artscapeレビュー
2021年03月01日号のレビュー/プレビュー
屋根裏ハイツ『パラダイス』
会期:2021/02/05~2021/02/09
STスポット[神奈川県]
『パラダイス』(作・演出・音響:中村大地)は『私有地』(2019)に続く屋根裏ハイツの「シリーズ:加害について」の第二弾。人口減少と高齢化の結果、老人ホームのような機能も担うようになった郊外の団地を舞台に描かれる日常の風景から浮かび上がるのは、分かちがたく触れ合い溶け合うケアと加害の境界領域だ。
住民の憩いの場となっているらしき集会室。職員の高知(村岡佳奈)がいるところに住民の沢崎(瀧腰教寛)がやってくる。二人のやりとりから沢崎には認知症のような症状があるらしいことが窺われる。さらに住民の清水(和田華子)がやってくる。どうやらその朝、清水の部屋の隣に住む遠藤さんという寝たきりだった住民が入院していったらしい。遠藤の世話をしていた子の「ケイさん」は2日前から行方不明のようだ。清水が出て行ってしばらくすると高知は、昼食を食べ損ねているので食べに行きたい、その間、沢崎がここにいるつもりなら鍵をかけさせてもらいたいと言い出す。ケイのことがあったので、一部の住民には安全のため、集会室の利用の際に職員の送り迎えをつけることになった、そのことはまだ決まったばかりで周知はされていないのだが、ひとまずの暫定的な措置として、万が一のことがあるといけないので、自分がいまここを離れるにあたって鍵をかけておきたいのだ、と。沢崎は了承し、高知は昼食のために出て行く。沢崎がひとりでいる間に住民の日高(村上京央子)が集会室を訪れ、鍵がかかっていることに驚く。沢崎は事情を説明しようとするがうまく伝えられず、日高は高知を呼びに行く。戻ってきた高知の説明で日高は一応は納得するが、沢崎に改めて確認すると沢崎は鍵を閉められていたこと自体忘れてしまっている。沢崎は煙草を吸いに出ようとするが、ふと「ひとりで、行っていいの?」と高知に問いかけ、高知とともに出て行く。
集会室に鍵をかけた高知の行為はケアか加害か。日高はそれを一旦は加害だと判断し、事情を聞いてケアであったことを了解しつつ、同時に釈然としない様子でもある。事情の有無にかかわらず、行為の内実は変わらない。自由を奪う行為は加害であり、同時にケアともなり得るという現実があるだけだ。では、高知が昼食を抜けばよかったのか。しかしそれは高知に対する束縛、加害ではないだろうか。鍵をかけて昼食にいくという選択は、自他のケアを秤にかけた高知の落としどころだったはずだ。
作品の冒頭、外で遊ぶ子供たちを見た沢崎と日高は「学校無いのかな」「保育園の子かも」「先生とかいないっぽいですけど」と言葉を交わす。ふたりの「心配」もケアの一種だが、それは束縛や禁止へとエスカレートする種ともなり得る。どこまでが妥当なケアか。高知は保育園で使われる散歩用の子供を載せる台車を見る度に「ドナドナ」の歌を思い出し、運ばれる子供たちが「自由がない動物みたいに見える」のだと言う。小学校の塀と刑務所の塀の違いは何か。無用心だからと鍵のかかっていない部屋から財布と携帯を勝手に持ち出すことは犯罪か。「健康に悪いから」と煙草を禁止することはできるか。散りばめられたエピソードがケアと加害の違いを問う。その問いは老人ホームや病院といった場所をも射程に収めるものだろう。
鍵をかけて出て行った高知と鍵もかけずに出て行ったケイさん。果たしてどちらが「正しかった」のか。鍵がかかっていたら遠藤さんは人知れず亡くなっていたかもしれない。鍵のかかった集会室で沢崎は突然倒れてしまったかもしれない。沢崎が高知とのやりとりを忘れてしまったせいで、高知は何らかの責任を問われることになったかもしれない。無数の「かもしれない」と折り合いをつけ続ける作業としてしかケアはなし得ず、しかしそこにどのような「かもしれない」があり得たかを第三者が推し量ることは難しい。断罪はなおのことだ。
『とおくはちかい(reprise)』とも共通する、他者の事情を十分には知り得ないというテーゼは、本作では上演の構造としても採用され、観客にも体感されるものとなっていた。沢崎がひとりになると、集会室に保管されていたケイさんの電話に着信があり、沢崎はそれに出てしまう。沢崎はその後、およそ20分にわたりケイさんの友人の久保田(宮川紗絵)と電話越しに会話をし続けるのだが、久保田の言葉は劇場にいる観客には聞こえない部分も多い。実は、この電話越しの会話は音声のみのオンラインパフォーマンスとしてリアルタイムで公開もされており、それを聞くと(あるいは公開されている上演台本を読むと)久保田がどのような言葉を発していたかを知ることができる仕組みになっている。しかしそこにも、通話中に久保田に話しかけたはずの「同居人」の声は入っていない。「観客」が全てを知ることはできない。
