artscapeレビュー

2023年11月15日号のレビュー/プレビュー

佐藤信太郎「Boundaries」

会期:2023/10/05~2023/10/29

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

佐藤信太郎は、皇居周辺を撮影していた時に、その辺りがかつて海と陸とを隔てる崖であったことに気づいて、「都市の境界」を意識するようになった。その延長上の作業として、千葉の自宅に近い、かつて東京湾に面していた崖を撮影し始める。崖にはさまざまな植物が生い茂っていた。それらの植物群を「境界のポートレート」として撮影するうちに、個々のイメージを解体し、組み替えて(recombine)いくことを思いつく。こうしてできあがってきた「Boundaries」の連作を集成したのが、今回のコミュニケーションギャラリーふげん社での個展である。

これまでは、都市の建造物を中心に撮影してきた佐藤にとって、植物というより流動的で不定形な被写体にシフトすることは、大きな冒険だったはずだ。だが結果的には、徹底したコラージュの作業によって、都市の眺めを再構築する新たな写真群が立ち上がってきた。ただ、「直線的に画像データを重ね合わせていた」初期の作業から、「木の葉や枝、草花などのすでにある形をレディメイドとしてそのまま利用し、レイヤーを重ね、組み替えていく方法」に移行したことで、植物群のフォルムやテクスチャーが不分明になり、どちらかといえば抽象的な、モザイク状の色面の連なりとなってしまったことについてはやや疑問が残る。イメージ操作が目について、肝心の「都市の境界」のリアリティが薄れてしまったように思えるからだ。

本作を足がかりに、さらなる対象、手法を模索することで、「都市の境界」を巡る、より包括的な作品が成立してくるのではないだろうか。


佐藤信太郎「Boundaries」:https://fugensha.jp/events/231005sato/

関連レビュー

佐藤信太郎「Boundaries」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2023年04月15日号)
佐藤信太郎「The Origin of Tokyo」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年03月01日号)

2023/10/14(土)(飯沢耕太郎)

ロロ『オムニバス・ストーリー・プロジェクト(カタログ版)』

会期:2023/10/07~2023/10/15

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

SNSの普及で私の「今ここ」とは異なる時間・場所を友人知人、あるいは見知らぬ誰かがどのように生きているかを知る機会が増えた。だが、それはもちろん取捨選択を経てタイムラインへと投げ込まれた人生の断片に過ぎず、それらはときに、その周囲に私には知ることのできない時間や場所が広がっているのだということを改めてまざまざと感じさせることになる。

東京芸術祭2023の一環として上演されたロロ『オムニバス・ストーリー・プロジェクト(カタログ版)』(テキスト・演出:三浦直之)は、三浦が書き下ろした50のキャラクターをもとに、各地の⼤学や劇場でそれぞれに上演を立ち上げていくプロジェクトのオープニングとなる東京芸術祭バージョン。50のキャラクターにはそれぞれ氏名・年齢・エピソードを含む300字程度のプロフィール、そして1ページの台本だけが用意されており、それらを種に各地で創作が行なわれていくのだが、今回はその種となる台本を一挙に上演する形式での公演となった。

「オムニバス・ストーリー・プロジェクト」(以下OSP)にはロロが2015年から2021年にかけて取り組んでいた「いつ高」シリーズからの展開としての側面もあるだろう。「いつだって誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」という架空の高校を舞台にしたこのシリーズでは、「高校演劇で上演しやすい作品を」という三浦の思いから、上演時間60分以内などの高校演劇のフォーマットを踏まえた作品が書かれ、上演を望む高校生にはその台本が無料で提供されてきた。上演台本(=物語)以前の設定のみを手渡すOSPの試みは、「いつ高」シリーズでの試みを創作のさらに手前の段階にまで拡張するものであり、三浦と各地でOSPに関わるつくり手たちとの、そしてOSPのキャラクター同士の出会いから新たな物語が生まれてくるための場を用意するものだと言える。


[撮影:阿部章仁]


