artscapeレビュー

2020年03月01日号のレビュー/プレビュー

林典子「If apricot trees begin to bloom」

会期:2020/01/06~2020/01/27

ニコンプラザ新宿 THE GALLERY[東京都]

林典子は2014年に刊行された写真集『キルギスの誘拐結婚』(日経ナショナルジオグラフィック社)の取材のため、2012-14年にかけてキルギス共和国を何度か訪れたときにナリン川流域の村々に滞在した。ナリン川はキルギス東部の天山山脈を源流とし、ウズベキスタン共和国のフェルガナ盆地まで800キロに及ぶ大河である。フェルガナ盆地からはシルダリア川と名前を変え、アラル海へと注ぐ。今回ニコンプラザ新宿 THE GALLERYで展示された新作は、2014年2月に知人の出産に立ち会ったときに、病院の窓から撮影した真冬のナリン川の写真をあらためて見直したことをきっかけに、2017年以降にキルギスを再訪して撮影した写真を集成したものだ。

「誘拐結婚」のような特定のテーマを扱った前作と違って、そこに写っているのは以前撮影した人たちと、彼らを取り巻くナリン川流域の風景である。いわば、一般的にフォト・ジャーナリズムのテーマとなる社会的な出来事の「事後」を、ゆるやかなまとまりで撮影した写真群といえる。写真家としてかかわった人たちと、その後どのようにコンタクトを取り続けるかということは、現代のフォト・ジャーナリトにとって重要な問題になりつつあるが、林も誠実にそのことを実行しているといえる。何よりも、センセーショナルな描写を注意深く避け、ナリン川の存在を軸にして、キルギスの人々の暮らしのあり方を静かに浮かび上がらせる写真の撮り方が、とてもうまくいっていた。ただ、今回の展示では、「誘拐結婚」を経験した女性たちが、その後どんな人生を送っているのかは明示されていなかった。本作は、その辺りも含めた、より大きな広がりを持つ作品として展開していく可能性を感じる。なお、本展は2月27日~3月11日にニコンプラザ大阪 THE GALLERYに巡回する。

関連レビュー

林典子『キルギスの誘拐結婚』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年08月15日号)

2020/01/24(金)(飯沢耕太郎)

乳歯『スクリーン・ベイビー#2』

会期:2020/01/24~2020/01/26

トーキョーアーツアンドスペース本郷[東京都]

乳歯は振付家・ダンサーの神村恵と美術家の津田道子のユニット。『スクリーン・ベイビー』は主に「小津安二郎の映画作品からシーンをいくつか取り上げ、登場人物の動きを振付として捉えて、分析、スコア化、再現、撮影し、それを検証」するシリーズで、2017年にSCOOLで上演された『#1』に続く今回は「TOKAS OPEN SITE 2019-2020 公募プログラム パフォーマンス部門」での上演となった。

今回は『東京物語』から「紀子泣くシーン」「片付けシーン」と『麦秋』から「朝食のシーン」がそれぞれ検証された。取り上げられた三つの場面はそれぞれ異なる形式でスコア化されており、「紀子泣く」のスコアではx軸y軸によって画面を16分割したグリッドを使い「セリフ・音」「アクション」「グリッド位置」「顔の上下方向」「体の緊張度」の五つの項目が記述されている。

観客は元となった映画の一場面の映像、配布されたスコア、神村らによる再現とそれを撮影したリアルタイムの映像の四つを見比べながら「検証」に参加する。興味深かったのは、二つの映像の間にスコアと上演が挟まることで、その都度そこにズレが生じてしまう点だ。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

ズレはいくつかの限界による。例えば記述の限界。映像に映るものすべてを記述することは(同じ映像でもないかぎり)不可能であり、スコアからは必然的に欠落する情報がある。あるいは身体の限界。映画のなかの俳優と画面外で彼女らの挙動を真似る神村たちの身体は異なっている。またあるいは反復の限界。人間は何かを完全に繰り返すことはできない(ダンサーである神村の反復の安定感は特筆に値するとはいえ)。再現はつねにいくらか失敗する。そして次元の限界。映画も元は3次元を撮影したものだが、2次元の映画が3次元の再現を経由して再び2次元の映像へ「戻って」くるとき、そこにはやはり欠落と余剰が生まれることになる。いや、これらはやはりすべて引っくるめて記述の限界であり問題なのかもしれない。

記述の限界はカット割りによってあからさまに露呈する。「片付け」と「朝食」では場面のなかで何度かカットが切り替わり、例えばあるカットで画面左側へと出て行った人物が次のカットで画面右側から登場するということが起きる。その映像を観た観客の多くは人物の一貫性を担保にカメラの視点が隣の部屋へと切り替わったことを了解する。だが、現実でそれは不可能だ。

