artscapeレビュー
2018年06月15日号のレビュー/プレビュー
後藤元洋「竹輪之木乃伊御開帳」
会期:2018/05/03~2018/05/06
アートスタジオDungeon[東京都]
伝説の「ちくわ」が帰ってきた。後藤元洋は1989年に東京・目黒のPAX Galleryで「焼きちくわ」と題する個展を開催した。裸になった後藤本人が、「ちくわ」を口にくわえたり、体に挟んだりする姿を撮影したパフォーマンス・フォトである。それ以来、「ちくわ」は彼のセルフポートレート作品のトレードマークとなる。1993年には「御神体」として、「ちくわ」を乾燥させた「竹輪乃木乃伊」を制作し、以後5年ごとに「御開帳」と題する展覧会+パフォーマンスを開催してきた。後藤自身の還暦祝いも兼ねて、東京・板橋のアートスタジオDungeonで開催された今回の「御開帳」で、通算6回目になるという。
地下室の展示スペースには、「ちくわ」シリーズをはじめとする1980年代以来の写真作品が展示されていた。新作のカラー作品でも、裸で行水するなど、相変わらず体を張ったパフォーマンスを展開している。「御神体」の「竹輪乃木乃伊」は別室に鎮座しており、その様子を遠隔操作のカメラで確認することができる。それとは別に神棚のような場所がしつらえてあって、「竹輪大明神」のお札を売っていた。いまさら、後藤に「ちくわ」とはなんなのかと問いかけても無駄なことだろう。だが、このナンセンスの極みというべきオブジェが出現することで、現代美術、パフォーマンス、インスタレーションといった概念的な枠組が脱臼し、がらがらと崩壊するように感じるのがじつに痛快だ。
それにしても、後藤元洋という写真家・パフォーマーに対する評価はもっと上がってもいいのではないだろうか。サイモン・ベーカーのキュレーションで2016年にテート・モダンで開催された「Performing for the Camera」展には、草間彌生、細江英公、深瀬昌久、森村泰昌、TOKYO RUMANDOといった日本人作家のパフォーマンス・フォトが出品されていた。後藤の「ちくわ」シリーズも、そこに加わっていいと思う。
2018/05/05(日)(飯沢耕太郎)
クロード・レジ演出『夢と錯乱』
会期:2018/05/05~2018/05/06
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
ほとんど何も見えない深い闇から、人間のような形象がかろうじて浮かび上がる。闇を手探るように伸ばされた両手、おぼつかなく揺れる足取り、闇に隠された表情。足元に横たわる影の方が存在感のある、陽炎のようにおぼろげなひとがたが亡霊のように舞台上を彷徨う。スローモーションで引き伸ばされた痙攣。やがて、夜よりも暗い深淵のなかから、ざらついた質感を帯び、嘆きと憎悪と嘲笑が入り混じった声が発せられる。厳格な父親、石のように無関心な母親、死の匂いが重く立ち込めた家、情欲と死への衝動が、破滅的で夢幻的なビジョンの断章として語られていく。
フランス演劇界の巨匠、クロード・レジの演出による本作は、オーストリアの夭折の詩人、ゲオルク・トラークルによる自伝的要素の強い散文詩をテキストに用いて上演された。トラークルは薬剤師として働くなかでモルヒネ中毒になり、妹との近親相姦の関係にも苦しんだ。第一次世界大戦下で衛生部隊として戦線に送られ、自殺未遂の後、コカインの過剰服用により27歳で他界した。
原詩はドイツ語だが、上演はフランス語で行なわれている。そして、本公演の最大のポイントは、俳優の発語と完全に同期しない「日本語字幕」の表示のタイムラグにある。はらわたから絞り出すような発語から数秒ほど遅れて表示される字幕の「ズレ」は、演出上の意図によるものだ。意味内容の理解よりも先に、空気を震わす物理的振動としての「声」が、怖れ/嘆き/破滅の予感/絶望/苦悶の喘ぎといった感情を皮膚感覚で体感させ、調子の狂った弦楽器のようなその声の物質的質感が、一つひとつの言葉に手触りと輪郭を与え血肉化するのだ。声によって受肉化されたイメージを噛みしめる贅沢な間が、観客には与えられている。顔貌も見分け難いほどの暗がりが支配する舞台上で、やや遅れて俳優の頭上で淡い光を放つ字幕は、混沌と闇に文字通りひとときの「光」を与え、たちまち闇に飲まれて消えていく。フランシス・ベーコンの絵画を思わせる大きく開かれた口、その虚無的な広がりに、聴こえない叫びが充満する。
繊細にコントロールされた照明と音響、俳優の身体的現前と声の魅力、そして「字幕」の操作も含めた演出設計が、「朗読」から本作を「演劇」として分かつ。禁欲的にして過剰、沈黙のなかに叫びに満ち、静謐にして内臓的な暴力性に満ちた本作は、身体の輪郭を闇に溶かしながら声の野蛮的な力を浮上させ、見る者の時間・空間感覚すらも失調させるほどの力に満ちていた。
2018/05/06(日)(高嶋慈)
《静岡県富士山世界遺産センター》
[静岡県]
コンペで勝利した坂茂が設計し、昨年末にオープンした《静岡県富士山世界遺産センター》を訪れた。最寄り駅から徒歩で10分弱の立地だが、最上部の展望ホールから美しくフレーミングされた富士山が見える(《ポンピドゥー・センター・メス》でも、展示室の大開口から、このように地元の大聖堂を見せていた)。交通量が多い道路に面し、ごちゃごちゃした街並みと隣接するけっして恵まれた環境ではないなかで、水面から逆さ富士の形象が立ち上がるという一般にもわかりやすいアイコン建築を実現している。塀などで周囲と切断しているわけではないが、明快な形態による強い主張と、人々の意識を水面のリフレクションに集中させることに成功している。かといって、富士山を具象的に模したキッチュなデザインではなく、抽象化された造形だ。もっとも、訪問時は風が吹き、水面への映り込みはあまりはっきりとせず、おそらく夜間のほうが美しく鏡像が浮かびあがると思われた。