6人の俳優(⼤場みなみ、北尾亘、⽥中美希恵、端⽥新菜、福原冠、松本亮)、90分の上演時間で46人の登場人物(4人は今回は未登場)/35のエピソードを演じる今回のバージョンは「カタログ版」というタイトルの通り、これから展開していくプロジェクトやキャラクターを紹介する性格をもつものだ。同時に、このようなかたちでの上演はOSPのベースになっているであろう世界観を、あるいはそれが全体として描き出そうとしている世界の像をより鮮やかに示すものにもなってもいたのではないだろうか。人はほかの人の人生のごく一部しか知ることができず、しかしそれらはときに思いもよらぬかたちで関わり影響を与え合っている。OSPは続いていくことで描かれた世界の外側に、自分に見えている世界の外側に手を伸ばし続けるプロジェクトなのだ。


[撮影:阿部章仁]


[撮影:阿部章仁]


三浦は本作の構想の原点として江國香織の小説『去年の雪』を挙げているが、ここに小説と演劇との違いを見ることもできるだろう。OSPは今後も各地で創作と上演が続いていく。それはつまり、登場人物たちが実際に、観客である私が立ち会った「今ここ」ではない時間・場所を生きていくということを意味している。

今回の上演では、6人の俳優が46人もの登場人物を演じることによって生じる演劇的な効果もまた、OSPが立ち上げる世界にたしかな手触りを与えるのにひと役買っていた。複数役の演じ分けは本作の見どころのひとつだが、それでも、同じ俳優が複数の登場人物を演じることで、それらの人物があたかも同一人物であるかのような錯覚が生じる瞬間がある。そのとき、その俳優は回路となり、互いに関係のないはずの複数のエピソードを、そこに登場する人々をつなぐことになる。街ですれ違う見知らぬ他人に見知った誰かの面影を見るのにも似て、そのようにして触れ合う世界の間には少しだけ親しみが宿ることになるだろう。

実際のところ、何人かの登場人物は複数のエピソードに登場しており、つまりは文字通りの「同一人物」なのだが、名前や設定からそれがはっきりとわかる場合もあれば、上演においてはそのことが明示されていない場合もある。その場合、観客は作中に複数回登場した人物が(同じ俳優が演じているにもかかわらず)「同一人物」であることに気づかないまま上演を見続けてしまう可能性があるわけだが、それは日常においても同じだろう。通学の電車でよく見かける人物が駅前の本屋の店員だったということにある日はたと気づく、などという経験は誰にでもあるのではないだろうか。世界はそんな「すれ違い」に満ち満ちているのだ。

90分で35エピソードという驚異の上演をただ可能にするのみならず面白い上演として成立させられたのはスタッフワークの力も大きい。ときに滑らかに、ときに素早く、ときにゆるやかに溶け合いながらの場面転換を実現し、舞台上にさまざまな時空間を軽やかに立ち上げてみせたスタッフ(美術:青木拓也、照明:富山貴之、音響:池田野歩、衣裳:臼井梨恵、舞台監督:原口佳子)に大きな拍手を送りたい。


[撮影:阿部章仁]


[撮影:阿部章仁]


OSPとしては11月15日・16日に四国学院大学(香川)でSARP vol.24として『カタログ版 in 四国学院大学』の、12月16日から23日には芸術文化観光専門職大学(兵庫)でCAT舞台芸術実習公演 PAP vol.4として『饒舌なダイジと白くてコトエ、マツオはリバーでネオには記憶』の、そして2024年3月16日・17日にいわきアリオス(福島)でいわきアリオス演劇部U30による上演が予定されている。

2月にはパルコ・プロデュース2024『最高の家出』で三浦が作・演出を務め、ロロメンバーも多数出演。2023年11月には劇団のファンコミュニティ「ハワイ」の活動もスタートし、ロロの活動はますます旺盛だ。


[撮影:阿部章仁]


[撮影:阿部章仁]



ロロ:http://loloweb.jp/
パルコ・プロデュース2024『最高の家出』:https://stage.parco.jp/program/iede
ファンコミュニティ「ハワイ」:https://fanicon.net/fancommunities/5289


関連レビュー

ロロ『BGM』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』|山﨑健太:artscapeレビュー(2022年08月01日号)

2023/10/15(日)(山﨑健太)

