artscapeレビュー

2018年07月15日号のレビュー/プレビュー

小林秀雄「中断された場所 / trace」

会期:2018/06/08~2018/07/07

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

小林秀雄は1990年代後半から2000年代にかけて、HOKARI Fine Art Galleryやツァイト・フォト・サロンでクオリティの高い作品を発表して注目された写真家である。2014年には、EMON PHOTO GALLERYでひさびさの個展「SHIELD」を開催した。今回の展示は、旧作のニュー・プリントによるものだが、あらためて彼の作品の持つ喚起力の強さを感じた。

「中断された場所」は「繋ぎ合わせたコンクリートの壁で風景の一部を覆い、隔離する」シリーズで、ゴミ捨て場や空き地のような見慣れた空間が、架空のステージに変質させられている。「trace」は林や草むらのような場所で「ストロボを均等に発光」することで、やはりテンポラリーな虚構空間を出現させる。どちらも日常性と非日常性を逆転(あるいは往還)させるという発想を、緻密なコンセプトと完璧な技術で実現しており、日本の写真家には珍しいタイプの仕事を粘り強く続けてきたことがよくわかった。

小林の作品は一部では評価が高いのだが、一般的にはほとんど知られていない。それはひとつには、彼が被写体として選んでいる場所が、地域的な特性をほとんど持っていないからだろう。茨城県在住の彼の自宅の近くの、これといった特徴のない空間を舞台に展開されていることで、例えば「ヒロシマ」や「フクシマ」といった社会的、歴史的文脈へと観客を導く回路を設定することを頑に拒否しているのだ。だが、逆にいえば「なんでもない場所」への一貫したこだわりが、彼の写真作品の真骨頂ともいえる。近作を含めて、もう少し大きな会場での展示をぜひ見てみたい作家のひとりだ。

2018/06/13(水)(飯沢耕太郎)

都美セレクション グループ展 2018
Quiet Dialogue: インビジブルな存在と私たち

会期:2018/06/09~2018/07/01

東京都美術館 ギャラリーA[東京都]

さまざまな地域、時代状況における「女性」のあり方に焦点を当て、ジェンダーを多角的に検証するグループ展。ソビエト時代から多くの女性で構成されてきたモスクワ地下鉄の監視員のポートレイト、戦前・戦中の婦人参政権運動を牽引した市川房枝、中世ヨーロッパの魔女のイメージと実際に魔女狩りの対象にされた現実の女性など、対象は多岐に渡る。とりわけ、「声の複数性」/「単線的な声への集約」という構造や、「性産業従事者」/「再生産労働従事者」という女性の労働状況をめぐる対比の点で興味深く、秀逸だったのが、本間メイと川村麻純の作品である。 本間メイの映像作品《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、性産業に従事するため、東アジアや東南アジアに人身売買された日本人女性について、フィクション/ドキュメンタリーを織り交ぜて考察する。複数の斡旋業者に売買され、各地を転々とし、梅毒にかかった女性の自伝風の語り。「異邦の地で日本語を忘れた老婦人」について報じる新聞記事。「売春と梅毒の輸出は、ヨーロッパの倫理と健康を脅かす」と懸念を語る男性の声。第二次大戦末期のインドネシアで、学校で習った日本語の歌を覚えていると語る現地の老人。複数の視点と声を織り交ぜながら、小説やオペラに描かれたセックスワーカーを含む多様な女性像を通して、「日本人女性」のイメージ形成についての検証がなされる。


本間メイ《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》2018

一方、川村麻純の映像作品《home/making》では、戦前から2018年現在に至るまでのさまざまな「家庭科」教科書の文章を、若い女性が淡々と朗読する。川村が注目するのは、「家庭科は、教科書のなかで唯一、女性が一人称で登場する科目」である点だ。「私」「私たち」は、料理、一家団欒の準備、洗濯、掃除といった家事や育児、再生産労働への従事を「女性にとって自然で、理想的な、家族に奉仕する喜ばしいもの」として語り続ける。驚くべきは、時代差をつらぬく一貫した連続性だ。ここで女性たちは、「私(たち)」という主語として語ることを与えられつつも、再生産労働に従事する者として、その仮構された主語の下に再び統合されるのだ。複数の異なる時代にまたがる教科書の文章のコラージュであるにもかかわらず、シームレスに続く朗読やループする映像は、その統合の回路の果てしなさを暗示する。だが、時折挿入される、ごく平凡な台所や洗濯場を映す映像が、「無人」であることに注意しよう。そこに存在するにもかかわらず、「インビジブル」なものとして不可視化され、空気のように透明化しているのは、いったい何か。川村の作品は、性別役割分担を内面化し、自明なものとする態度そのものについて、静かに問いかけている。


