artscapeレビュー
2018年03月15日号のレビュー/プレビュー
伊丹豪「photocopy」
会期:2018/02/13~2018/03/03
The White[東京都]
伊丹豪が2017年にedition nordから出版した『photocopy』は意欲的な造本の写真集だった。ページが全部バラバラになっていて、一カ所だけピンで留めてある。つまり、横にスライド(回転)しないと写真図版が見えないようにつくられているので、否応なしに一枚の写真だけではなく、その前後の複数の写真が目に入ってくることになる。「何の疑いもなく本をめくること、見たような気になることへの批評」として組み上げられたこの写真集は、トリッキーだがスリリングな視覚的な体験を味わわせてくれるものだった。
今回の伊丹の個展では、「その本の構造を逆手にとり、逆のアプローチで空間構成を試み」ている。具体的にはプリントの大きさを極端に変え、フレーム入り、アクリル裝、直貼りなど多様なやり方で壁に写真を並べるやり方だ。こちらは一枚の写真に視線を収束させることを回避し、部屋全体の空間を一挙に体験させようというもくろみである。
それはそれでうまくいっているとは思うが、このような「ティルマンス展示」はこれまでも多くの写真家たちが試みているので、それほど新鮮味はない。それとともに、人、モノ、建物などが混在する都市空間を縦位置で切り取ったイメージ群が、どんな論理で(あるいは非論理)で構築されているのかが、あまり明確に伝わってこない。写真の見せ方へのこだわりから一歩進めて、一枚一枚の写真の意味(あるいは非意味)の連なりの必然性へと観客を導いていく枠組みが必要になるのではないだろうか。
2018/02/14(水)(飯沢耕太郎)
空間デザイン機構シンポジウム「空間デザインの新時代に向けて」
会期:2018/02/15
Gallery AaMo[東京都]
このシンポジウムは、JCD(日本商環境デザイン協会)、DSA(日本空間デザイン協会)、SDA(日本サインデザイン協会)、NDF(日本ディスプレイ業団体連合会)という4つの組織が連携し、2005年に発足した空間デザイン機構が企画したものである。同組織は、これまでも『年鑑 日本の空間デザイン』を共同で刊行していたが、今回は情報を広く社会に発信することを目的にシンポジウムが企画された。内藤廣の基調講演は、渋谷を含む高層化する東京の再開発を山手線のネックレースと位置づけ、一様にならず、各地の個性を残しながら進めるべきだという。加えて、かつてのバブル崩壊前夜の雰囲気もあり、ちゃんとした計画をたてないと、確実に失敗するプロジェクトも出るだろうと警告も行なった。内藤は自らも渋谷の再開発に関わっているが、そのヴィジョンを見ると、かつて坂倉準三が都市デザインを意識しながら、いくつかの垂直のコアを伴う渋谷のデッキ構想を提出したことが想起される。
後半のパネルディスカッション「空間デザインの価値とその将来構想」において、筆者はモデレータを担当した。そもそも「空間」というキーワードは、美術史のバロック研究から注目され、建築の分野では、ギーディオンの著作『空間・時間・建築』でも核となり、建築の諸分野を統合する概念としても提唱されたものである。登壇者の橋本夕紀夫は、1960年代以降の倉俣史郎や杉本貴志の偉業を振り返り、インテリア・デザインのレガシーを強調し、廣村正彰は、建築家らとのコラボレーションを通じたサインの空間進化形のプロジェクトを報告した。資生堂の山本尚美は、最新のテクノロジーを生かしたメディア・アートにも近いディスプレイのデザインを紹介し、三菱地所の井上成は、大手町などで展開する使い手の視点を重視したまちづくりを語る。全体の総括としては、歴史を振り返りながら、異分野との融合をめざしていく空間デザインの未来が共有された。なお、建築や美術に比べて、懇親パーティが華やかだったことも印象的だった。乃村工藝社が新潟の劇場を担当した縁で、NGT48が歌と踊りを披露し、モデル12人による着物のファッションショーなどが行なわれたからである。
