2020年04月01日号
次回4月15日更新予定

artscapeレビュー

2020年02月01日号のレビュー/プレビュー

新聞家『フードコート』(東京公演)

会期:2019/09/21~2019/12/01

TABULAE[東京都]

新聞家『フードコート』(東京公演)には2回観劇パスとフリーパスの2種類のチケットしかない。観客は基本的に2回以上の上演に立ち会うことを前提に観劇に臨むことになる。

公演期間は9月21日から12月1日までのおよそ2か月半にわたり、季節は秋から冬へと移りゆく。会場となるTABULAEは曳舟の住宅街にある民家を改装した小さなギャラリーで、通りに面した側は全面がガラス戸になっている。だから、昼の回と夜の回とでも上演は随分とその印象を変える。

複数回の観劇を前提とした長い公演期間は、演劇の上演が本来的に持つ一回性を、観客に寄せて言い換えるならば、演劇を観ることが極めて個人的で一度きりの体験であることを思い出させ際立たせるためのデザインだろう。「同じ作品」を観たとしても同じ観劇体験は存在しない。

空間(美術:山川陸)も体験が個人的なものであるよう配慮されている。観客は受付でいくつかの植物の名前を提示され、選んだ植物が置いてある近くに座る。公演期間は長いので、あるものは育って形を変え、あるものは枯れてしまうかもしれない。植物の種類と置いてある場所は回によって違っていて、私が二回目に訪れた際には一度目にはなかった植物が仲間入りしていた。15人も入ればいっぱいになってしまう空間ではどこに座るかによって見えるものも見え方も随分と違っていて、観客の多寡やどのような人がそこに座っているかによってもそのあり方は変わるだろう。

私にとって興味深かったのは、私がこれまでの新聞家の公演において要請され実践してきた態度のようなものが、二度目の観劇がある/であるということで「緩んでしまった」と感じられたことだ。新聞家・村社祐太朗の書くテクストは容易には意味がとり難く、上演において観客は俳優が訥々と語る言葉に極度に集中することになる。それは言葉以外の要素が極度に切り詰められているがゆえのことでもあるのだが、そのようにして集中してなお、語られる言葉の意味を十全に理解することは難しい。しかし、あらかじめ予定されている二度目の観劇は私に油断を許す。

失われた緊張は二度目でも取り戻されることはなかった。上演が始まると(おそらくは彼らの思惑通りに)自然と前回のことが思い出され、いや、正直に言えば私は積極的にその記憶を反芻しさえしていたのだった。そのときの私はすでに『フードコート』の戯曲を読んでいて、記憶のなかのそれを呼び出しつつ目の前の風景を眺める私の営為は俳優のそれにも近づいている。

ところで、二度目の観劇の際には、私にとって一度目の観劇の際と同じテクストの同じ俳優(吉田舞雪)による上演のあとに、新たな俳優(花井瑠奈)による新たなテクストの上演が加わっていた。『フードコート』では公演期間の初めからさらなる出演者が募集されていて、応募に応じて新たなパートが追加される可能性があることも予告されていた。だが、それがいつ上演されるのかは(そもそも応募があったのかどうかも)観客には知らされなかった。

作品の変化に対して期待はあっても明確な準備をしていなかった私は、半ばぼんやりとしたままそれを受け取ることになる。追加された部分の冒頭、「収まることにどの子も協力的じゃない」と聞こえた「どの子」は戯曲には「どの弧」と書かれていて、私はそこですでにつまづいていた。

何かを簡単にわかってしまうのではなく、真摯にそれに向き合い続ける、というのが新聞家に一貫した姿勢であって、上演における体験の個人的な部分、抽象概念としての「作品」以外の部分を際立たせる試みもその一環だろう。だが、私個人の観劇体験を構成するさまざまな要素に対しても真摯に向き合いつつ、同じ程度に「作品」に対しても集中し続けることは少なくとも私にとっては難しく、例えばよぎる猫の姿に気はそらされるのであった。それはぜんぜん嫌ではないのだけれど。