うつゆみこ『Wunderkammer』

発行所:ふげん社

発行日:2023/10/10

2006年に第26回写真「ひとつぼ展」でグランプリを受賞し、翌年、ガーディアン・ガーデンで受賞記念展を開催した頃から、展覧会や作品集の形でうつゆみこの作品を見続けてきた。その過剰な創作エネルギーには、いつでも圧倒される。展覧会の会場には、ひしめくように作品が並び、同時期に何冊ものzineが刊行される。作品をプリントしたTシャツなども売られている。ある種の強迫観念の産物のような作品群をみるたびに、この人の制作行為のモチベーションは何なのだろうと思っていたのだが、今回ふげん社から刊行された写真集『Wunderkammer』に目を通して、その秘密を少しは理解できるような気がしてきた。

写真集は「yaoyorozoo」「増殖」「いかして ころして あたえて うばって」の三部構成で、全部で170点以上の作品がおさめられている。それらを見ると、初期作品も含む「yaoyorozoo」や「増殖」のパートを経て、近作が中心の「いかして ころして あたえて うばって」に至る過程で、うつの作品制作のあり方が大きく変わってきたように感じた。さまざまな場所で購入・蒐集した印刷物、オブジェ、キャラクター・グッズなどのコレクションを、構想と妄想のおもむくままに構築した「yaoyorozoo」や「増殖」のコラージュ作品は、たしかにめくるめくようなイメージ空間を形成している。ところが、その「Wunderkammer=驚異の部屋」は、二人の娘をはじめ、うつと同居する生き物たちが次々に登場してくる「いかして ころして あたえて うばって」のパートになると、むしろ彼女自身の生そのものと、見分けがたく同化してきているように見えてくる。自宅のアトリエでの創作活動こそが日常であり、社会的な営みの方が非日常化するという逆転現象が生じてきているのだ。結果として、一個一個の作品から立ち上がる切実なリアリティはただならぬものになりつつある。

この作品集が、うつゆみこの作家活動のひとつの区切りとなることは間違いないだろう。日本国内だけでなく、海外の写真関係者がどんな反応を示すのかが楽しみだ。


うつゆみこ『Wunderkammer』:https://fugensha-shop.stores.jp/items/6513bd2a5d2d4e002facecc0

2023/10/16(月)(飯沢耕太郎)

「出会い」シリーズ1 和田ながら×新垣七奈 ジャン・コクトー『声』

会期:2023/10/21~2023/10/22

那覇文化芸術劇場なはーと[沖縄県]

那覇文化芸術劇場なはーとの企画「出会い」シリーズの第1弾として、京都の演出家・和田ながらと、沖縄拠点のアーティスト陣が協働した演劇作品。俳優の新垣七奈、舞台美術に彫刻家・丹治りえ、ドラマトゥルクに劇作家・兼島拓也を迎える。上演戯曲はジャン・コクトーによる一人芝居『声』(1930年初演)。デュラス/コクトー『アガタ/声』(渡辺守章訳、光文社古典新訳文庫、2010)に所収。翻訳を手がけた渡辺自身をはじめ、これまで多くの演出家により上演されてきた。

自室のベッドの上で男に電話をかける女。舞台上で発話されるのは「受話器に向かってしゃべる女の声」だけで、対話相手の声は観客には一切聴こえないが、次第に2人の関係や状況が明らかになってくる。同棲していた男が出て行き、5年間の愛人生活の破局。男を心配させまいと、別れ話を切り出す男を繋ぎ止めようと、女がついた嘘が次第に露呈していく。だが男もまた嘘をついていることが露呈する。男は自分を捨て、社交界の花形と結婚するらしい。「男の愛」への極度の依存、不眠と悪夢、睡眠薬自殺の失敗。戯曲の書かれた当時の電話回線は、交換手に相手の番号を言って繋いでもらう必要があり、作中でも「混線」や「断線」が頻発する。そのたびに、「もしもし!」「切らないで」と繰り返す女。「電話のコード」は2人をつなぐ媒介であると同時に、束縛の象徴でもある。作中、「男が置いていった犬」が話題にのぼるが、まさに女は犬のように縄でつながれ、愛人として飼われていたのだ。「電話は恐ろしい武器になったわ」という台詞が予告するように、最終的に女は、「首の周りで、あなたの声がする」コードを首に巻きつけ、愛をささやきながら自殺する。

