artscapeレビュー
2009年03月01日号のレビュー/プレビュー
吉原治良賞記念アートプロジェクト contact Gonzo:「the modern house──或は灰色の風を無言で歩む幾人か」project MINIMA MORALIA section 1/3
会期:2009/02/11~2009/02/20
大阪府立現代美術センター[大阪府]
どつき合いの喧嘩がそのままダンスになるcontact Gonzoのパフォーマンス。3年前に彼らを知った時の驚きは今も鮮明だが、同時に一発屋の懸念も抱いていた。久々に彼らのパフォーマンスと活動記録を見て、その表現には大きな可能性があることを改めて実感した次第。彼らの今回の活動は、刷新され約3年もの月日をかけて展開された「吉原治良賞記念アートプロジェクト」によるもの。同賞の主旨はさておき、3年間にわたって観客の注目を維持し続けるのは、やはり不可能と言わざるを得ない。私も途中で脱落したため、プロジェクトの全体像は把握できていない。この点は次回以降見直しが必要だと感じた。
2009/02/14(土)(小吹隆文)
京都オープンスタジオ 4つのアトリエ
会期:2009/02/13~2009/02/15
Antenna AAS/桂スタジオ/陀里/ウズイチスタジオ[京都府]
京都市立芸術大学の作品展(=卒業制作展を兼ねる)に会期を合わせて、同校出身者による共同アトリエ4つがオープンスタジオを実施。20代後半から30代の作家22組が参加した。画廊ほど自由な展示はできないが、作業現場での展示とあって、より生々しく作品に向き合えるのがオープンスタジオの魅力だ。リラックスした雰囲気の中で作家たちとの歓談も弾む。京都市内には美大が多いので、彼らのような共同アトリエはほかにもあるはず。同様の動きが他にも広まれば、卒展シーズンの新たな名物になるかもしれない。
2009/02/15(日)(小吹隆文)
女子美術大学・女子美術大学短期大学部 卒業・修了学年選抜学外展 女子美スタイル☆最前線2009
会期:2009/02/11~2009/02/15
BankART NYK[神奈川県]
女子美の卒業・修了展。学内から選抜された作品がBankART Studio NYKの全フロアを使って展示されたとあって、他大学と比べてもアベレージが高く、見応えがあった。なかでも、トイレットペーパーの表面に人毛を一本ずつ移植した山田愛子の《田植え》が飛びぬけていた。
2009/02/15(日)(福住廉)
椿昇 2004-2009: GOLD/WHITE/BLACK
会期:2009/02/17~2009/03/29
京都国立近代美術館[京都府]
2003年の「国連少年」(水戸芸術館)以来となる椿昇の大規模個展は、いかにも彼らしい挑発に満ちた内容となった。2004年以降、椿が目の当たりにしたのは、あらゆる天然資源を掘り尽くす米国・ユタの鉱山及び鉱山労働者が体現するグローバリズム経済の歪みや、イスラエルとパレスチナの間で永遠に続くかのごとき宗教的・政治的対立など。そうした体験を基に本展では、全長約30メートル(実物大)のミサイルのオブジェや、十二使徒とだぶらせた鉱山労働者の肖像、パレスチナの壁を再利用する国際宇宙ステーションのプラン、スターバックスのロゴマークと宗教的モチーフとバングラデシュの犠牲祭の映像が融合した祭壇のごときインスタレーション等が設営され、まるで斎場のような空間が出現した。また、彼の一貫したテーマである「ラディカル・ダイアローグ(根源的対話)」の実践として、さまざまなジャンルで活躍するゲストを招いたトークイベントが毎週開催される。椿いわく「利潤と簒奪を礼賛する高度資本主義社会が限界を迎えた今こそ、シェアと共存を旨とする新たな社会システムを構築するチャンスであり、そのためには各人が徹底的に思考する必要がある。本展はそのための装置である」(筆者要約)。しかし、メッセージを解説する文字資料は敢えて省略されており、観客は作品のみを通してアーティストの意図を読み取るしかない。この不親切な設定をどう捉えるかで、本展への評価は二分されるだろう。事実、記者発表時にも「言葉」の解釈をめぐって椿と某新聞記者の間で激しいやり取りがなされた。自分自身はもちろん、観客、美術館、メディアに対しても安易な対応を許さない厳しい態度は、知的武闘派の椿らしい愛のムチといえる。しかし、視覚体験のみで本展の意図を正しく理解するのは非常に困難だし、椿の挑発にメディアがどこまで応えるのかも心もとない。やはり何らかの形で言説を前面に出す工夫が必要ではあるまいか。
2009/02/16(月)(小吹隆文)
大駱駝艦「シンフォニー・M」
会期:2009/02/19~2009/02/22
世田谷パブリックシアター[東京都]
壺中天という名の弟子たちが周囲を固めてはいるものの、本作は麿赤兒のソロというのが近い。麿の魅力はプレゼンスにある。大きな顔をさらに大きな髪が際だたせる。なにかをしていなくとも存在感に圧倒される。存在感だけが存在しているような佇まいで、しかし振りはきわめてミニマル、ゆったりとした反復的動作が続く。動きの繋がりに生じる間とかリズムより、存在感が舞台を駆動させる。ダンスというより演劇的。弟子たちが懐中電灯だけで麿を照らしたり、巨大な白い洞窟のごときセットが登場したり、仕掛けのアイディアは豊かな一方、パフォーマーのなかからはっとするズレは起こらない。その分強調される演劇性は、白い洞窟の奥へ落下(?)するラストシーンで、赤子のように泣き叫ぶ麿とその周りを囲む白塗りの若いダンサーたちとの関係を際だたせる。とくに、カーテンコールで弟子のひとりが麿に観客への挨拶を指示するあたりは、この舞踏団それ自体を演劇化しているように見えた。
2009/02/21(土)(木村覚)