『パラダイス』の最後の場面はこうだ。清水と日高が集会室で話し込んでいると沢崎が外を通りかかる。「どこいくんだろう」と気にする日高は「わたしも行ってみようかな」と言う。「沢崎さん見がてら」「何処もいかないなら、戻ってくればいいし」と二人は出て行く。
公式サイト:https://yaneuraheights.net/
『パラダイス』上演台本:https://yaneura-heights.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
関連レビュー
屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月01日号)
屋根裏ハイツ『ここは出口ではない』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月01日号)
屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年11月01日号)
2021/02/09(火)(山﨑健太)
小松浩子・立川清志楼「網膜反転侵犯」
会期:2021/02/04~2021/02/21
MEM[東京都]
面白い組み合わせの二人展だった。1969年、神奈川県出身の小松浩子は、建築資材置き場を撮影した写真をロールペーパーに大伸ばしし、それらを床や壁に貼り巡らすインスタレーション的な作品を発表して、2017年度の第43回木村伊兵衛写真賞を受賞している。1967年、茨城県生まれの立川清志楼は、やはり物質性の強い被写体を題材にした写真・映像作品をコンスタントに発表してきており、2020年度の写真新世紀展で優秀賞(オノデラユキ選)を受賞した。今回の二人展では、小松が2019年に埼玉県立近代美術館で開催された「DECODE/出来事と記録―ポスト工業化社会の美術」展の出品作「The Place, from 内部浸透現象」を、立川が動物園を撮影した映像作品の新作「第一次三カ年計画 Selected Remix」を展示していた。
資材置き場も動物園も、資本主義社会のグローバル・ネットワークから漏れ落ちたり、取り残されたりした場所といえる。そこでは均質化し、秩序づけられたエリアでは見ることができない、剥き出しのモノや自然の姿が露わになっている。小松も立川も、それらを記号化された画像としてではなく、大サイズの印画紙や映像を投影する紗幕などを使って物質性を強調して提示している。会場に入ると、小松のプリントが発する、定着液の饐えたような匂いが漂ってくるのだが、視覚だけでなく嗅覚や触覚も総動員しなければならない。映像の物質性を強く打ち出すと、ともすればその変換の手つきだけが目につく作品になりがちだが、小松と立川は動機と手法とが無理なく接続している。マンネリ化を避けることができれば、次の展開が期待できそうだ。
2021/02/11(木)(飯沢耕太郎)
丸山純子「いきて展」
会期:2021/02/04~2021/02/11
ギャルリーパリ[神奈川県]
BankARTのR16にスタジオを構える丸山の、ドイツ渡航前の個展。ギャラリーの壁に沿って簡素な棚をつくり、その上に木の枝や針金、陶片、プラスチック片などの拾いものを縄で結んだり、ワックスで固めたりしたオブジェを数十個並べている。すべて黄ばんだり褐色に変色したガラクタなのだが、こうして並べるとそれなりに価値あるものとして見えてくるから不思議だ。壁にはワックスや鉛筆で描いたドローイングがかけられ、奥のスペースにはJの字型の白い物体が鎮座している。一見、建築のマケットのようなこの物体、石鹸の塊だという。その向こうの窓の下には、丸山の代表作ともいうべきレジ袋の花が顔をのぞかせている。
ぼくが最初に見た丸山の作品は、女体をかたどったアイスキャンディだった。女体をペロペロなめて溶かしていくというキワドいもので、フェミニズムなのかアンチフェミニズムなのか判断しかねた。その後、レジ袋を再利用した花のインスタレーションで評価を得たが、そこにとどまることなく、試行錯誤しながら石鹸を使った作品を制作し続けている。以前、丸山に「なぜ石鹸か」を問うたとき、「人間に近いから」という答えが返ってきた。確かに石鹸の成分は脂肪だし、肌と親和性があるから人間に近いといえるが、でもそのときぼくが連想したのは、ナチスがユダヤ人の人体から石鹸をつくったというおぞましい蛮行だった。丸山の作品は、本人がどこまで意識しているかは別にして、つねに両義性をはらんでいる。そこがおもしろい。
