artscapeレビュー

関田育子『フードコート』(昼のフードコート)

2020年02月01日号

会期:2019/10/19~2019/11/17

TABULAE[東京都]

『フードコート』という作品にはテクストを書いた新聞家・村社祐太朗自身の演出による(いくつかの)上演のほかに、関田育子の演出によるバージョンが用意されていた。「関田育子の演出」とひとまず書いたものの、関田の近作において「演出」など職掌別のクレジットはなく、創作に携わった人間はみな「クリエーションメンバー」としてクレジットされている。よって、「関田育子の演出」と言ったとき、関田の名はチーム全体を指すものとしてある。また、公演の名義こそ「関田育子」となっているものの、新聞家の同名の公演期間中、同会場での上演であり、これは新聞家の企画でもあったのだと考えるのが妥当だろう。村社は新聞家の前回公演『屋上庭園』で初めて自分以外の人間が書いた戯曲を演出した。村社の側からすると今回はその逆、自分が書いたテクストを他人の演出に委ねる試みだということになる。新聞家は一貫して「他者と対峙すること」に取り組んでおり、これまでの戯曲の多くが「家族」についてのものだったのもその反映とみなせる。

当日パンフレットに「昼のフードコート」と記載があったことから推察するに(予約時には明示されていなかったものの)、関田版ではどうやら昼夜で異なる演出が採用されていたらしい。私は夜の公演は見られなかったのだが「昼の公演では、新聞家の主宰である村社さんが書いたテキストを思考の中心におき、それとどう関係していくのかが論点に置かれた」とある。

戯曲としての『フードコート』は(おそらくは)ひとりの視点からの内省的な語りのテクストだ。ある場面が詳細に描かれることはなく、具体的な部分はあっても断片的なイメージが連なっていく。村社版の俳優はほとんど動かないまま、訥々と言葉を発するのみ。客席やガラス戸越しに見える屋外の空間も上演の一部としてデザインされていることは明らかだが、それらと語られる言葉との間にはほとんど関係がないらしいことは初見の観客も了解するところだろう。ひとまずは朗読のような(しかしテキストが眼前にあるわけではない)ものだと考えればよい。一方、関田版の俳優(中川友香)は屋外も含めた空間を動き回りながら言葉を発する。必然的に、観客はその動きと語られる言葉との「正しい」関係を探ることになるのだが、ときにガラス戸に外から張り付いたままカニ歩きをするような動きにどんな解釈が「正解」たりえるだろうか。言葉と動きとを結びつけて理解しようという試みはおおよそ失敗する。

私がギリギリ引っかかったのは、バナナのように剥いて噛みついたハンバーガーがレモンのように酸っぱかった場面だ。そんな場面はない。ないのだが、まず彼女は空の手を胸のあたりまで持ち上げると、バナナの皮を剥くような動作をする。それは握られることなく、肉まんを食べるときのように左右からそれぞれ添えられた五指によって顔の前に運ばれる。かじるように動いた彼女の顔は梅干しを口に含んだかのごとくゆっくりと歪み、戻り、また歪む。「二番目のレモン」と「黄色い包み紙」。かろうじてつながる単語と不可解な動作があり得ないイメージを私に植えつける。あるいはそれは、すでに村社版を見ている私による、言葉に先立った解釈だったようにも思う。いずれにせよそもそも戯曲に私の妄想と一致する場面はなく、多くの場面で言葉の落ち着きどころはない。

今までの関田作品では、言葉と動作の結びつきが明らかになる瞬間、そしてそれらがズレ、歪んでいく瞬間に演劇的快楽があった。そこでは基本的に、観客の想像は関田によって一定の方向に導かれている。だが、今回の上演ではテクストと上演とをどう結びつけられるかはほとんど完全に観客に委ねられていたように思う。そうであるならば、それは夜空に星座を描くのとどう違うのだろうか。


公式サイト:https://ikukosekita.wixsite.com/ikukosekita

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2019/11/17(日)(山﨑健太)

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