2018/02/15(木)(五十嵐太郎)
ダンス×文学シリーズvol.2 きざはし/それから六千五百年地球はぐっすり寝るだろう
会期:2018/02/17
神戸文化ホール[兵庫県]
京都を拠点とするダンスカンパニー、Monochrome Circusの代表作『きざはし』と、公募ワークショップの参加者と共につくり上げた『それから六千五百年地球はぐっすり寝るだろう』のダブルビル公演。
前者の『きざはし』は、Monochrome Circusの坂本公成と森裕子による男女デュオ作品。「正方形のテーブル」の上/下という限られた空間の中、直接的なコンタクトを介さない2つの身体の間に張りつめた緊張感、研ぎ澄まされた美しさ、そして空間を音響的に拡張/切り裂く「音」により、世界の構造を極限まで凝縮してみせたようなダンスが繰り広げられる。テーブルの上には女が立ち、下には男が身をかがめて座る。テーブル上には、銀に光るナイフが足の踏み場もないほど置かれ、女はおそるおそる裸足の一歩を踏み出し、四辺をゆっくりと歩いていく。片足を踏み外して奈落に落ちかける身体、危ういところで保たれるバランス。女の代わりに落下したナイフが鋭い金属音ときらめく光で空間を切り裂く。女の歩みは次第に大胆になり、両足を大きく振り払ってナイフを落下させる。脅かすものを自ら取り払う勇気。開かれた自由な領土で女は踊る。テーブルの「上」は危険と隣り合わせだが自由を切り開ける世界、テーブルの「下」は安全な隠れ場だが、身動きの取れない窮屈な世界だ。やがて女は、どん、と足を大きく踏み鳴らす。自分の存在を知ってほしい焦燥か、怒りか。怯えるように身をかがめたまま、テーブルの下から出ようとしない男。テーブルの「上」にいる女は抑圧する存在なのか、「下」の世界にいる男はそれを支えて耐え続けているのか。ラストでは、仰向けになった男が両手足でテーブルを斜めに持ち上げ、女はひとり光を浴び、不安定な斜面の上に立ち続ける。男は女を讃え上げているのか、足場を崩そうとして精一杯の抵抗を試みているのか。空間を包み込む虫の鳴き声が、逆に生命の死に絶えた世界の果ての静寂を連想させるような暗がりの中、ミニマムに削ぎ落された両義的な二者の関係性が恐ろしいまでの美しさとともに提示された。
一方、『それから六千五百年地球はぐっすり寝るだろう』は、三好達治の詩「灰が降る」の一節からタイトルを取った作品。この詩は1954年の第五福竜丸事件を契機に書かれ、「六千五百年」はプルトニウム240の半減期を指す。出演したダンサーの辻本佳と公募ワークショップの参加者たちは、計10人という集団のダイナミズムの力を借りて、さまざまな風景を舞台上に出現させた。押し寄せる波の轟きを体現した身体は、次の瞬間には浜辺に累々と横たわる死者に擬態する。2mほどの木材を巧みに使い、「巫女舞」が舞われる厳粛な社、風にざわめく林、死者の列があの世へ渡っていく細い道などが自在に出現する。筏の上に身を寄せ合って「おーい」と叫ぶ人々は、海に流され救助を求めているのか、沈みそうなボートに乗る難民なのか、対岸から手を振る死者たちなのか。印象的な強いシーンは多かったが、「文学との交差」という点では、「直立したパフォーマーが詩を朗読する」という直接的な提示に留まっていた点が惜しまれた。
2018/02/17(土)(高嶋慈)
小島久弥「Critical Point True Colors of the Ghost -お化けの正体-」
会期:2018/02/17~2018/03/10
CAS[大阪府]