形式的には一人芝居だが、「不在の相手との対話」であること。それを可能にする電話という装置。「男に捨てられても愛にしがみつこうとする女の悲劇」という紋切り型のヒロイン像。さらに「翻訳戯曲」には男性中心的な視線が上書きされている。「ですわ」「なのよ」といった過剰な女言葉の語尾に加え、女は男に対して「敬語」で話すのだ。電話というメディア、言葉遣いに内包された不均衡なジェンダー関係、女性像(および不在の男性像)について、原作/翻訳との時代差をどう埋めて更新するかが、演出のポイントとなる。



[撮影:北上奈生子]


上演空間は、緑色で統一された家具やインテリアで構成される、現実感のない部屋だ。そこに寝そべる女(新垣)。期待に胸をはずませて電話に出る「もしもし!」。混線や間違い電話にイラついた、ダルそうな「もしもーし」。切羽詰った悲痛な「もしもし!」。歓喜、コケティッシュ、ぶりっ子、ドスのきいた冷淡さ、悲痛さ、絶望と演技のトーンを変幻自在に操る新垣。まさに戯曲に声が吹き込まれることで、「不在の相手像」が鮮明に浮かび上がってくる。一方的な献身、へりくだった自己卑下、必死のご機嫌とり、謝罪、懇願、圧力をかけられての告白……。「男の声の不在化」は「相手の声の内面化」でもある。女を一方的に支配し、服従させ、責め続け、「愛している」と言わせる絶対的な神の声。自分が苦しめられていることを「愛」と思い込む女の対話相手は、DV男だったのだ。



[撮影:北上奈生子]


一方で新垣の演技は、「これは演技である」ことを露骨に匂わせる。戯曲でも「嘘」がポイントであり、男に取り繕い、機嫌を損ねないように女が重ねた嘘が、一枚ずつ剥がれ落ち、最後に自殺を迎える。だが和田の演出は、解像度を上げて戯曲をなぞった後、「これは全部、嘘=演技でした」とカッコに入れてしまう。ラストシーンでは、電話のコードを首に巻きつけた新垣が「すぐに切って!」と何度も叫ぶが、一瞬の暗転後、テレビゲームの「ゲームクリア」風の電子メロディが軽快に鳴り響き、新垣は笑顔で部屋中を飛び跳ねる。彼女は、「束縛彼氏」とでも呼ぶべきゲームを「プレイ」していたのであり、「本気で死ぬと相手に思わせ、電話を切らせて束縛を断ち切る」ことに成功し、ゲームクリアしたのだ。



[撮影:北上奈生子]


和田は今夏に手がけた岸井大輔の戯曲の2本立て公演でも、戯曲への批評的視線をメディア論と交差させながら、メタ演劇論として昇華させていた。本上演も、戯曲への批評性×メディア論×メタ演劇論として延長線上にある。ここでは、2層構造の「ゲーム」がプレイされていたといえるだろう。「真に迫った演技」を、「悲劇のメロドラマの再生産」ではなく、「束縛ものの恋愛シミュレーションゲームのクリア」に置換すること。そして、コクトーの古典的戯曲というラスボスをどう倒すか。いわば和田は、語尾や敬語などの口調も含めて「原作戯曲を一切改変しない」縛りプレイに挑んでいたともいえる。

そして、「束縛装置としての電話」は、古びるどころか、DVの手段としてより深刻化している。有線の電話はほぼスマートフォンに取って代わられたが、「通話する」基本機能にさまざまなスペックが付加されることで、監視やDVのツールになりうる。相手の位置情報、ひっきりなしのLINE通知、監視カメラとしてのビデオ通話など、遠隔操作での監視と支配が可能になる。まさに「電話(スマートフォン)は恐ろしい武器になった」のだ。

また、緑色で統一された舞台装置が、映像の「クロマキー合成」を示唆することも重要だ。新垣は「スマホを耳に当てる」マイムすら一切行なわず、空中に向かって話しかけ続ける。未来のゲームでは、重たいVRのヘッドセットやコントローラーを介したコマンドの選択は不要で、バーチャル合成された空間のなか、音声入力で相手キャラと直接会話できるのではないか。そうした「未来のバーチャル没入ゲームをプレイ中の人間」を、私たち観客は「配信の視聴者」として覗き見しているのだ。だが、そもそも演劇とは原理的にそうではないかと和田は突きつける。