今回の作品に共通しているのは、廃物を利用していること。きれいは汚い。汚いはきれいであること。そしてレジ袋の花を除くと、ヨーゼフ・ボイスを彷彿させることだ。いまはどうか知らないけれど、かつてドイツの大きな美術館に行くと、必ずといっていいほどボイスの部屋があり、古びた脂肪の塊やフェルトや得体の知れない液体の入った瓶など、それこそガラクタが無造作に並べられていたものだ。ボイスが脂肪やフェルトを使うのは、人間の生命維持に欠かせない素材だからだと聞いたことがある。丸山は知ってか知らずか、ボイスの近くにいる。彼女がドイツを選んだのか、ドイツが彼女を選んだのか。
2021/02/11(木)(村田真)
ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画
会期:2021/01/05~2021/03/21
福岡市美術館[福岡県]
ソシエテ・イルフは、高橋渡、久野久、許斐(このみ)儀一郎、田中善徳、吉崎一人、小池岩太郎、伊藤研之らによって、1930年代半ばすぎに福岡で結成され、戦時中まで活動したグループである。高橋、久野、許斐、田中、吉崎は写真愛好家だったが、小池は福岡県庁商工課に勤める工芸家で、伊藤は二科会に属する画家だった。彼らは、喫茶店や小池のアトリエなどを根城に議論を戦わせ、写真雑誌の『フォトタイムス』や『カメラアート』などに作品を発表したり、同人誌『irf 1』(1940)を刊行したりした。ちなみに「イルフ」というグループ名は「フルイ」を逆に読んだもので、そのネーミングには、シュルレアリスムやアブストラクトの理論を取り入れた、新たな写真表現=「前衛写真」に向かおうとしていた彼らの意気込みがよくあらわれている。
ソシエテ・イルフの活動を初めて本格的に紹介したのは、1987年に福岡市美術館で開催された「ソシエテ・イルフ 郷土の前衛写真家たち」だった。それから30年以上の時を経て、同じ美術館で本展が開催された。その後の研究の成果を踏まえて、ソシエテ・イルフの全貌をあらためて跡づけようとする展示は、よく編集された充実した内容のカタログ(編集・忠あゆみ、デザイン・尾中俊介)も含めてとても意義深いものとなった。何よりも見応えがあったのは、彼らが残したヴィンテージ・プリントの展示で、活動期間は短かったものの、ソシエテ・イルフが大阪、名古屋などの「前衛写真」に匹敵する、興味深い動きを展開していたことがよくわかった。中心メンバーの一人で、貝殻や薔薇の研究家でもあった久野久のクオリティの高い作品などは、それだけで一冊の写真集としてまとめることができるのではないだろうか。
ソシエテ・イルフに限らず、戦前の写真家たちの仕事には、まだその全体像が見えてこないものがたくさんある。それぞれの地域の美術館、博物館による、今後の調査・研究の成果を期待したいものだ。
2021/02/13(土)(飯沢耕太郎)
川口和之「PROSPECTS Vol.5」
会期:2021/02/05~2021/02/21
川口和之はこのところ、photographers’ galleryで「PROSPECTS」と題する連続展を開催している。当初は日本全国を対象としていたが、次第に埼玉県、栃木県、群馬県など北関東の街々に絞って撮影していったストリート・スナップ写真のシリーズだが、その第5回目にあたる今回、初めてテーマらしきものが見えてきた。といっても、始まりは偶然のきっかけだったようで、埼玉県桶川市を撮影中に土砂降りのにわか雨に遭い、そこから「雨の日」の光景にカメラを向けるようになった。今回の展示作品のほとんどは、雨中に撮影されている。結果的にその試みはとてもうまくいっており、半ば忘れられたような街並みが、湿り気を帯び、水に濡れることで鈍色の輝きを発して、どこか既視感を伴う光景に変質しているように感じた。
そのリアル感は、川口の丁寧なプリント・ワークに拠るところが大きい。使っているのは4200万画素のミラーレス一眼レフカメラなのだが、データを処理する時に画像の色味や彩度に細かく気を配っている。あえてシャープネスや透明度を落とすことで、風景の質感をリアルに定着させているのだ。デジタル・プリントも、パソコンやプリンター任せではなく、自分でコントロールすることが可能になってきている。写真の方向性によりフィットしたプリント・ワークが求められているわけで、川口の「PROSPECTS」シリーズはそのよき指針になるのではないかと思う。
なお隣接するKULA PHOTO GALLERYでは、同時期に川口の「PROSPECTS/TOKYO」展が開催された。2020年5月の非常事態宣言下のゴールデン・ウィークに、人気のない東京を撮影した印象深いシリーズである。
2021/02/16(火)(飯沢耕太郎)