「1945年、ニューメキシコにおける人類初の核実験の写真」に着想を得た新作インスタレーションが発表された個展。DMに印刷された写真には、上空に出現した巨大な火の球と、その真下の発射台を包むようなドーム状の半円形の球体が写っている。会場では、この光景を「再現」した映像が、アナログな仕掛けの露呈とともに提示されている(特撮のようにミニチュア模型を用いて撮影した衝撃的な「映像」とそのからくりを同時に見せる手法は、伊藤隆介とも共通する)。スクリーンに映し出されるのは、街並みのシルエットと上空で炸裂する巨大な火の球だが、実は「街並みのシルエット」は手前の机の上に置かれた文房具やミントの容器、糸巻などの投げる影であり、スクリーンの裏側では蛍光灯が明滅を繰り返しているのだ。よく見ると、「発射台」の位置には「大阪の通天閣のフィギュア」が置かれており、「通天閣」が「第二の原爆ドーム」になるような悪夢的な未来のビジョンがギャグのように提示される。
「チープで典型的なお土産品」を用いた悪ノリのような手つきは、「原爆ドーム」と「大浦天主堂」の自作のスノードームへと引き継がれる。小島によれば「ニューメキシコでの核実験の写真がスノードームを思い起こさせた」と言うが、「半円形の球体」という形状的な連想は、原爆ドーム、「傘」すなわち核の傘、シェルターといった連想を経て、ミニチュアの世界へと再び着地する。しかしこの「スノードーム」に閉じ込められた空間は、シェルターのように保護された空間なのか、それとも隔離された立ち入り禁止の空間なのか。舞い散る「スノー」は、実は「死の灰」ではないのか。私たちはそれを、「映像的体験」としての原爆とともに、無害なお土産品として──つまりキッチュな記号として消費してしまうのだ。そうした感性への批評こそを本展の根底に見出すべきである。
2018/02/17(土)(高嶋慈)
「せんだい・アート・ノード・プロジェクト」第2回アドバイザー会議
会期:2018/02/12
せんだいメディアテーク[宮城県]
せんだいメディアテークにて、アートノードのアドバイザー会議に出席した。この日は2017年度の活動と2018年度の計画が報告され、川俣正の貞山運河にかける「みんなの橋」の進捗状況(ちょうど7階にて展示中だった)、藤浩志による「雑がみプロジェクト」、東北リサーチとアートセンター(TRAC)のイベント、複数の企画者によるTALKシリーズなど、多様なプロジェクトが動いていることがうかがえる。もっとも、メディアとしてのタブロイド紙やホームページなどを閲覧しないと、それぞれの企画の参加者に対し、これらが全体としてアートノードという枠組のアイデンティティをもっていることが理解しにくいのではないかと思った。こうした疑問に対して、せんだいメディアテークはあえてそれでよいと考えている。すなわち、もともと全国で乱立する芸術祭とは一線を画するべく、特定の期間に展示とイベントが集中させて、ピークをつくる方法を避け、リサーチをベースにした複数のプロジェクトがいつも同時進行しているスタイルを選んだからだ。
会議の終了後は、TALKシリーズを運営した7名による総括の公開会議が行なわれた。いわば反省会をかねたメタ・イベントなのだが、予想以上に参加者が多く、市民の関心の高さを感じた。これも改めてギャラリー、古書店+カフェ、舞台制作などを営むメンバーが一堂に会して、全体を俯瞰すると、アート、音楽、文学、映画、民俗学など、多様なジャンルのイベントがあちこちの場所を活用しながら開催されていたことがわかる。おそらく、それぞれの個性的な企画者に参加者もついていると思われるが、アートノードを契機にして、普段は聴講しなかったようなタイプのトークにどれくらい足を向けたのかが興味深い。それこそが結節点としてのアートノードである。もちろん、企画者同士が同じ場を共有し、交流することも、これまであまりなかったから、まずはその第一歩となった。
2018/02/18(日)(五十嵐太郎)