一方、緑色の非現実的な空間のなか、床のラグの上に置かれた「石」だけが異様な物質感を放つ。電話の「混線」や「断線」のたびに新垣は重たい石を持ち上げ、配置を変える。それは、「神のような絶対的存在」との交信手段であり、かつて女性が担っていた電話交換手という、ジェンダー化された労働も示唆する。さらにこの「石」は、すべてがゲームの仮想空間であるとしても、それでもなお物質的抵抗として残存し続ける抑圧や重荷の象徴だろう。



[撮影:北上奈生子]


そして、ポップでキュートな本作における最大かつ底意地の悪い仕掛けが、冒頭と幕切れで、「新垣が客席に向かってスマホをタップする」マイムである。「ゲームアプリの起動/クリアして終了」を示す身ぶりだが、舞台と客席を分かつ透明な「第四の壁」をスマホの画面と重ね合わせることで、客席を「ゲーム=フィクションの世界の中」に反転させてしまう。指一本のマイムによる世界の反転。それは、「恋に溺れて自殺してしまう悲劇のヒロイン」を見たいと欲望し、覗き見的に消費する観客自身の姿を反省的に突きつける。あるいは、「舞台上には不在で、沈黙したままの声」とは、客席に無言で座っている観客自身のことでもあるのだ。戯曲への批評的視線と同時に、演劇の原理をクリアに提示する手つきが鮮やかだった。


「出会い」シリーズ1 和田ながら×新垣七奈 ジャン・コクトー『声』:https://www.nahart.jp/stage/deai.series231021/


関連レビュー

したため『埋蔵する』『ふるまいのアーキビスツ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年09月15日号)
したため#8『擬娩』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年03月15日号)
したため #7『擬娩』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年01月15日号)
したため#5『ディクテ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)
したため#4『文字移植』|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年07月15日号)
したため#3「わたしのある日」|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年11月15日号)

2023/10/21(土)(高嶋慈)

後藤元洋「横断的表現行為ー東京綜合写真専門学校で学んだことー」

会期:2023/10/20~2023/10/28

Gallery Forest[神奈川県]

1958年、神奈川県生まれの後藤元洋は、東京綜合写真専門学校在学中の1980年代から、パフォーマンスと写真撮影を結びつけた「横断的表現行為」を続けてきた。今回、同校4FのGallery Forestで開催した個展では、イタリア人アーティストのジーン・ピゴッジの作品に触発されて制作したという、不特定多数の他者と肩を組み合ったセルフポートレート「Jean Piggoziに捧ぐ」(1980年)から、近作の、放射線防護のタイベック・スーツを身に纏った「絶対安全ーunder control」(2011年〜)まで、彼の代表的な作品が展示されていた。

特に興味深いのは、1990年から集中して制作された「ちくわ」を口に咥えたセルフポートレートのシリーズだろう。1989年に、スーパーマーケットで焼きちくわとの「運命的な出会い」を果たした後藤は、以後、おかしさとエロさとが微妙に交錯する「ちくわ」の連作を発表するようになっていった。同作は、彼の長身・痩躯の特異な風貌と、「ちくわ」のオブジェとしての奇妙なたたずまいとが絶妙にブレンドして、味わい深いシリーズとなった。さらに1993年からは、「竹輪乃木乃伊」(串刺しして乾燥した焼きちくわ)を、写真作品とともに5年ごとに「御開帳」するという儀式も続けている。

パフォーマンスの記録を写真作品として発表する作家は後藤以外にもいる。だが、彼の40年を超える作家活動は、その長さと揺るぎのない姿勢において、日本ではかなり例外的なものといえそうだ。まだまだ創作意欲は衰えていないようなので、この展示をひとつのきっかけとして、新たな表現領域を開拓していってほしいものだ。


後藤元洋展「横断的表現行為─東京綜合写真専門学校で学んだこと─」:https://gallery.tcp.ac.jp/goto/

関連レビュー

後藤元洋「竹輪之木乃伊御開帳」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年06月15日号)

2023/10/23(月)(飯沢耕太郎)

2023年11月15日号の
artscapeレビュー