公式サイト:https://sinbunka.com/

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新聞家『フードコート』(京都公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)
新聞家『屋上庭園』 │ artscapeレビュー(2019年06月15日号)

2019/09/21(土)(山﨑健太)

新聞家『フードコート』(京都公演)

会期:2019/10/26~2019/10/27

京都教育文化センター[京都府]

京都公演の会場は東京公演のそれとは大きく趣が異なっていた。いわゆる公民館的な施設の一室で、壁の一面が鏡張りになっている。普段はダンスのレッスンなどにも使われているのではないだろうか。「客席」として手渡されるヨガマットもその連想を強化する。東京公演の会場との共通点は通りと接する一面がガラス張りになっていることくらいで、それも日本庭園風の植栽を間に挟んでなので印象は随分と違う。観客がガラス窓に向き合う位置関係はおおよそのところ東京公演と同じだが、置く位置を指定されたヨガマットは6×2の長方形に整然と並び、個々の観客に見えるものにさほどの違いはない。観客の正面、ガラス窓を背にして空いた空間の中央には岩のようなものが置かれている。

すでに東京公演を二度観ていた私は『フードコート』の戯曲を取り出してそれを復習しつつ開演を待っていた。「緩みをもともと含んでいるとは知らなかった」と戯曲冒頭の言葉が聞こえてきて目を上げるが、そこに俳優の姿はない。実は出演者の吉田舞雪は素知らぬ顔で前列の観客たちの間に座っていて、ほかの、という言い方は変なのだが、観客たちと同じように窓の方を向いたまま言葉を発していたのだった。気づけばそこから声が聞こえてきているのは明らかだったが、ほとんど身動きもしない彼女の後ろ姿からその気配を知ることは難しい。

私を含めた観客の多くは特に彼女のいる方向に向き直ることもなく、何とはなしに窓の方向を向いたままでいる。「舞台」には誰もいないが観客はそこに向き合っていて、言葉は客席から生み出されるようにして聞こえてくる。あるいはそれは私にだけ聞こえているのかもしれない、私の記憶の反芻でしかないのかもしれないと空想してみるが、上演が終わればその空想こそが現実で、そこには何も残らない。

終演後には新聞家のこれまでの公演と同じように「意見会」という場が設けられていた。当たり前だが、京都で初めて『フードコート』の上演に立ち会った観客にとっては「俳優が客席にいる」ことこそが作品にとって重要な要素に感じられたという話を聞き、いや、確かに東京公演でも彼女は窓に向き合っていたが、しかし俳優然として観客の前にいたのだという話をする。

そもそも公演全体の設えもかなり違っていた。京都公演の予約ページにも「2回観劇可」という記載はあった。しかし聞けばそもそも2回しかない公演の両方を観る予定だという観客はほとんどおらず(東京公演をすでに観たという観客の方が多かった)、村社としてもこちらでは必ずしも2回観なくてもよいというつもりだったらしい。吉田が客席にいたのは、東京公演とはまた異なるかたちで俳優のあり方と観客のそれを「近づける」ための試みだったのかもしれない。

新聞家の次の取り組みとして予告されている『保清』は2月23日から9日間にわたって開催される「オープンスタジオ」なのだという。ここにも同じ指向性を感じるがはたして。


公式サイト:https://sinbunka.com/

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新聞家『フードコート』(東京公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)
新聞家『屋上庭園』 │ artscapeレビュー(2019年06月15日号)

2019/10/26(土)(山﨑健太)

関田育子『フードコート』(昼のフードコート)

会期:2019/10/19~2019/11/17

TABULAE[東京都]

