された存在として二重写しになる。
隊員たちの話す日本語が、多様な響きをもつ「宇宙の音楽」として聴こえ始めると同時に、ネイティブ話者の俳優の発語は抑揚を欠いた平坦なものに感じられてくる。また、英語をカタカナ表記した単語は発音の差異が際立つことで、日本語のハイブリッド性が意識され、「純粋な日本語」に疑義を突きつける。
もちろんここには、「ノン・ネイティブの俳優が日本語で話す演劇」がネイティブの作家によってつくられ、(国際演劇祭とはいえ大半が)ネイティブの観客が見るという暴力性や構造的不均衡がある。岡田はこのことに自覚的で、だからこそ本作は「日本(語)批判」へと矛先を向ける。象徴的なのが、船内の雑用を担う人型ロボットの「ヨシノガリさん」が、「やりがいを感じたいから、フィルター掃除の回数を減らしてほしい」と訴えるエピソード。ロボットのヨシノガリさんが「やりがい」という言葉を使うことに違和感を抱く隊員。「ヨシノガリさんの言葉はアルゴリズムですよね」と面と向かって言う線引き。微妙な反抗心を見せていたヨシノガリさんは後半、取り替えるはずの蛍光灯を武器に持ち替えて暴れ出す。「みなさんは、ずっと前からだ、最初からだった、わたしのことを侮辱していた」。丁寧な言葉遣いという「偽善の糖衣にくるまれた」差別感情。人間の言語を学習するAIプログラムがネイティブ俳優によって演じられ、日本語を習得したノン・ネイティブ俳優が日本人を演じるという転倒の操作により、移民労働や移民差別を逆説的に浮かび上がらせる。隊員たちの「安全で快適な生活」を支える労働に従事し、言葉の習得過程で区別されるロボットとは、3Kの現場や清掃業で働く移民のパラフレーズである。また、船内に入り込んだ宇宙人が何重にも受ける「凶暴度レベルチェック」「知性レベルチェック」は、コミカルな笑いを通りこしてブラックジョークだ。
そして、「言葉の衰退」を食い止めるため、宇宙に進出して知的生命体と接触し、言葉を習得させるミッションが国家規模で進められていること自体、過去の植民地主義における同化政策を「SF的未来」へと批判的に反転させたものにほかならない。「チクブシマ」「アマツカゼ」「ナニシヲワバ」といった乗組員たちの古風な名前に冠せられたナショナリズム。太陽系外へと抜けるワームホールが近づく瞬間、隊員は「宇宙船の窓」に見立てた舞台前面のフレームを通して観客席をのぞき込む。私たち観客が、母語の共同体から「宇宙空間」に放り出されるという反転。「人間とは比較にならない高度な知性レベル」が判明した宇宙人は、隊員たちの言葉を瞬間的に習得し、新たな単語、文法、可聴域外も含む音を付け加え、言語自体が有機生命体のように進化・変容していく未来について独白する。だが、「真空やダークマターのヴァイブレーション」を織り交ぜたその語りは、「それを捉えるレセプターを持ち合わせていない」隊員たちには理解されず、「わたしたちの言葉の末永い繁栄を願って」〈サザレイシさん〉と皮肉かつ暴力的に命名されてしまう。
日常着や作業服を着た隊員やロボットとは異なり、〈サザレイシさん〉の全身は、梱包用のプチプチシートのようなもので覆われている。初めは周囲を遮断する透明なバリアのように見えたそれは、可聴域外の音や真空のヴァイブレーションすら含む「宇宙の音楽」を捉えるためのレセプターだった。あなたは、バリア/レセプターのどちらを持ち合わせているのか。絶えずそう呼びかけられているような上演だった。
KYOTO EXPERIMENT2023 チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』:https://kyoto-ex.jp/shows/2023_chelfitsch
チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』京都公演(KYOTO EXPERIMENT2023):https://chelfitsch.net/activity/2023/08/in-between.html
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2023/10/03(火)(高嶋慈)
KYOTO EXPERIMENT 2023(中編) バック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』
会期:2023/10/07~2023/10/08
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
「母語/非母語」という区分をてこに、舞台上の出演者/観客席の関係を反転させつつパラフレーズさせたチェルフィッチュとは対照的に、「マイノリティの当事者が、当事者として舞台に立つ」姿勢の貫徹によって問いかけるのがバック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』だ。オーストラリアで1987年に設立された現代演劇カンパニーのバック・トゥ・バック・シアターは、知的障害のある俳優を中心に、当事者が直面する社会的・政治的問題についてワークショップや議論を重ねながら作品化している。
