2018年01月15日号
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artscapeレビュー

篠山紀信写真展 LOVEDOLL×SHINOYAMA KISHIN

2017年06月01日号

会期:2017/04/29~2017/05/14

アツコバルー[東京都]

写真家、篠山紀信がラブドールをモデルに撮影した写真を見せた個展。山河や廃墟、あるいは映画館などを背景にした等身大のラブドールの写真と、それらの画像を編集した映像が展示された。
ラブドールの造形的完成度が高いことは、改めて言うまでもあるまい。その技術的達成は、ラブドールの意味を人間と人形の境界線上に押し上げた。それは人間そのものではないが、だからといって人形にすぎないわけではまったくなく、ある種の人間の生にとっては必要不可欠な存在であるという点で、限りなく人間に近い、極めて特殊な意味合いを帯びている。篠山がとらえようとしたのは、そのようなラブドールの曖昧で不確実な両義性である。
むろんラブドールは人間そのものではないから、不自然な人工性が際立って見える作品がないわけではない。身体の圧倒的な美しさに比べると、パターン化されたメイクと質の悪いランジェリーも気にならないわけではない。しかし、それらの難点を差し引いたとしても、ラブドールという人形の人間らしさを打ち消すことにはならない。これはいったい人間なのか人形なのか。
このような視覚的混乱は、おそらくは篠山の戦略的な演出に由来している。というのもラブドールのなかには人間のモデルが混在していたからだ。彼女は不自然なまでに人形らしいポーズを取っていたから、一見すると彼女が人間なのか人形なのかわかりにくい。人間が人形のように見えるし、人形が人間のように見える。私たちの視線は、人間と人形のあいだの曖昧な領域をあてどなくさまようほかないのである。
極めつけは、四肢や頭部を切断されたラブドールの作品。廃墟の中でバラバラに切断されたラブドールたちは、まるで河原温の《浴室》シリーズのようで、あたかも「密室殺人」という惨劇を連想させる。だが、それ以上に強力に醸し出されていたのは、生々しい人間性である。それらはなぜか、人間と同じようにヘアメイクを施したラブドール以上に、人間を感じさせたのだ。ベルメールの球体関節人形がそうであるように、人形の内部構造を露呈させているにもかかわらず、あるいはだからこそと言うべきか、人形の内奥から人間性がにじみ出ているのが不思議でならない。
ラブドールはいまや立体造形の最先端にとどまらず、ポスト・ヒューマンの議論を先取りした造形として評価されるべきではないか。それは、ペットと同じように、人間の「生」にとって必要不可欠な存在でありながら、ペットと違い、そもそも生命を持ち得ていないという点で、「死」とも無縁である。ペットは私たちより先に死にゆく場合が多いが、ラブドールは私たちが死んでもなお、依然として美しいまま佇んでいる。彼女たちに人間らしさや自分たち自身の生を部分的に見出すとき、ラブドールは人間の後に続く、新たな「人間」なのかもしれない。

2017/05/03(水)(福住廉)

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