『フードコート』という作品にはテクストを書いた新聞家・村社祐太朗自身の演出による(いくつかの)上演のほかに、関田育子の演出によるバージョンが用意されていた。「関田育子の演出」とひとまず書いたものの、関田の近作において「演出」など職掌別のクレジットはなく、創作に携わった人間はみな「クリエーションメンバー」としてクレジットされている。よって、「関田育子の演出」と言ったとき、関田の名はチーム全体を指すものとしてある。また、公演の名義こそ「関田育子」となっているものの、新聞家の同名の公演期間中、同会場での上演であり、これは新聞家の企画でもあったのだと考えるのが妥当だろう。村社は新聞家の前回公演『屋上庭園』で初めて自分以外の人間が書いた戯曲を演出した。村社の側からすると今回はその逆、自分が書いたテクストを他人の演出に委ねる試みだということになる。新聞家は一貫して「他者と対峙すること」に取り組んでおり、これまでの戯曲の多くが「家族」についてのものだったのもその反映とみなせる。

当日パンフレットに「昼のフードコート」と記載があったことから推察するに(予約時には明示されていなかったものの)、関田版ではどうやら昼夜で異なる演出が採用されていたらしい。私は夜の公演は見られなかったのだが「昼の公演では、新聞家の主宰である村社さんが書いたテキストを思考の中心におき、それとどう関係していくのかが論点に置かれた」とある。

戯曲としての『フードコート』は(おそらくは)ひとりの視点からの内省的な語りのテクストだ。ある場面が詳細に描かれることはなく、具体的な部分はあっても断片的なイメージが連なっていく。村社版の俳優はほとんど動かないまま、訥々と言葉を発するのみ。客席やガラス戸越しに見える屋外の空間も上演の一部としてデザインされていることは明らかだが、それらと語られる言葉との間にはほとんど関係がないらしいことは初見の観客も了解するところだろう。ひとまずは朗読のような(しかしテキストが眼前にあるわけではない)ものだと考えればよい。一方、関田版の俳優(中川友香)は屋外も含めた空間を動き回りながら言葉を発する。必然的に、観客はその動きと語られる言葉との「正しい」関係を探ることになるのだが、ときにガラス戸に外から張り付いたままカニ歩きをするような動きにどんな解釈が「正解」たりえるだろうか。言葉と動きとを結びつけて理解しようという試みはおおよそ失敗する。

私がギリギリ引っかかったのは、バナナのように剥いて噛みついたハンバーガーがレモンのように酸っぱかった場面だ。そんな場面はない。ないのだが、まず彼女は空の手を胸のあたりまで持ち上げると、バナナの皮を剥くような動作をする。それは握られることなく、肉まんを食べるときのように左右からそれぞれ添えられた五指によって顔の前に運ばれる。かじるように動いた彼女の顔は梅干しを口に含んだかのごとくゆっくりと歪み、戻り、また歪む。「二番目のレモン」と「黄色い包み紙」。かろうじてつながる単語と不可解な動作があり得ないイメージを私に植えつける。あるいはそれは、すでに村社版を見ている私による、言葉に先立った解釈だったようにも思う。いずれにせよそもそも戯曲に私の妄想と一致する場面はなく、多くの場面で言葉の落ち着きどころはない。

今までの関田作品では、言葉と動作の結びつきが明らかになる瞬間、そしてそれらがズレ、歪んでいく瞬間に演劇的快楽があった。そこでは基本的に、観客の想像は関田によって一定の方向に導かれている。だが、今回の上演ではテクストと上演とをどう結びつけられるかはほとんど完全に観客に委ねられていたように思う。そうであるならば、それは夜空に星座を描くのとどう違うのだろうか。


公式サイト:https://ikukosekita.wixsite.com/ikukosekita

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新聞家『フードコート』(東京公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)

新聞家『フードコート』(京都公演) │ artscapeレビュー(2020年02月01日号)

関田育子『浜梨』 │ artscapeレビュー(2019年08月01日号)

2019/11/17(日)(山﨑健太)

Unknown Image Series no.8 #1 山元彩香「organ」

会期:2019/11/01~2019/11/30

void +[東京都]