川村麻純《home/making》2018

2018/06/16(土)(高嶋慈)

岸田良子展「TARTANS」

会期:2018/06/12~2018/06/23

galerie 16[京都府]

岸田良子が2010年から手がけている「TARTANS」シリーズの第8弾。1968年に刊行された書籍『THE CLANS AND TARTANS OF SCOTLAND』に掲載されたタータンチェックの写真を元に、80号のキャンバスに拡大して描いた絵画作品である。それぞれの絵画には、「LINDSAY」「MACINTOSH」など、タータンチェックの名前がタイトルに冠されている。筆を使わずに、ペインティングナイフとマスキングテープを用いて制作されているため、遠目には均質でフラットな表面は巨大な布地を貼り付けたように見えるが、近寄って見ると、地色(赤)の上に交差する縦/横の色の帯(緑、赤褐色)が、ごく薄く盛り上がった絵具の層を形成している。編まれた織物を表面的には擬態するが、「筆触」はないものの、絵具の物質的な層の形成が「絵画であること」を宣言する。そのグリッド構造は、厳格な幾何学的抽象絵画を思わせ、モダニズム絵画の規範を擬態するかのようだ。また細部を見れば、拡大された「織り目」は「斜線の交差」として描かれ、オプ・アート的な錯視効果を生み出す。あるいは、布地の表面を「絵画」として描く、すなわち三次元の物体を二次元に変換するのではなく、二次元の平面を二次元として描くトートロジカルな態度は、ジャスパー・ジョーンズの国旗や標的を描いた絵画作品を想起させる。このように岸田の「TARTANS」シリーズは、複数の絵画史的記憶を重ね合わせつつ、「写真」(複製、コピー)、「テキスタイル」(絵画の制度から捨象された手工芸の領域)といった諸要素のミクスチャーでもって、「絵画」に(再)接合しようとしていると言えるだろう。


会場風景

また本展では、約40年前に発表された《A・B・C スター絵本》(1979)も合わせて展示された。これは、往年の映画俳優などの「スター」のブロマイドを、名前のアルファベット毎に1人選び、同じ写真で全ページを構成した1冊の「本」に仕立てた作品だ(ただし「X」の本のみ該当者がなく、白紙である)。本の写真図版を元に絵画化した「TARTANS」とは逆に、ブロマイド写真から本を制作したという反対のベクトルだが、既存の情報の収集、引用、所属する文脈からの切断、(再)秩序化、抽象(絵画)化といったプロセスに対する一貫した関心や連続性が感じられる展示構成だった。


《A・B・C スター絵本》1979

2018/06/17(日)(高嶋慈)

九条劇『ウリハラボジ』

会期:2018/06/16~2018/06/17

Books×Coffee Sol.[京都府]

浜辺ふうによるソロの演劇ユニット「九条劇」の第一回公演。在日コリアンが多く住む京都の東九条で生まれ育ち、日本人だが幼いころから朝鮮半島の文化に囲まれて暮らしてきた浜辺自身の自伝的な語りが、愚直なまでにストレートかつパワフルな一人芝居として上演された。本作の根底にあるのは、「家族」と「アイデンティティ」という大きな2つのテーマだ。タイトルの「ウリハラボジ」は、朝鮮語で「うちのおじいちゃん」という意味で、1987年に初演された同名のマダン劇(朝鮮半島の伝統的な仮面劇の要素を取り入れた演劇形式)の作品タイトルでもある。在日一世である「おじいちゃん」の語りを通して、孫が歴史と自身のルーツを知っていくという内容だ。

