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畠山直哉「ナチュラル・ストーリーズ」

2011年11月15日号

会期:2011/10/01~2011/12/04

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

この展覧会はすぐに見なければと思っていたのだが、大阪、沖縄と移動していたのでオープニングには間に合わなかった。だが、慌ただしいなかで見るよりもじっくりと写真の前で過ごすことができてよかった。畠山の作品は、写真から発するメッセージをじっくりと受けとめ、咀嚼し、思考し、行動することを要求しているからだ。
たしかに実質的なデビュー作である、石灰岩採掘場を撮影した「ライム・ヒルズ」以来、畠山の関心は「自然と人間との関わり」に向けられてきた。今回の展示を見ると、それが、即物的な描写からゆるやかな「ストーリー」を持ち、見る者の記憶や感情の奥底を揺さぶるものへと、少しずつ生成・変化していったことがわかる。「タイトルなし(もうひとつの山)」(2005年)、「テリル」(2009~10年)、「アトモス」(2003年)、「シエル・トンベ」(2006~08年)、「ヴェストファーレン炭鉱I/IIアーレン」(2003~04年)、「ライム・ヒルズ」(1986~90年)、「陸前高田」(2011年)、「気仙川」(2002~10年)、「ブラスト」(1995年~)、「ア・バード/ブラスト#130」(2006年)の10部構成、100点を超える作品の展示は、文字通りこのテーマの集大成といってよいだろう。
個々のシリーズについて、特に1990年代の「UNDERGROUND」の発展形というべきパリ郊外、ヴァンセンヌの森の天井が落下した石灰岩採掘場を撮影した「シエル・トンベ」などについては詳しく論じたい誘惑に駆られるのだが、あまり紙数の余裕がない。そこで今回の展示において、畠山にとっても観客にとっても大きな意味を持つであろう「陸前高田」と「気仙川」についてだけ書いておきたい。
畠山が岩手県陸前高田市の出身であり、今回の震災後の津波によって母上を亡くされたということを知る者は、あえてこの時期に震災後に撮影された風景写真60点あまりを展示したことの意味について、自問自答しないわけにはいかなくなる。このことについては彼自身が、『読売新聞』2011年6月10日付けの記事や『アサヒカメラ』2011年9月号に寄せたエッセイで「誰かに見てもらいたいということよりも、誰かを超えた何者かに、この出来事の全体を報告したくて撮っている」と、これ以上ないほど明確に述べている。それに何か付け加える必要もないのではないか。「陸前高田」の写真を実際に目にして、この言葉の揺るぎのないリアリティがひしひしと伝わってきた。
驚き、かつ感動したのは、「陸前高田」と隣り合うスペースに、スライドショーのかたちで上映されていた「気仙川」のシリーズである。畠山の実家は市内を流れるこの川の畔にあった。写真に写っているのは2002~10年に折りに触れて撮影された、何気ない街の光景、夏祭り、花火、河辺にたたずむ人々の姿などだ。いうまでもなく、永遠にゆったりと流れ、そこに留まっていくはずの故郷の時間と空間は、震災によってずたずたに寸断され、その多くは文字通り消失した。そのことを、畠山は二つのシリーズを対置することで、静かに、だがこれ以上ないほどの説得力で語りかけてくる。あらわれては消えていく画像のなかに、海に向けて小さなカメラを構える老婦人を、横向きで撮影した一枚があった。その時、何の根拠もないのだが、この人は畠山の母上ではないかと思った。

2011/10/07(金)(飯沢耕太郎)

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