2021年09月15日号
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artscapeレビュー

2018年06月15日号のレビュー/プレビュー

熊谷聖司「EACH LITTLE THING」

会期:2018/05/16~2018/06/10

POETIC SCAPE[東京都]

熊谷聖司の「EACH LITTLE THING」は、2011年から続いている写真シリーズで、これまで24ページの写真集を8冊刊行し、そのたびに展覧会を開催してきた。今回の展示は、写真集の「#9」と「#10」の刊行に合わせてのもので、これを一応の区切りとして同シリーズは完結するのだという。

熊谷は多彩な作風の持ち主だが、この「EACH LITTLE THING」シリーズは、彼の写真家としての体質に最もよく合致しているのではないだろうか。縦位置、カラーに限定したプリントは、現実世界の単純な再現ではなく、色味や質感を微妙にコントロールして制作されている。それらを組み合わせた写真集もまた、一冊一冊が高度に完成されていて、目を楽しませるとともに、「いま」の空気感を共有することができる。会場には、熊谷が写真集の構成を決めるためにプリントしたキャビネサイズの写真の束も、ケースに入れて展示してあった。そこから、デザイナーの高橋健介が最終的に写真をセレクトして並びを決めるのだという。今回の2冊でいえば、以前より女性を撮影した写真の比率が上がっているように思えるが、それはむしろ高橋の好みが反映されているのだろう。つまり、写真家とデザイナーの「共同作業」によって、風通しのよい開放感が加味されてくるということだ。

「EACH LITTLE THING」がこれで終わるのは、ちょっと残念な気がするが、熊谷はこれから先も、日常を俳句のような切れ味で軽やかにすくい取っていく写真を撮り続けていくはずだ。今回のファイナル展示は、10冊の写真集をもう一度きちんと見直す、いいきっかけになりそうだ。

2018/05/16(水)(飯沢耕太郎)

《星のや 軽井沢》

[長野県]

およそ10年前の冬、日本建築大賞の現地審査で《星のや 軽井沢》を訪れたとき、システム上は仕方ないのだが、昼に2時間ほど滞在するだけでは、魅力が十分にわからないと感じ、いつか泊まってみようと思い、それがようやく実現した。むろん、劇場建築も、そこで実際に音楽や演劇を鑑賞する体験なしに、空っぽのホールを見るだけでは物足りない。一方で美術館は、視覚中心の施設ゆえに、日中に2時間も滞在すれば、おおむね事足りる(それでも、季節や日時によって変化する光の状態はすべてチェックできない)。こうなると、住宅の場合は暮らしてみないとわからないという話になり、それはさすがに無理だが、宿泊施設はそもそも一時的な滞在を前提にしている。ましてや星のやは、ビジネスホテルと違い、飲食を含めて贅沢な時間を過ごすという体験を提供することが目的だ。さすがにいい値段だったが、リピーターがいるだろうと思わせる、それに見あう内容である。

ここで朝を迎えたら素晴らしいだろうという印象をもっていたので、水辺の部屋を選んだが、新緑の季節に朝昼晩を過ごす体験は格別だった。《星のや軽井沢》は、部屋を集積したホテルではなく、集落をイメージした分棟の形式を特徴とし、豊かな地形にあわせて、路地があったり、山側だったり、いくつかの個性的なエリアに分かれているが、とりわけ池を囲む空間は小世界をかたちづくり、集落らしさを強く感じる。全体としては、いったん自動車からのアクセスを遮断してから展開するランドスケープと建築の融合が絶妙だった。前者はオンサイト計画設計事務所、後者は東利恵が担当している。したがって、敷地を散策する楽しみが増幅し、建築だけでは到達できない空間の体験をもたらす。それなりに時間がかかるので、2泊が推奨されている意味もよくわかった。完全に人工的なテーマパークではなく、軽井沢の自然と地形を活かしながら、巧みにつくりこまれたことが最大の魅力だろう。




2018/05/18(金)(五十嵐太郎)

橋本とし子「キチムは夜に飛ぶ」

会期:2018/05/15~2018/05/26

ふげん社[東京都]

印象的なタイトルは、作者の橋本とし子(1972年、栃木県生まれ)、の2歳の娘が、ある日押入れで遊んでいた時にふと口ずさんだ「キチム キチム キチムは よるに とぶ」という言葉に由来するのだという。「キチム」は「吉夢」に通じるが、もっと幻想的な生き物の名前のようでもある。橋本がここ10年余り、折りに触れて撮影してきたという写真をまとめたという今回の展覧会を見ていると、たしかにそこはかとなく「夢と現実が交錯する」気配が立ち上がってくるように感じる。

2人の娘の成長ぶりや、旅先で撮影された写真など、被写体の幅はかなり広い。だが、そこには一貫して日常から少しだけ遊離した時空に鋭敏に反応する視点がある。光、あるいは闇のほうに、少しずつ滲み出ていくようなプリントの調子もよくコントロールされていた。娘たちも10歳と2歳になり、子育てからやや解放されたということなので、今後はぜひコンスタントに作品を発表していってほしい。文学とも相性がいい、ユニークな作品世界が育っていきそうな気がする。