もちろん、単に再現映像をつくるということであれば、映画と同じようにすれば(撮れば)よい。だが奇妙なことに乳歯の二人は、ひと部屋分のセットと一台のカメラで、かつリアルタイムの(つまり編集なしの)映像での再現を試みる。演者が瞬間移動することはできない。必然的にひとりの映画内人物の動きを複数の演者が担うことになる。例えばある人物が画面左側へと出ていく動きを神村が担い、直後に同じ人物が画面右側から再び登場するその動きは津田が担う、というような具合である。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

このような「再現」が「あり」なのは、まず第一に乳歯の二人が注目しているのが画面内の「意味」や「物語」ではなく「運動」だからだ。さらにここには、抽出した小津映画の場面の特性も関わってくる。カットが切り替わってもそこに映し出される空間の構造にほとんど変化がないのだ。日本家屋の特性だと言ってしまえばそれまでだが、カットが変わっても同じような空間が映し出されるようカメラが配置されていることは明らかだ。「再現」用のセットの手前(=カメラ)側には木の棒が吊るされており、それはカットが変わっても大体同じ位置に柱など縦のラインが走っているからだというのを聞いて笑ってしまった。

実は私は個人的には小津映画が苦手で、それは難しい話が展開されているわけでもないのにしばしばそこに何が映し出されているのかわからなくなってしまうからなのだが、それもこの空間の相似性が原因だったのではないか。私は映画内人物の移動、あるいは空間の移動についていけていなかったのだ。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

小津ではないが思い出したのが『スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のあるシーンだ。主人公のレイと彼女から遠く離れた場所にいる敵役のカイロ・レンとがあたかも同じ場所にいるかのように剣を交える場面。それを可能にしているのはフォースの力(超能力のようなものである)だ。カットごとに目まぐるしく切り替わる背景。遠く離れた二つの場所に同時に存在し、あるいは二つの場所を瞬時に行き来することを可能にする時空を超越した力こそがフォース=映画なのだ。

人物さえ一貫していれば背景が切り替わっても観客はそこに連続性=物語を見出し折り合いをつけることができる。それを極端なかたちでやってみせたのが『スカイウォーカーの夜明け』だ。一方で乳歯は、空間内での人物の配置を運動/構造として抽象化して取り出し、そこに一貫性の根拠を置く。「映画をダンスとして見」るとはそのことだろう。そして観客には、元となった映画、配布されたスコア、神村らによる再現とそれを撮影したリアルタイムの映像の四つがほとんど同時に手渡される。時系列はキャンセルされ、四つのメディアの比較のなかから新たな何かが立ち上がる。


公式サイト:https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2020/20200124-6966.html
神村恵:http://kamimuramegumi.info/
津田道子:http://2da.jp/

2020/01/26(日)(山﨑健太)

開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地

会期:2020/01/18~2020/03/31

アーティゾン美術館[東京都]

休館していたブリヂストン美術館が「アーティゾン美術館」に名前を変え、展示スペースも一新して再出発した。「アーティゾン」とは「アート」と「ホライゾン(地平)」をつなげた造語だが、こういう「アート+なんとか」って発想はオヤジっぽくてダサいなあ。あ、BankARTも似たようなもんか。でも、あえてブリヂストンという母体の企業名を排して「アート」を強調したのは、ブリヂストンの企業戦略かもしれない。

旧美術館は戦後まもない時期、本社ビルの建設中に石橋正二郎がニューヨークを視察したとき、MoMAに感銘を受けて急遽ビル内に美術館を入れたというエピソードを読んだことがある。そのため外観からは美術館があることがわからず、天井高も展示空間としては低いのが難点だった。つまりブリヂストン社内の美術館だったのだ。それが、ビルの建て替えで中央通に大きく新美術館のエントランスを構えて新社屋の「顔」とし、その背後に本社機能を据え、ビルの名も「ミュージアムタワー京橋」と称することで、企業よりも美術館を前面に押し出したってわけ。最近流行の「ビジネスに役立つアート」を実践したかたちだ。

美術館は23階建てビルの低層階に位置し、面積は約2倍に増床。1階の広々とした吹き抜けのエントランスを入り、3階で受付を済ませて6階から4階まで3フロアにおよぶ展示室を見ていく。4階の一部は吹き抜けになっていて、5階から見下ろすことができる。2階にはミュージアムショップ、1階にはカフェも完備。これなら気軽に立ち寄りたいところだが、残念ながらチケットは日時指定の予約制なので、気が向いたときに立ち寄れるわけではない。

開館記念展は「見えてくる光景 コレクションの現在地」で、2800点ものコレクションから選りすぐった約200点を、「アートをひろげる」「アートをさぐる」の2部に分けて公開。第1部は、セザンヌ《サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》、ルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》といったおなじみの印象派絵画に始まり、フォーヴィスム、キュビスム、アンフォルメル、抽象表現主義、具体、草間彌生あたりまでほぼ時代順に並べている。印象的だったのは、ピカソの《腕を組んですわるサルタンバンク》とマティスの《縞ジャケット》のあいだに、関根正二の《子供》が置かれていたこと。いずれも100年ほど前に描かれた人物像で、ピカソとマティスはさらりと描いているのに、関根は色彩こそ明るいけどなにかどんよりと重苦しい空気が覆っている。ピカソとマティスはともに40代の脂ののった時期だが、関根はその半分にも満たない年齢だったことを思うと感慨深い。