『影の獲物になる狩人』は、「知的障害者のアクティビスト3名による集会」というかたちで上演される。自分たちで椅子を並べ、立ち位置を示す場ミリテープを張る設営作業から始まる集会は、意見のすれ違いや対立を通して、さまざまな問題を照射していく。「適切な言葉の使用」をめぐるポリティクス、性被害や労働搾取といった障害者への虐待、人工知能がはらむ進化や優生思想の問題。出演者が本名で登場し、互いに呼び合うこともあり、現実に生きる姿とフィクションの境界が曖昧に混ざり合っていく。
出演者のスコットは冒頭、「私たちは障害者の集まりです。不公平や差別をなくそう」と宣言するが、彼ら3名のなかにも立場や思想の相違、分断、マウンティング、微妙な権力関係がある。「障害」は自分を表わす言葉ではないと反対し、「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」という語を提案するサラは、「言葉の問題について議論したくない」と反対される。「何を話せばいいかわからない」とフリーズするサラ。スコットは「発言権を与えるのは彼女のためだ」と正当化するが、3人目のサイモンに「権利を与える」という言い方の欺瞞性を指摘されてしまう。
発言権、言葉の適切な使用、「正しい発音」といった言語のポリティクスは、「ワタウロング(Wadawurrung)」という固有名をめぐる冒頭の会話のなかに既に書き込まれ、先住民への差別や虐待というオーストラリアの負の歴史と接続する。「知的障害者独特のしゃべり方」と自ら言うその話し方にとって、集会の開催地を居住地としていた先住民の部族名は発音が難しく、「正しく」発音されない。中盤の演説シーンでは、障害者が何千年ものあいだ、権利を奪われ動物のように扱われてきたことが糾弾されるが、そこには見えない「影の獲物」として先住民もまた連なり交差しているのだ。
「他者に代弁されず、自らの言葉をもって語ること」への希求と困難さが本作の主題のひとつである。冒頭、「沈黙」してただ立ち尽くすだけだったサラが、後半で客席に語りかける姿は本作のハイライトだ。「人に理解されようとあなたは苦しむ」「レッテルには慣れねばならない」「自分の権利のため、声を上げる必要がある」「他者はあなたの限界を示してくる」「自分の身体の権利すらもてないこともある」……。これらの言葉は、知的障害者に限らずさまざまなマイノリティ性をもつ当事者にとって、切実な連帯の声として響くだろう。
ここで、本作の秀逸な3つの仕掛けに触れたい。①「集会」という設定。客席への直接的な呼びかけは、観客を「その場にいないこと」にせず、「集会の聴衆」として巻き込んでしまう。②「字幕」の両義性と、「字幕/AI」の境界の侵食。本作における字幕は、「英語の台詞の翻訳」という補助的な役割以上に、両義的な意味をもつ。「(発音が不明瞭でも)字幕のおかげで理解してもらえる」というメタ的な台詞。だが、字幕という「わかりやすく伝える装置」は、「自分が吹き出しになって、説明を貼り付けられるよう」と出演者自身に感じさせる暴力性ももつ。そして字幕は、第四の出演者として音声のみで登場する「AIの声」の可視化でもある。「AIが人間を超えた未来」についての会話は、「人間はAIに奴隷か障害者のように扱われるだろう」という想像に向かい、「知能」という基準の恣意性を反省的に突きつける。
そして、③舞台前面の床に張られた「場ミリテープの線」もまた、極めて両義的だ。声を奪われてきたマイノリティの当事者が、自分たちで「発言の場」を準備してつくりあげることを示す。同時に、舞台前面に出て演説する出演者の足元に引かれたその線は、「客席との境界線」でもある。ラスト、出演者たちは再び自分たちで撤収作業を行ない、テープの線を剥がして退場する。それは「境界線が消えた未来」なのか、それとも「皆が“知能に問題がある”とAIに判断される未来」なのか。
KYOTO EXPERIMENT2023 バック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』 :https://kyoto-ex.jp/shows/2023_back-to-back-theatre
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2023/10/07(土)(高嶋慈)
KYOTO EXPERIMENT 2023(後編) アリス・リポル/Cia. REC『Lavagem』、ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』