なお、東京・築地のふげん社での展示に合わせて、同名の写真集が刊行された。A4判変型のそれほど大きくない写真集だが、長尾敦子による、細部まできちんと目配りされた装丁・デザインによって、気持ちよくページをめくることができる。写真の大きさを微妙に変え、裁ち落としと余白を活かしたページをリズミカルに散りばめることで、橋本の写真の世界が的確に表現されていた。

2018/05/18(金)(飯沢耕太郎)

内藤正敏「異界出現」

会期:2018/05/12~2018/07/16

東京都写真美術館[東京都]

内藤正敏が早稲田大学理工学部出身で応用化学を専攻し、倉敷レイヨン(現・クラレ)の研究室に一時勤めていたというのは、あまり知られていないのではないだろうか。彼の初期作品は、その関係もあって、高分子物質(ハイポリマー)の化学反応を利用して、SF的なイメージを創り上げたものだった。今回の全186点という回顧展の冒頭には、《黒い太陽》(1959)、《トキドロレン》(1962~63)、《白色矮星》(1963)といった、奇妙にユーモラスな怪物めいた生き物が跳梁する作品群が展示されていた。

ところが、2年以上かけた大作《コアセルベーション》を制作中の1963年に、山形県湯殿山麓、注連寺の鉄門海上人の即身仏(ミイラ)と出会い、衝撃を受けたことで、内藤の写真家としての方向性は大きく変わっていくことになる。即身仏信仰の背景となる歴史学や民俗学を研究し始め、「東北の民間信仰」を集中的に撮影することで、いわば理科系から文科系への転身が図られることになる。以後の内藤の、「婆バクハツ!」、「東京 都市の闇を幻視する」、「遠野物語」、「神々の異界」など、異界のドキュメントというべき仕事の展開は、今回の展示でしっかりとフォローされていた。

だが、本展を通して見てあらためて強く感じたのは、むしろ一見断絶しているように見える「初期作品」とそれ以後の作品とのあいだの共通性だった。闇の奥をストロボで照射し、「もう一つの世界」を浮かび上がらせようとする試みは、化学反応によって偶然生じてくる形象を印画紙上に定着しようとする行為の延長上にあったことを実感することができた。さらに驚きつつ、感動したのは展示の最後のパートに置かれていた《聖地》(1980)と題する作品である。2カ月ほど、食事の内容を吟味して理想の「ウンコ」を放り出し、谷川の岩の上に、その黄金色に輝く塊を置いたのだという。そこには、内藤正敏という写真家の陽性のエネルギーの塊が、見事に形を取っていた。

2018/05/18(金)(飯沢耕太郎)

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Re/place

会期:2018/05/19~2018/05/20

京都市立芸術大学 芸大ギャラリー[京都府]

京都大学吉田キャンパスの石垣に立て掛けられた「立て看板」(通称タテカン)に対し、大学側が規制を強め、5月13日に撤去されたことが議論の波紋を呼んでいる。立て看板は学生運動が盛んだった1960年代から設置され始め、政治的な主張のアピールのほか、サークルや学生寮の勧誘、演奏会やイベントの告知など、学生がさまざまな声を発信する媒体として根付いていた。しかし、京都市は2017年、屋外広告物を規制する景観条例に反するとして、大学に文書で指導。これを受けて大学側は、承認を受けた団体しか学内の指定場所に立て看板を設置できないとする規定を作成し、今年5月から運用を始め、規定に従わない看板を撤去した。抗議する学生らと大学側の攻防はその後も続いている。

この京都大学による立て看板撤去に対し、京都市立芸術大学の学生有志が美術の側から反応し、学内ギャラリーで「Re/place」展を開催した。それぞれの部やサークル、看板の制作者から立て看板を借り受け、ギャラリー内に展示した。展示された立て看板は、新入部員の勧誘やイベント告知など従来の役割に加え、「立て看板撤去」に対する抗議も多数含まれている。

ここで、展覧会タイトルの「Replace」(置き換える)は示唆的だ。それは、京都大学から京都市立芸術大学へという物理的な場所の移動に加え、路上からギャラリー空間へというコンテクストの置き換えも二重に内包する。視覚的制度であるホワイトキューブへの移動、とりわけ路上空間では存在しなかった「キャプション」がそれぞれの立て看板に付されていたことの意味は大きい。タイトル、制作者、素材を明記する「キャプション」の付記により、元々発信するメッセージに加え、「これらは表現物である(表現物としてここにある)」というメタメッセージが差し出されるからだ。

表現物への規制に対し、「アーティスト」ならば、どう規制の網の目を潜り抜け、制度の虚をつき、表現として成立させるかが問われる。この点で興味深く、展示のなかで異彩を放っていたのが、撤去後の石垣の写真に「透明な立て看板」とキャプションを付けた1点である。これは、2方向へ向けた想像力の回復の試みとして読まれるべきだろう。ここに「透明な立て看板」を立てる抵抗の意思が確固として存在すること。そして、一見「何もない場所」には、目に見えない規制と排除の力が支配的に充満しており、その力が透明化し常態化していることへの警鐘である。 本展は、「立て看板撤去」という(現実にはたらいた)移動の暴力性を一方では想起させつつ、大学側の「管理体制の強化」や表現の規制に対する異議申し立てとして、芸大生が美術の側から声を上げたことの意義は大きい。


会場風景


会場風景

2018/05/19(土)(高嶋慈)

2018年06月15日号の
artscapeレビュー

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