2020年02月01日号
次回2月17日更新予定

artscapeレビュー

2019年07月15日号のレビュー/プレビュー

ジェン・ボー「Dao is in Weeds 道在稊稗/道(タオ)は雑草に在り」

会期:2019/06/01~2019/07/15

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

北京出身で、香港を拠点に活動し、ソーシャリー・エンゲージド・アートにおいて世界的に注目を集める作家、ジェン・ボーの個展。「植物、雑草」を基軸に、被差別部落、性的マイノリティ、植民地支配といった周縁化された事象に光を当てる作品群が展開された。


ジェンは本展に先立ち、京都市立芸術大学の移転予定地である崇仁地域で滞在調査を行なった。1階の展示室は寺子屋風の設えがなされ、かつて被差別部落であった崇仁地域の「歴史を学ぶ場」として、水路による「境界線」が描かれた古地図、文献資料、街歩きの写真などが閲覧できる。また、建築家、生態学者、文化人類学者、歴史学者、活動家、美術家などさまざまな専門分野の人々が参加したワークショップの成果物として、「水平社宣言」を「植物も含む全ての種の平等」に拡張して書き換えた宣言文も展示された(鑑賞者も「新たな宣言文の起草案」を書いて参加でき、「開かれた学びの場」が仮設されている)。



会場風景
[Photo by Takeru Koroda, courtesy of Kyoto City University of Arts]



会場風景
[Photo by Takeru Koroda, courtesy of Kyoto City University of Arts]

一方、2階に展示された映像作品のシリーズ《Pteridophilia》(2016-)では、「植物」が、人間以外の生物種も含めて政治的意志決定の主体とみなす「生態熟議民主主義」の構成要員から、「性愛」のパートナーへと拡張される。作品タイトルは、「シダ」を意味する接頭辞「pterido-」と、「あるものに対する愛情または嗜好性」を意味する接尾辞「-philia」を組み合わせた造語。深い森のなかで、全裸の若い男性が、シダの葉を舌で愛撫し、葉の先端で自らの胸や性器を刺激し、激しい情交を交わす。シダが選ばれた理由は、受粉による受精やオス/メスの区別がなく、胞子による無性生殖を行なう「胞子体」が主体であるという特殊な生殖形態にある。《Pteridophilia》は、こうした「クィア」なシダ植物と「クィア」な人々との性愛を描くことで、ヘテロセクシャルという規範や人間/植物といった「種」の区別すら越境した、「新たな性愛のかたち」を提示した。



会場風景
[Photo by Takeru Koroda, courtesy of Kyoto City University of Arts]

だが、本作は、同じくシダを扱った《Survival Manual》(2015-16)と関連づけて見るならば、単にユートピア的なビジョンの提示に留まらない、別のさらなる政治性を帯びてくる。《Survival Manual》は、太平洋戦争末期の1945年3月に台湾で発行された日本語の本『台湾野生食用植物図譜』を、ジェンが手描きで模写した作品である。台湾でシダは、原住民に重要視された植物である一方、戦時中は日本軍が、終戦後には中国本土からの国民党が、食糧難に備えてシダを食用植物として用いた。こうした歴史を念頭において《Pteridophilia》を見るとき、オーガズムの高まりとともに口に含んだシダの葉を食いちぎり、噛みくだき、飲み込んで体内に取り込もうとする男性の姿は、植民地支配がまさにカニバリズム的な欲望の表出やレイプに他ならないこと、欲望のままに相手を食らい尽くす行為であることを突きつける。それはまた、植物、とりわけ無性生殖の胞子体であるシダを用いることで、支配者=男性/被支配者=女性という、単純化されたジェンダーの支配図式からも逃れることに成功している。