『Lavagem(洗浄)』は、ブラジルの振付家アリス・リポルが、リオデジャネイロのスラム街・ファヴェーラの若者たちと結成したグループ、Cia. RECのダンス作品である。有機的生命の誕生を思わせる冒頭から始まり、パワフルなコンタクト、集団/個の融解、アクロバティックな「出産」と、ダンサーの身体性の強さを見せつける印象的なシーンが続く。冒頭、舞台上に現われるのは、巨大な卵のようなブルーシートの球体だ。中に潜むダンサーたちの動きにより、生き物のように形を変えて転がるブルーシートの塊。シートと床がこすれる、波や葉ずれのような音。何かがまさに生まれ出ようとする気配。そしてシートの中から姿を現わしたダンサーたちは、奇声を発しながらシートをリズムカルに床に打ちつける。めまぐるしい回転と体勢を変えながらのリフト。祝祭的な音と運動の爆発。バケツがドラミングのように激しく叩かれ、水しぶきが飛び散り、頭どうしを接触させたコンタクトを行なうデュオが一体の生き物のように蠢く。そして再び広げられたブルーシートの上には、石鹸を入れた水が撒かれ、ダンサーたちも身体を洗い、熱気と汗が石鹸の匂いで清められていく。
中盤では、ダンサーたちが組み体操のようにさまざまな体勢で手足を絡ませ、身体と身体の「隙間」に身を押し込んだひとりのダンサーが床に滑り落ちる。今まさに羊水の中から生まれ落ちたかのように、てらてらと光る身体。潤滑油として働く石鹸水。産み落とされた身体は、すぐに次の「有機的な出産機構」の一部となり、個と集団の境が融解していく。
後半では、バケツとバケツのあいだに橋のようにタオルが張り渡され、ダンサーたちはリズミカルな歌や足踏みとともに、バケツの中で石鹸を泡立て、「白い泡の塊」を生産し続けていく。陽気な集団労働のようでもあり、横たわったひとりのダンサーの身体の上に「泡」を載せて覆っていくさまは、謎めいた葬儀の儀式のようでもある。終盤、石鹸水に漬けたタオルで頭部を覆ったダンサーたちは、「フーッ」「シュコーッ」という息の音とともにシャボン玉の塊を吹き出し、幻想的な光景が出現する。頭部から吐き出されるシャボン玉の塊は、息の結晶化であると同時に、抑圧された言葉のメタファーも思わせる。ガスマスクを付け、聴こえない言葉の塊を吐き出し続ける異形の者たちの徘徊。そして彼らの背後には、泡で覆い隠された遺体が横たわっている。
タイトルの「Lavagem」はポルトガル語で「洗浄」を意味する言葉であり、「マネーロンダリング」や「洗脳」を意味する表現にも用いられる。石鹸の泡は汗や体臭といった「不快なもの」を洗い流して消すが、「黒い肌のダンサーの身体」を白く覆い隠し、不可視化する。それはまた、清掃や消毒といった、社会の衛生維持を支えつつ不可視化された労働を示唆する。
ダンサーの身体性の強さと「石鹸」という小道具の効果が見る者を惹きつける本作だが、「振付家と出演者の人種的ヒエラルキー」について、振付家がどこまで自覚的に考えているのかが気になった。出演者は全員、肌の色から黒人系のルーツと思われ、作品のコンセプトも「黒と白」の対比に戦略的に支えられている。だが、アフタートークに登場した振付家のアリス・リポルは白人系のルーツと思われ、「衝動的にモノを床に叩きつける」「動物のような鳴き声を立てる」「叫び声やハミングなど“明確な言語”を話さない」といった振付言語が「動物性」「野生」を強調するだけに、振付家/出演者という構造的ヒエラルキーが、肌の色で可視化される社会的ヒエラルキーを再生産しているように感じられた。「出演者のマイノリティ性を演出家・振付家が共有していない」という点では、中編で取り上げたバック・トゥ・バック・シアターもそうではないかという意見があるかもしれない。だが、「上演の外部の出来事」ではあるが、両者の相違は「アフタートークに誰が出演するか」に表われていたのではないか。バック・トゥ・バック・シアターのアフタートークでは、演出家に加え、出演者3名も参加し、「本番はまだ続いているのでは?」と思わせる自由闊達な意見交換が繰り広げられた。一方、本作のアフタートークは振付家だけだったことは対照的だ。
そして、こうした個々の出演者に貼り付けられた属性のラベルすら飛び越えて、「出演者」それ自体の置かれた抑圧的構造を文字通り舞台に上げるのが、ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』である。二部構成からなり、第一部「ジャグル」では、タイの演出家、ウィチャヤ・アータマートが自作の歴史とタイの現代史を織り交ぜながら語るレクチャー音声が流れる。アータマートの作品自体、タイの政治問題を扱うものであり、検閲を免れるためにメタファーとして小道具を使用してきたことが、記録映像と、舞台上に召喚されるさまざまなモノたちによって紹介される。書籍や写真などの資料、日常雑貨、ミニチュアの置物、おもちゃといったモノが低い台の上に所狭しと並べられ、レールを走るおもちゃの列車に搭載されたスマートフォンのカメラが捉える映像がスクリーンに中継される。