通常、アイコン建築は外観を重視するあまり、内部空間との齟齬が目立つケースが多い。外部と内部がばらばらになってしまうのだ。しかし、富士山世界遺産センターは逆さ富士の形状がそのまま展示空間の特徴を形成している。すなわち、スロープを登っていくと、だんだん楕円が広がり、また壁も斜めに外側に向かって傾斜しているのだ。いわばニューヨークのグッゲンハイム美術館型の空間だが、この建物では展示室内の昇降を富士山の登山と重ねあわせている。なお、内壁側の展示はメディア・アート的な映像が中心であり、そうなると、しばしば空間のデザインはどうでもよいブラックボックスになってしまう。だが、坂の建築は、部屋が暗くなっても空間性を感じられるよう、旋回するスロープを導入している。すなわち、被災地のシェルターや仮設住宅など、彼のほかの作品にも共通するテーマだが、建築でしかできないことをきちんと組み込んでいる。
2018/05/06(日)(五十嵐太郎)
岡本太郎の写真──採集と思考のはざまに
会期:2018/04/28~2018/07/01
川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]
あらためて、岡本太郎はいい写真家だと思う。『芸術新潮』(1996年5月号)の「特集:さよなら、岡本太郎」に掲載された「カメラマン岡本太郎、奮戦す!」の写真群に震撼させられて以来、川崎市岡本太郎美術館での展覧会、次々に刊行される写真集など、写真家・岡本太郎の写真の仕事については、なんとなくわかったつもりになっていた。だが、「日本発見 岡本太郎と戦後写真」展(川崎市岡本太郎美術館、2001)をキュレーションした楠本亜紀のバックアップを得て実現した、今回の「岡本太郎の写真──採集と思考のはざまに」展を見ると、彼の写真の世界がさらにスケールアップして立ち上がってくるように感じる。
その驚きと感動をもたらしたのは、本展の構成によるところが大きい。これまでのような「芸術風土記」「東北」「沖縄」といった発表媒体や地域ごとのくくりではなく、岡本太郎の写真群をもう一度見直すことで「1. 道具/どうぐ(縄文土器、道具、手仕事、生活)、2. 街/まち(道、市場、都市、屋根)、3. 境界/さかい(階段、門、水、木、石、祭り)、4. 人/ひと(人形、動物、こども、人、集い)」という4章、18パートによる写真の「壁」が設置された。この展示構成がとても効果的に働いていて、彼の写真家としての目の付けどころ、視線の動き、予知の方向性がくっきりと浮かび上がってくる。特に注目すべきなのは「3.境界/さかい(階段、門、水、木、石、祭り)」のパートで、そこには優れた人類学者でもあった岡本の精神世界と物質世界とを行き来する「採集と思考」のプロセスが見事に形をとっていた。
残念ながら、岡本の生前のプリントはほとんど残っていないのだが、今回はオリンパス光学工業が主催した「ペンすなっぷ めい作」展の第4回~第10回展(1963~1970)に出品された10点の作品も見ることができた。それらを撮影したハーフサイズ(72枚撮り)のオリンパス・ペンは、彼が愛用するカメラのひとつである。この機動力のあるカメラと彼の写真のダイナミックな画面構成との関係についても、今後のテーマとして考えられそうだ。
2018/05/06(日)(飯沢耕太郎)
建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの
会期:2018/04/25~09/17
森美術館[森美術館]
もっと歴史寄りの内容だと思っていたが、木材の可能性にフォーカスをあてた最初のセクションをのぞくと、想像以上に現代建築の比重が大きい。全体としては9つのキーワードによるセクションを設けているが、作品数が多いことに加え、解釈も開放系なので(なぜ、このセクションにこの作品が入っているか。一瞥して分からないものが少なくない)、いろいろな見方が可能な展覧会と言えるだろう。これは鑑賞する側が主体的に考える契機となる。興味深いのは、縄文対弥生といった20世紀の半ばの伝統論争の枠組はあえて外し、現代的な視点から異なる時代の建築を大胆に整理しており、ある意味では海外の企画のようにも見える。例えば、最後の自然との関わりでは、《名護市庁舎》《三佛寺投入堂》《聴竹居》、石上純也による山口の最新プロジェクトが並ぶ。とはいえ、キャプションの解説は正確で、とてもしっかりしている(日本の古建築はやや硬い文章だが)。
展示は、写真、図面、模型、貴重な史料を活用しているが、美術展とは違い、実物を見せることができないのは建築展の宿命である。そこで今回は、ディテールが省略されない1/3の《丹下健三自邸》の木造模型、実寸で再現された《待庵》(室内に入ることもでき、想像以上に暗い空間だった)、そしてライゾマによる日本のモジュールを題材としたカッコいい映像空間インスタレーションを新規に制作し、リアルな空間を体験させる仕掛けを効果的に導入していた。なお、海外も含む近現代建築をとりあげながら、歴史性に意識的だったポストモダンにやや冷たいセレクションでは? という印象を抱いた。5月26日に登壇したトークイベントにおいて、この疑問を企画者に指摘したところ、どうも出品がNGになったものがあるらしい。会場には多くの来場者が訪れており、ただ日本凄い! で終わるのではなく、この展示を契機に、建築史と理論への関心が増えれば、と思う。
2018/05/07(月)(五十嵐太郎)