だが、極めて残念なことに、《Pteridophilia》の展示にあたっては、「日本の性表現規制に基づき」という文言とともに、映像の一部が暗転され、音声のみで展示されていた。近年国内で相次ぐ表現の規制や炎上を考慮し、「リスク回避」を優先させた処置だと思われる。背景にはホモフォビアもあるのではないか。問題は、「誰がその判断を下したのか」「作家側から異議や抗議はなかったのか」といった経緯や責任主体の所在が不透明化され、ブラックボックス化し、暗黙のうちに「決定事項」となっていることだ。「開かれた」作品を見せる(見せて民主主義的な場を演出する)ことよりも、表現規制があったことについての情報やプロセスの開示と「議論の場を開く」ことこそが問われているのではないか。

2019/06/02(日)(高嶋慈)

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主戦場

[全国]

東京のミニシアターでは立ち見が出ると聞いて、仙台駅の隣にあるチネ・ラヴィータで、ミキ・デザキ監督の映画『主戦場』を鑑賞した。もっとも、こちらは残念ながら空席が多く、拍子抜けだった。本来ならば、自国の問題として日本人がこうしたドキュメンタリーを制作しているべきだとも思ったが、監督が日系アメリカ人の留学生だったからこそ、実現できたプロジェクトなのかもしれない。すなわち、後で上映中止を訴え、裁判をおこした「歴史修正主義者」たちは油断して、いつものように調子のいいことをカメラの前でえんえんと演説し、その様子が映像に記録できたのである。一方、逆側の語りは、慎重に歴史の言葉を選ぶ人が多いように思われた。

映画内でとりあげられる内容は、慰安婦をめぐる議論の基本的な知識をテンポのいいスピード感で得ることができる、入門編的なものだ。筆者が実際に訪れたソウルやサンフランシスコの慰安婦像も紹介されていた。どちらの言い分を信じるかは、実際に鑑賞した観客の判断に任せるとして、やはりドキュメンタリーが面白いのは、しゃべっている人間の顔や表情、そして身ぶりがよくわかることだろう。つまり、言葉の外部である。


ソウル日本大使館前の慰安婦像


ソウルの慰安婦像、隣には見張りのテントが

印象に強く残ったのは、過去の発言や記録の細部を切り取り、突っ込みを行ない、「慰安婦」の定義のずらしを行なう「修正主義者」たちの笑顔である。また「韓国や中国が絶対に日本には追いつかない」という信条や、フェミニストの女性を侮辱する言葉を嬉々として語るのだ。彼らがおそらく何度もネタとして繰り返している差別的な内容は、滑稽ですらあるが、ネットにおける匿名の発言ではなく、国会議員やTVタレントのような人物が自信満々にしゃべっていることは深刻な事態だろう。

そしてラストに登場する大ボスの発言はあまりに無茶苦茶すぎて、これはパラレルワールドの住人ではないかと耳を疑った。もし、こうした思想が本当に現在の政治に影響を与えているとすれば、リアル・ホラー感すら漂う。映画の最後では、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性を警告していたが、G20直後のトランプの日米安保条約に関する発言で、よりいっそうきな臭くなっている。


サンフランシスコの慰安婦像


サンフランシスコに設置されたプレートより。「世界の性暴力を根絶するための記念碑」と説明されている

公式サイト:http://www.shusenjo.jp/

2019/06/05(水)(五十嵐太郎)

九条劇「エコー」

会期:2019/06/07~2019/06/08

九条湯[京都府]

浜辺ふうによるソロの演劇ユニット「九条劇」の第2回公演。在日コリアンが多く住む京都の東九条で幼い頃から朝鮮半島の伝統芸能文化に親しんで育った浜辺は、「日本人」としてはマジョリティに属するが、身体化された文化は朝鮮半島のそれであるという自身が抱える葛藤や日本社会への違和感を主題化している。自伝的要素が強かった1人芝居の第1回公演を経て、今回は2人芝居の形式を採用。人の移動や多文化のルーツを主題とする演劇ユニット「BRDG」の山口惠子を共演者に迎えた。



[撮影:中山和弘]