一方、今回の浜辺版の「ウリハラボジ」では、幼い頃から可愛がってくれた「自慢の祖父」が、「最も近しい他者」として立ちはだかる。幼少期より多文化共生教育の環境で育ち、朝鮮半島の打楽器「チャンゴ」を習い、在日コリアンが多く通う中学校で在日の歴史についての授業を受けて憤り、「正しい歴史を学んで正しい日本人になろう」と決意した正義感の強い子供だった「私」。だが、親友が高校進学を機に日本に帰化すると知り、「本名で暮らせる社会にしようと願ってたのに」とショックを受ける。民族やアイデンティティの問題について葛藤を抱えるなか、祖父が何気なく発した差別的な言葉。それは「私」の心に修復不可能な傷を残し、大好きだった祖父に隔たりを感じながら生きることになる。韓国留学を経て、祖父の介護とともに同居生活が始まるが、根本的な和解に至る対話関係を築けないまま、祖父は亡くなった。チャンゴやパンソリの披露とともに、浜辺演じる「私」がラストで一気に心情を吐露するシーンは圧巻だ。「祖父の言葉になぜあんなに傷ついたのか。友人じゃなくて、私のアイデンティティが傷つけられたんだと分かった」「チャンゴのリズム、パンソリのこぶし、朝鮮半島の文化は私の身体に染みついている」「私はこんな人間だと、大事なことを祖父に伝えられなかった。許してあげられなくてごめん」「親友に対して、彼女のアイデンティティは『在日』だと決めつけていた。何を大切にするかはその人自身が決める。他人に証明する必要はない」。

ここで、差別的な言葉を発した「祖父」=「最も近しい他者としての家族」は、内なる他者すなわち無意識に差別を内面化している存在として読むことができるだろう。そうした内に抱え込む他者とどう向き合うのか。パワフルな身体パフォーマンスの力とともに、真摯に取り組んだ浜辺の「九条劇」が、自伝的要素の強い語りの昇華を経て、これからどう深化していくのか、非常に楽しみだ。


[撮影:中山和弘]

2018/06/17(日)(高嶋慈)

ミウラカズト「とどまる matter」

会期:2018/06/13~2018/06/30

ギャラリーヨクト[東京都]

1946年生まれのミウラカズト(三浦和人)は、桑沢デザイン研究所での牛腸茂雄の同級生。1983年の牛腸の逝去後、彼の遺したネガやプリントを管理するとともに、やはり桑沢の同級生だった関口正夫と二人展「スナップショットの時間」(三鷹市市民ギャラリー、2008)を開催するなど、コンスタントに写真家としての活動を続けてきた。今回は「50年目の写真 ○いま、ここに─」と題して、東京・四谷のギャラリー ヨクトで、関口正夫との連続展を開催した。

展示作品の「とどまる matter」(30点)はデジタルカメラで撮影された新作である。ずっと銀塩のフィルム、印画紙で制作してきたミウラにとって、デジタルカメラとデジタルプリントに切り替えるのはそれほど簡単ではなかったようだ。試行錯誤の末に、オリンパスEM1にライカのレンズを付けて撮影し、ピクトラン局紙バライタに出力するというシステムがようやく確立した。都市の路上の経験を、それぞれの場所の地勢や光の状態に気を配りつつ、細やかに撮影していくスナップショットスタイルに変わりはない。だが、モノクロームの銀塩印画紙とカラーのデジタルプリントでは、自ずと見え方が違ってくる。それを微調整するために、撮影・プリントのフォーマットを3:4(6×7判や4×5判のカメラと同じ比率)に変更し、プリントの彩度をやや落とし気味に調整している。結果として、彼が銀塩プリントで鍛え上げてきたプリントのクオリティの基準を、充分クリアーできる出来栄えになっていた。

デジタルプリントが出現してから20年以上経つわけだが、いまだにその「スタンダード」が定まっているわけではない。写真家一人ひとりが自分勝手に色味や明暗のコントラストを決めているわけで、そろそろその混乱に終止符を打つべき時期が来ているのではないだろうか。ミウラの試みは、その意味でとても貴重なものといえるだろう。

2018/06/17(日)(飯沢耕太郎)

2018年07月15日号の
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