第2部は、さらに「装飾」「古典」「原始」「異界」「聖俗」「記録」「幸福」に分け、シュメールやエジプトの彫刻から、明の景徳鎮、江戸期の洛中洛外図屏風、レンブラント、モロー、ゴーガン、青木繁、岸田劉生、そしてアボリジニのエミリー・カーメ・イングワリィまで幅広く紹介している。余計なお世話だけど、国公立の総合美術館じゃないんだから、時代やジャンルをもう少し絞ってコレクションしたほうが色をはっきり打ち出せるんじゃない?

2020/01/30(木)(村田真)

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香港の不自由展

会期:2020/01/27~2021/02/15

ギャラリーQ[東京都]

昨年、世界を騒がせた香港の民主化デモも、今年に入って新型コロナウイルス騒動でめっきり報道されなくなってしまったが、別に終息したわけではない。最近は、感染拡大を招いた中国政府を批判する学者たちが当局によって拘束されているが、それに対する抗議デモが起こっているという。しかしデモに加わってスクラムでも組もうものなら、すぐに感染しちゃいそうだ。そうか、新型ウイルスは香港のデモを鎮静化するために当局が開発した生物兵器だったのかもしれない。ウソです。

ギャラリーQでは、香港のデモの経過を時系列に沿って紹介しつつ、デモ参加者による絵画、彫刻、ポスターなどを展示している。目玉は、ヘルメットを被り、ガスマスクをつけた民主主義を象徴する頭像。白ヘルを被って出てきたノリのいいギャラリーオーナー、上田雄三氏によると、これは香港の学生たちが制作し、山の上まで運んで据えつけたものの、当局によってすぐに破壊された全身像の頭部だそうだ。その一部始終を映像でも見せている。ほかにもドラクロワやマグリットのパロディなど、複製ながら興味深い「革命画」が並んでいる。



[筆者撮影]


2020/01/30(木)(村田真)

太陽の塔

太陽の塔[大阪府]

大阪日帰りの旅。あべのハルカスの「カラヴァッジョ展」が目的だが、ついでに(というには反対方向にある)太陽の塔を見に行ったら、予約なしでも内部を見られるというので入ってみた。万博が開かれた当時、関西に住んでいたので3回も足を運んだけど、ものすごく混んでて塔のなかには入れなかったからな。これはラッキー!

いまでこそ太陽の塔は広大な万博記念公園にポツンとぼっちしているが、当時はお祭り広場を覆う丹下健三設計の大屋根をぶち抜くようにオッ建っていた。それだけでなく、広場の地下展示場からエスカレーターで塔内を昇り、大屋根に抜ける「テーマ館」の展示施設および通路の役割も担っていたのだ。内部には高さ41メートルの「生命の樹」がそびえ、アメーバから人類まで進化の過程をエスカレーターに乗りながら見る仕掛けだったという。万博終了後はほかのパビリオンと同じくこの塔も撤去される予定だったが、なぜか塔だけが残され、以後半世紀近く放置されていた。

それが公開に向けて動き出すのは比較的最近のこと。2016年から塔の耐震補強工事と展示物の再生工事が行なわれ、2018年から予約制の一般公開が始まった。塔の裏から入り、「地底の太陽」(オリジナルは行方不明のため復元された)を拝んで塔の内部へ入場。エスカレーターは取り払われているので、階段を上りながら生命の樹に貼り付いている生物を進化順に見ていく。なんとなく半世紀前の時代を感じさせるのは、全体の色彩や照明がサイケ調で、アメーバや太陽虫や原始的な魚類の姿がウルトラマンに出てきそうな怪獣っぽくて、ティラノザウルスに似たトラコドン(カモノハシ恐竜)がゴジラみたいに立ち姿だからだ。あの時代、円谷プロの影響が相当なものだったことがうかがえる。

生命の樹のてっぺんはチンパンジーからネアンデルタール人を経て、腰蓑姿のクロマニヨン人(これも時代を感じさせる)で終わっていて、現代人は展示されていない。たぶんこれを見に来た観客本人が「現代人」ということだろう。大屋根に続いていた腕(羽根? ひれ?)の部分のエスカレーターも取り除かれ、鉄骨構造がむき出しになっている。帰りは裏口から狭い階段を下りるだけで素っ気ない。いやーそれにしても「カラヴァッジョ展」よりおもしろかったなあ。比べるもんでもないけど。



[筆者撮影]


2020/01/31(金)(村田真)

2020年03月01日号の
artscapeレビュー