「エコー」の粗筋は、再会した小学校の同級生2人が、「この地域の語り部になってくれ」という恩師の言葉を「宿題」として引き受け、子供時代の回想、人情味溢れる地域の人々の言葉、ヘイトへの怒りを織り交ぜながら、地元の祭りで地域について紹介する「漫才」を披露するというものだ。劇中劇として「漫才」を設定しているように、随所に笑いを散りばめ、ノリとテンポのよい関西弁のやり取りで展開され、肩肘張らずに見られる。また、あちこちにある「フェンスで囲まれた空き地」は、「猛獣(のようなキャラの濃い人)を閉じ込める檻かと思った」というように、負の側面も笑いにくるんで昇華される。一方、「朝鮮半島の文化に理解のある『優しい日本人』」として見られることへの違和感や葛藤、「在日のアイデンティティは多様化しているのに、なぜ日本人のアイデンティティは更新されないのか」という怒り、「とってつけた多文化共生ではない」という誇りは、自身の経験に裏打ちされた真摯な叫びとして響く。


前回の公演と同様、自伝的要素の強い作品だが、演出的には大きく前進した。そこには、「元銭湯」という場所の力も大きく作用している。廃業した銭湯をレンタルスペースとして活用している「九条湯」は、唐破風の玄関に迎えられ、脱衣所の格天井、装飾豊かなタイル張りの浴室など、格式と歴史を感じる空間だ。とりわけ、演出面で戦略的に用いられたのは、男湯/女湯を分ける「壁」である。それは、子供時代の秘密基地ごっこの(簡単に乗り越えられた)壁、「日本人/在日」といった国籍や民族で分ける壁、劇中で歌われる「イムジン河」が示唆する北/南を分断する壁であり、さらに誰の心にもある心理的な境界線のメタファーとしても機能する。もしこの「壁」が、「舞台美術」として舞台上に作った仮設壁であれば、あくまでフィクションとしての人工的な作り物感に留まっただろう。だが、銭湯という、この地域の人々の生活のなかにあった、物としての存在感を感じながら、「壁」の持つ意味が何重にも多重化される観劇体験となった。また、脱衣所の鏡張りの壁は、しばしば俳優がそれに向き合って発話することで、「自分自身の反映像を見つめる」すなわち国籍、民族、(多)文化、地域といった自らのアイデンティティについて問うテーマを浮かび上がらせる。奥のタイル張りの風呂場から聴こえる声の反響(「エコー」)もまた、主題を音響的に補足する。

前回同様、自分自身について(しか)話さない、話せないという態度は作り手として誠実であり、とりわけ終盤での吐露は、演劇作品・フィクションであることを越えた切実さで胸に迫る。一方、「現代演劇」の観客には、愚直なまでの浜辺の態度は、ストレートすぎて「ベタ」だと映るだろう。この「分かりやすさ」は、「上演場所」「観客層」とも関係している。前回同様、上演会場は東九条の地域内に位置し、ブラックボックスの劇場ではない(カフェやコミュニティスペース)。「地域を扱った作品をその地域で上演する」という、地域密着や地産地消的なあり方は意義がある一方、観客とは(物理的にも心理的にも)距離が近い。前回の公演においても、客席の多くは地域住民か顔見知りと思われ、上演開始前から「第四の壁」を崩して客席にフランクに語りかける、歌や打楽器のリズムに合わせてかけ声や手拍子を要請する、客席から温かい声援がかかるなど、身内的な雰囲気に包まれた上演だった。



[撮影:中山和弘]

だが今後、浜辺のユニットが上演を重ねて成長していく過程で、「地域外」に出る段階を迎えることは必然だろう。東九条という地域について知らない観客や単に現代演劇のファンに向けて上演する──その時、笑いにくるみつつ「怒りと苦しさを分かってほしい」というストレートな訴えや自分語りから、どう「外」の目線を意識し、作品としての洗練度を高めていくのか。これからの課題を期待とともに記したい。


