artscapeレビュー

ニューミューテーション#3 菊池和晃・黒川岳・柳瀬安里

2020年09月15日号

会期:2020/07/11~2020/08/30

京都芸術センター[京都府]

活動歴5年未満の若手作家を紹介する本企画。3回目の今回は、自身の身体的なパフォーマンスによって制作する3名が選出された。特に菊池和晃と柳瀬安里は、「身体の酷使をとおした美術史の再現・引用」が共通する点で興味深い。菊池作品の特徴は、「トレーニングマシン」兼「描画装置」を自作し、筋肉やメンタルの強さを鍛える行為に従事することで、美術史上の「抽象絵画」(ただしすべて男性作家)を模倣的に生産する点にある。メインの出品作「円を描く」シリーズは、直近に開催された「京芸 transmit program 2020」展のレビューでも取り上げたので、本評での詳述は省く。



菊池和晃《円を描く I─マシン》(2020)[撮影:表恒匡]


柳瀬安里もまた、自身の身体的パフォーマンスによる、美術史的作品や上演テクストの「再演」を、しばしば政治的緊張をはらんだ場において行なうことで、「今ここ」と歴史的記憶との衝突や輻輳を発生させ、見る者に突きつけてきた。《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会議事堂周辺の安保反対デモのなかを歩きながら、道路にチョークや指で「線を引いていく」パフォーマンスの記録映像である。路上に歩行の痕跡を刻み付けていくパフォーマンスとして、例えば、氷の塊が解けるまで押して歩くフランシス・アリス《実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)》(1997)や、ブーツの靴紐を足首にくくりつけて足枷のように引きずって歩くモナ・ハトゥム《ロードワークス》(1985)が想起される。柳瀬作品は、そうした美術史的過去を想起させつつ、デモに集った群衆を攪拌/分断し、地震の断層、「原発20km圏内」、警察の規制線、当事者/非当事者の境界線など複数の意味を胚胎させる。また、沖縄の高江のヘリパッド建設工事のゲート前を、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩く《光のない。》では、「私/あなた/私たち」の座を占める主体が、柳瀬の歩行とともに、日本/沖縄/アメリカ、あるいは柳瀬自身/機動隊員/鑑賞者と絶えず揺れ動き、書き換えられ、多重的に立ち上がる。戯曲の言葉が「声」として発話されることで初めて受肉化されることを示すとともに、「私/あなた/私たち」の境界画定が、分断と排除の論理が支配するあらゆる周縁化された場所で起こっていることを可視化していた。また、ウーライ/マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス《Breathing In/Breathing Out》(1977)を「再演」した《息の交換》では、柳瀬と協力者の男性が、一見キスに見える「互いの呼気を吸い合う」行為に挑み、「失敗」を繰り返す。



柳瀬安里《そこに、なにが映っていても目に見えない》(2020)[撮影:表恒匡]


本展出品作《そこに、なにが映っていても目に見えない》で参照されたのは、ヨッヘン・ゲルツによる不可視のモニュメント《2146個の石―ザールブリュッケン反人種差別警告碑》(1990-93)である。これは、ドイツの都市ザールブリュッケンで、ゲシュタポの支部が置かれていた旧領主の城館の前の広場の敷石を剥がし、その裏面に、ナチ時代に破壊されたユダヤ人墓地の名前を刻んだプロジェクトだ。今年3月に現地を訪れた柳瀬は、石畳の長さを歩幅から割り出し、ビデオカメラで撮影した石畳の映像から一つひとつの敷石を取り出すように静止画に置き換え、繋ぎ合わせて布に転写し、広場の石畳の一部を「再現」した。薄暗い展示会場では、横幅約3m×縦幅20mの「石畳」の道が床に伸び、歩数を数える柳瀬の音声が聴こえてくる。本作が過去作品と大きく異なるのは、柳瀬自身の身体がそこに現前しないことだ。この不在性は、「敷石の裏に刻まれたユダヤ人墓地名が見えない」こととも呼応し、一見「模範回答」に見える。

だが、ゲルツ作品の要は、「忘却と抹消、不在」それ自体を体現する「不可視性」「表象の禁止」に加え、「どの敷石の裏にどんな名前が刻まれているのか」わからないまま、「その上を踏みつけて歩かねばならない」点にある。私たちは、踏みつけられた者たちの姿も見えず、その痛みもまったく感じることなく、歩くことができる。敷石の上を歩くという身体的接触/徹底した断絶というアンビバレンスがゲルツ作品の賭け金である。それは、鑑賞者を、文字通り「踏みつける」暴力を一方的に行使する抑圧者の立場に強制的に転位させてしまうのだ。

しかし、柳瀬作品において鑑賞者は、凹凸のない滑らかな布の表面に転写された石畳の画像に対して、その上を踏みつけて歩くのではなく、ただ厳かに眺めるだけだ。「身体を媒介したトレース」による「今ここ」への召喚だが、鑑賞体験のコアにある「身体性」とそれがはらむ真の暴力性への反省的自覚はむしろ損なわれ、零れ落ちてしまうのではないか。

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2020/08/01(土)(高嶋慈)

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