第二部「アンドハイド」では、歴史的日付、額縁、歌、ピザ、扇風機といった小道具たちが共同戦線を結成し、自分たちに一方的に意味を押し付けて搾取してきた演出家の権力性や独裁性に対して異議申し立てを唱える。もちろんこれは演出家自身の筋書きによる「自作自演」であり、終盤、「仲間割れ」を起こして、自壊するかのように動き続け、光を明滅し続けるモノたちの反乱/運動もプログラムされたものではある。
だが、「上演終了」後、舞台上に並べられたモノたちを観客が自由に見学し、写真撮影も許可された時間が設けられていることに注意したい。ここで初めて観客は、「ビデオカメラによる中継映像」すなわち演出操作を介さずに、自らの目で直にモノたちと向き合うことになる。そして、この時間のあいだ、次のような文言がスクリーンに映し出される。「これからみなさんがご覧になるのは『演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち』というタイトルのパフォーマンスです(……)最後の観客の方が劇場から立ち去ったときに 上演も終了します」。前編と中編で取り上げたチェルフィッチュやバック・トゥ・バック・シアターの演劇作品は、「舞台/客席」の境界や分断を反省的に問うものだった。本作では、観客も「上演」を担う一部として一種の共犯関係にあることを突きつけつつ、「舞台上の出演者(モノ)の方へ観客が一歩踏み出す」時間と関係性を担保する姿勢に、境界や分断の解消へ向けた希求が感じ取られた。
KYOTO EXPERIMENT2023 アリス・リポル / Cia. REC『Lavagem(洗浄)』
開催日:2023年10月6日(金)、10月7日(土)
会場:ロームシアター京都 ノースホール(京都府京都市左京区岡崎最勝寺町13)
KYOTO EXPERIMENT2023 ウィチャヤ・アータマート / For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』
開催日:2023年9月30日(土)、10月1日(日)
会場:京都芸術センター 講堂(京都府京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2)
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2023/10/07(土)(高嶋慈)
即興 ホンマタカシ
会期:2023/10/06~2024/01/21
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
本展の日本語のタイトルは「即興」だが、英語のタイトルは「Revolution 9」になっている。そのことに気づいて、なるほどと思った。そのネーミングに、ホンマタカシが今回の展覧会に向けたメッセージが端的にあらわれていると感じたからだ。
「Revolution 9」というのは、1969年に発売されたザ・ビートルズの9枚目のアルバム『The Beatles』(通称「ホワイト・アルバム」)の最後におさめられた、8分21秒の曲である。ジョン・レノンがほぼ単独で、さまざまな音源を収録したテープをコラージュして繋ぎ合わせ、「ミュージック・コンクレート」の手法で実験作を完成させた。意欲的な作品であることは間違いないが、それまでのビートルズ・ナンバーとはまったくかけ離れた発想、手法の作品だったので、評判はあまりよくなかった。「ガラクタ」「世紀の駄作」と非難する声も上がったと聞く。
今回のホンマの展示も、見方によっては大方の予想を裏切るものと言えるだろう。ホンマタカシといえば、明晰なコンセプトと卓抜な技術力に裏付けられて、視覚的なエンターテインメント性にも十分に配慮した作品を、観客に提供し続けきた作家だからだ。ところが、建築物の一室をピンホールカメラに仕立て、世界各地で撮影した写真がアトランダムに並ぶ今回の展示は、どこをどう見ればいいのかわからないという戸惑いを与えるものになっていた。会場の中心には、丸窓が空けられた部屋が設けられ、表題作の「Revolution」「No.9, 3」といった作品を覗き見ることができるようになっている。部屋にはピアノも据えられており、どうやらそこで即興演奏も行なわれるようだ。
だが、まさにその行き当たりばったりにさえ見えるインスタレーションこそ、ホンマが本展で試みようとしたことの具現化だったといえる。彼がここ10年あまり展開してきた、ピンホールカメラを使った作品群は、写真という表現手段に特有の、ノイズを取り込んでは撒き散らしていく「即興」性を、どれだけ取り込めるかという実験だったことがあらためて浮かび上がってきていた。写真という表現メディアの原点に回帰することで、ビートルズの「Revolution 9」のラディカリズムを受け継ごうとする意志を、はっきりと感じとることができた。
即興 ホンマタカシ:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4540.html
2023/10/13(金)(飯沢耕太郎)