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九条劇『ウリハラボジ』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/06/08(土)(高嶋慈)

古澤邸

[東京都]

研究室のゼミ旅行という機会を使い、気になっていた古澤大輔さんの自邸を見学した。道を曲がって住宅が視界に入ると一瞬、とても大きく感じる。これは『住宅特集』2019年5月号の表紙も飾っているが、とくに梁がズレており、スラブの数が実際よりも多いと錯覚することによって、住宅というよりはビルのように見えてしまう。塔の家ならぬ、スキップ・フロア風のビルの家なのか? あるいは、ビルをリノベーションした住宅なのか?



《古澤邸》の外観


人が入った状態の《古澤邸》、左が古澤氏

上下の水平ラインに挟まれた横長のプロポーションはビルを想起させるのだが、そこに人が立つと大きさの感覚が狂い、スケール感がずらされる。また両側の建物と比較すると、ビルのミニチュアのようだ。なぜ、こうした現象が起きるのか。古澤は十字に配置された4本の柱を中央に据え、床のスラブと梁を遊離させるという実験を試みており、透明性が高く、そのデザインが外からも確認できるために、階数が実際よりも多く見えるからだ。つまり、基本的には四層であり、しかも室内は階高を少し抑え、スケールを調整している。



《古澤邸》の階段


《古澤邸》のバルコニー

室内に入ると、二階から上は基本的に壁がなく、また中央の階段まわりに吹き抜けが随所に発生しており(とくに斜めの抜けが多い)、全体がゆるやかにつながっている。印象的なのは、いわゆる壁と違う空間の分節が未曾有の体験をもたらすこと。すなわち、頭上ではなく、目線の高さを浮遊している太い梁が、完全に空間を切り分けず、上下をかき取られた壁、もしくは大きな手すりのように存在している。つまり、梁の向こうがよく見えるが、そこへのアクセスはおしとどめる。また梁の上がちょっとしたモノを置く場所としても使われていた。建築の基本的な構成を変えることで、新しい空間の可能性を切り開くことに成功している。



《古澤邸》の吹き抜け


太い梁にはモノを置くこともできる

もちろん、自邸ゆえの思い切りのよさはあるが、これは住宅に限定された手法ではないだろう。建物の前面で目立つバルコニーは、すべてを揃えず、それぞれに異なる表情をもち、躯体に対し、リノベーション的に付加したかのようだ。古澤は設計にあたっては、当初案を転用するイメージでのぞんだらしいが、新築でありながらリノベーション的な性格を備え、ビルのように感じられたのも、そのせいかもしれない。



《古澤邸》二階のコーナー


 《古澤邸》の屋外階段

2019/06/08(土)(五十嵐太郎)

第44回 木村伊兵衛写真賞受賞作品展
岩根愛「KIPUKA」

会期:2019/06/13~2019/06/19

ニコンプラザ大阪 THE GALLERY[大阪府]

写真集『KIPUKA』(青幻舎)で第44回木村伊兵衛写真賞を受賞した岩根愛の個展。ハワイの日系移民とそのルーツの福島県民、時間と故郷を離れて両者をつなぐ「盆踊り」を基軸に、日系移民の墓やポートレートなど厚みのある写真群が展示された。

2006年にハワイに行った岩根は、生い茂る熱帯の植物に埋もれた「移民墓地」を見たことをきっかけに、ハワイの日系文化に関心を持つようになったという。サトウキビ農業と砂糖産業に従事するため、戦前、多くの移民がハワイへ渡ったが、産業の衰退とともに廃れた居住区や墓地が残されている。一方、「相馬盆唄」がベースである「フクシマオンド」をはじめ、各地の盆唄と踊りは継承され、毎夏の盆祭りで「ボンダンス」として熱狂的に踊られている。墓地の場所、家族史、移民が当時使っていた撮影機材など、インタヴューやリサーチを重ねた岩根は、ハワイに通いながら12年間撮り続けた。