1983年、兵庫県生まれの山元彩香はこのところ急速に作品世界を深化させている。今回、カトウチカがキュレーションする「Unknown Image Series」の8回目として企画された本展でも、意欲的な作品を展示していた。山元はこれまでラトビア、エストニア、ロシア、ウクライナ、ルーマニアなどロシア・東欧圏の少女たちをモデルに撮影を続けてきた。言葉によるコミュニケーションがままならないので、身ぶりや表情で意思を伝えつつ、モデルとともに神話的といえそうな場面を創出していく。そのプロセスは、ときにやや強引に見えることもあったが、近作では「何を目指していくのか」という目標設定の共有が滑らかになり、写真に説得力が出てきた。それとともに、仮面、彫刻、写真、布などを積極的に画面に取り入れることで、シャーマニスティックな雰囲気を巧みに醸成している。

だが、今回のメインの展示は写真作品ではなく、《organ》と題する7分ほどの映像作品である。映像そのものの構造はいたってシンプルで、黒い木の箱の上に横たわる長い髪の少女を真横から撮影したものだ。手作りの白い衣装を身に纏った少女は、目を閉じ、手と脚を箱から垂らしてじっとしている。あたかも死者のような姿なのだが、彼女の胸が上下しているので、生きていることがわかる。さらに彼女は微かに何か子守唄のような旋律をハミングしている。山元がこの作品にどんな意味を込めたのかは定かではないが、楽器、あるいは臓器という意味を持つ「organ」をタイトルに使ったことから、あらゆるものを受け容れ、歌として吐き出していく少女の存在を、安らぎと緊張感が同居する印象深いイメージとして定着させようとしたのだろう。山元が本格的な映像作品を発表するのは初めてだと思うが、その試みはとてもうまくいっていた。アフリカのマラウイで撮影したという次の作品も楽しみだ。

2019/11/26(火)(飯沢耕太郎)

Ryu Ika 写真展「いのちを授けるならば」

会期:2019/11/19~2019/12/07

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

このところ、各写真学校、大学の写真学科に中国人(香港、台湾を含む)の留学生の姿が目立つようになった。そのなかから、いくつかの写真コンペティションで受賞する者も出てきている。一昨年の第19回写真「1_WALL」でグランプリを受賞し、2019年7〜8月に受賞展「生きてそこにいて」(ガーディアン・ガーデン)を開催した田凱、第8回エモンアワードでグランプリを受賞し、昨年7〜8月に受賞展「Dyed my Hair Blond, Burnt Dark at sea」(エモン・フォトギャラリー)を開催したLILY SHUなどの動きを見ると、はっきりとひとつの流れがかたちをとり始めているように感じる。今年の第21回写真「1_WALL」でグランプリを受賞し、今回コミュニケーションギャラリーふげん社で個展を開催したRyu Ika(劉怡嘉)も、まさにその一翼を担うひとりといえる。

Ryuは1994年、中国・内モンゴルの生まれで現在武蔵野美術大学映像学科に在学中である。その作品世界は、異様なほどのテンションの高さに特徴があり、被写体となるモノも、人物も、風景も、暴力的とさえいえそうなエナジーによって充填されている。今回展示された新作「いのちを授けるならば」のシリーズも例外ではない。同シリーズは、友人が「自分の体を自分のものと感じていない。本当の自分は海から来ていて、波に乗ってバラバラになって海辺にたどり着く」と話してくれたことに想を得て制作された。海岸に漂着した木や貝やビニール袋を自分の体と同一視する友人とともに、彼女の誕生日に海辺に出かけ、裸で波や漂着物と戯れる様子を撮影している。そのクローズアップを含む、荒々しいタッチの写真群を壁に貼り巡らせ、その一部を赤いフィルターを装着したライトで照らし出していた。

内モンゴルの風物を、獲物に飛びかかるように撮影したこれまでの作品もそうなのだが、Ryuの写真には「世界はこのようにしか見えない」という強力な確信が宿っている。その身を切るような切実さは、同世代の日本人の写真家にはなかなか真似のできないものだ。これから先も、Ryuを含む日本在住の中国人写真家の仕事に注目していきたい。

2019/11/27(水)(飯沢耕太郎)

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