artscapeレビュー

九条劇「エコー」

2019年07月15日号

会期:2019/06/07~2019/06/08

九条湯[京都府]

浜辺ふうによるソロの演劇ユニット「九条劇」の第2回公演。在日コリアンが多く住む京都の東九条で幼い頃から朝鮮半島の伝統芸能文化に親しんで育った浜辺は、「日本人」としてはマジョリティに属するが、身体化された文化は朝鮮半島のそれであるという自身が抱える葛藤や日本社会への違和感を主題化している。自伝的要素が強かった1人芝居の第1回公演を経て、今回は2人芝居の形式を採用。人の移動や多文化のルーツを主題とする演劇ユニット「BRDG」の山口惠子を共演者に迎えた。



[撮影:中山和弘]

「エコー」の粗筋は、再会した小学校の同級生2人が、「この地域の語り部になってくれ」という恩師の言葉を「宿題」として引き受け、子供時代の回想、人情味溢れる地域の人々の言葉、ヘイトへの怒りを織り交ぜながら、地元の祭りで地域について紹介する「漫才」を披露するというものだ。劇中劇として「漫才」を設定しているように、随所に笑いを散りばめ、ノリとテンポのよい関西弁のやり取りで展開され、肩肘張らずに見られる。また、あちこちにある「フェンスで囲まれた空き地」は、「猛獣(のようなキャラの濃い人)を閉じ込める檻かと思った」というように、負の側面も笑いにくるんで昇華される。一方、「朝鮮半島の文化に理解のある『優しい日本人』」として見られることへの違和感や葛藤、「在日のアイデンティティは多様化しているのに、なぜ日本人のアイデンティティは更新されないのか」という怒り、「とってつけた多文化共生ではない」という誇りは、自身の経験に裏打ちされた真摯な叫びとして響く。


前回の公演と同様、自伝的要素の強い作品だが、演出的には大きく前進した。そこには、「元銭湯」という場所の力も大きく作用している。廃業した銭湯をレンタルスペースとして活用している「九条湯」は、唐破風の玄関に迎えられ、脱衣所の格天井、装飾豊かなタイル張りの浴室など、格式と歴史を感じる空間だ。とりわけ、演出面で戦略的に用いられたのは、男湯/女湯を分ける「壁」である。それは、子供時代の秘密基地ごっこの(簡単に乗り越えられた)壁、「日本人/在日」といった国籍や民族で分ける壁、劇中で歌われる「イムジン河」が示唆する北/南を分断する壁であり、さらに誰の心にもある心理的な境界線のメタファーとしても機能する。もしこの「壁」が、「舞台美術」として舞台上に作った仮設壁であれば、あくまでフィクションとしての人工的な作り物感に留まっただろう。だが、銭湯という、この地域の人々の生活のなかにあった、物としての存在感を感じながら、「壁」の持つ意味が何重にも多重化される観劇体験となった。また、脱衣所の鏡張りの壁は、しばしば俳優がそれに向き合って発話することで、「自分自身の反映像を見つめる」すなわち国籍、民族、(多)文化、地域といった自らのアイデンティティについて問うテーマを浮かび上がらせる。奥のタイル張りの風呂場から聴こえる声の反響(「エコー」)もまた、主題を音響的に補足する。

前回同様、自分自身について(しか)話さない、話せないという態度は作り手として誠実であり、とりわけ終盤での吐露は、演劇作品・フィクションであることを越えた切実さで胸に迫る。一方、「現代演劇」の観客には、愚直なまでの浜辺の態度は、ストレートすぎて「ベタ」だと映るだろう。この「分かりやすさ」は、「上演場所」「観客層」とも関係している。前回同様、上演会場は東九条の地域内に位置し、ブラックボックスの劇場ではない(カフェやコミュニティスペース)。「地域を扱った作品をその地域で上演する」という、地域密着や地産地消的なあり方は意義がある一方、観客とは(物理的にも心理的にも)距離が近い。前回の公演においても、客席の多くは地域住民か顔見知りと思われ、上演開始前から「第四の壁」を崩して客席にフランクに語りかける、歌や打楽器のリズムに合わせてかけ声や手拍子を要請する、客席から温かい声援がかかるなど、身内的な雰囲気に包まれた上演だった。



[撮影:中山和弘]

だが今後、浜辺のユニットが上演を重ねて成長していく過程で、「地域外」に出る段階を迎えることは必然だろう。東九条という地域について知らない観客や単に現代演劇のファンに向けて上演する──その時、笑いにくるみつつ「怒りと苦しさを分かってほしい」というストレートな訴えや自分語りから、どう「外」の目線を意識し、作品としての洗練度を高めていくのか。これからの課題を期待とともに記したい。


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