[©️AI IWANE]


その写真作品は、時間的/空間的に幾重ものオーバーラップで構成される。空間的なオーバーラップを見せるのは、パノラマ撮影された、ハワイの移民墓地と震災後の福島の光景。溶岩流の流れた大地や砂丘に建つ墓碑は、斜めに傾げたり、頭だけがかろうじて見え、津波に飲み込まれた瞬間のまま凝固したように見える。あるいは、草が生い茂り、荒れ果てた墓地の光景は、帰宅困難区域内のそれを否応なく連想させる。

一方、時間的なオーバーラップは、撮影機材や演出の操作によってもたらされる。上記のパノラマ写真は、当時の移民が葬儀の参列や行事を記念する集合写真などの際に実際に使っていた、大型のパノラマカメラを用いている。回転台に載った箱型カメラが360度回転し、2mのフィルムに焼き付けて撮影する。過去に彼らを写した装置で現在を写す、すなわち過去の「目」を通して現在を見る。この撮影手法を用いて、ハワイの「ボンダンス」と福島の盆踊り、それぞれが「乱舞する無数の手のイメージ」として切り取られた。また、かつて日系移民が働いていたサトウキビ畑に、モノクロの家族写真を夜間に投影して撮影した写真では、現在と過去の二重写しのうちに、亡霊のようなイメージが浮かび上がる。かつて彼らが働いていた場所に今も生い茂るサトウキビは、彼らの皮膚や衣服を美しい模様のように染め、イメージの皮膜に実体的な濃淡を与えつつ、その葉の重なり合いは、輪郭や目鼻立ちといった固有性をかき消していくのだ。



[©️AI IWANE]


地道なリサーチに基づき、当時の機材や古写真を用いつつ、フィクショナルな操作を加えてイメージとして具現化する。ここでは、イメージの「創造(捏造)」を通して、いかに(自分自身とは直接地続きではない)過去や他者の記憶に接近できるかが賭けられている。

ただ、上述の、ハワイの「ボンダンス」と福島の盆踊りを捉えた写真では、それぞれレンズにカラーフィルタを付けて撮影し、ハワイ=「赤」/福島=「青」という対照的な色に染め上げた演出に疑問が残った。ハワイの「ボンダンス」は、両手を合わせた形が祈りを思わせ、「赤」という色が彼らの奔出する熱気やエネルギーを強調する。一方、太鼓のバチを握った無数の手の蠢きとして切り取られた福島の盆踊りは、「青」に染められることで、「(震災の)死者を迎える、深い哀悼」という読み取りを誘う。両者のパノラマ写真は、背中合わせで吊られて展示された。



(パノラマ写真の一部)[©️AI IWANE]




(パノラマ写真の一部)[©️AI IWANE]


こうした「色分け」や対比性には分かりやすさの反面、ある種の暴力性を感じた。「移民」は、単純にカテゴライズされたアイデンティティからの逸脱や流動性をもつ存在だが、カラーリングによる「レッテル化」は、固定化の操作という点で暴力的であり、「こちら側/彼ら」を分断して見せてしまう。だが、どちらが「ハワイ」でどちらが「福島」なのか判別不可能なほどに、混在させて見せてもよかったのではないか。カラーリングや対比性の強調は、「私たち」と「彼ら」、「日本人」と「日系人」といった線引きの構造と密かに通底してしまう危険性を持っている。だが、歌や踊りとして身体化された記憶の継承や、故郷から(国家政策によって、あるいは災害によって)強制的に隔てられたという点では、両者は同質性を持ち、岩根の狙いもそこにあったはずだ。同質性の過度な強調、すなわち「同じ日本人の血やルーツだ」という本質主義に陥る危険性を回避しつつ、表象がどこまでも政治から逃れられないことを自覚的に引き受ける態度が要請されている。


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