artscapeレビュー
2022年05月15日号のレビュー/プレビュー
澤田華「避雷針と顛末」
会期:2022/04/02~2022/04/29
Gallery PARC[京都府]
若手作家の発表に力を入れてきたGallery PARC。コロナ禍を受け、2020年6月末に展示スペースを閉鎖し、外部での展示企画やオンラインでの作品販売などを手がけていたが、書店やギャラリー、カフェ、印刷工房が入居する複合施設「堀川新文化ビルヂング」に移転して活動再開した。移転後初となる本展では、「夏のオープンラボ:澤田華 360°の迂回」(2020年、広島市現代美術館)での発表作品《避雷針と顛末》が再構成して展示された。
印刷物や画像投稿サイトの写真のなかに「発見」した「正体不明の物体」が何であるかを検証するため、写真を引き伸ばし、輪郭線を抽出し、トリミングや解像度を変えて画像検索にかけ、3次元の物体として「復元」を試みる。だが「正解」は得られず、「誤読」の連鎖反応により、無数の近似値が増殖していく。澤田華の代表的シリーズ「Blow-up」(引き伸ばし)や「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)は、「写真の明白な意味」を脱臼させ、「写真」の持つ不可解な力を取り戻すための試みであると同時に、印刷物やモニター画面のあいだをイメージが亡霊のように漂い続ける状況を指し示す。また、画像検索やスマートフォンの音声アシスタント機能を検証プロセスに介在させ、「エラー」「誤読」の加速化を呼び込む状況を作り出すことで、私たちが日常的にデジタルデバイスで行なっている情報収集の不確かさや受動性を批評的にあぶり出す。
本展では、こうした手法や問題意識を引き継ぎつつ、検証すべき「不明瞭な何か」が、写真という視覚情報から、「澤田自身が街中で偶然耳にした言葉の断片」という、より非実体的なものに置き換わった。展示会場には、「池田 Everybodyて知ってるか」「だってあの二人手つないだりしてんもん」「なにが終わったん? 人生?」といった、澤田がメモした断片的で脈絡のない言葉が羅列されている。これらをウェブ検索や音声アシスタント機能に入力した「検証結果」が提示される(が、何の役にも立たない)。さらに、「元の会話の文脈」を想像した台本の制作を複数の他者に依頼し、俳優が演じた9本の映像が上映される。「カップルの痴話ゲンカ」「下手な漫才の練習」といったありそうなものから、「地下アイドルの追っかけが高じて、交際相手に脅迫の手紙を送ろうとしたことを友人に告白する男性」といった凝ったシチュエーションや、メモの言葉をそのまま接合した「アンドロイド2人のちぐはぐな会話」に対して、人間が「会話になってない」とツッコむシュールなものまで、差異のバリエーションが発生する。
ここで、本作が写真の検証シリーズと大きく異なるのは、「復元プロセス」を「他者の想像力」に完全に委ねている点だ。「避雷針」として出来事を呼び込んだ澤田は、落雷がもたらした「綻び」を縫合するのではなく、潜在する複数の可能態へと開き、「唯一の現実」の強固さを解体していく。「ただひとつの正しい意味」に収斂しない想像力のためのレッスンは、演劇の持つ批評的な力とも通底しているのではないだろうか。
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2022/04/08(金)(高嶋慈)
谷澤紗和子「Emotionally Sweet Mood─情緒本位な甘い気分─」
会期:2022/03/19~2022/04/09
studio J[大阪府]
「切り紙」という媒体を通して、美術史における女性作家の周縁化や規範化された女性表象に対して、どう問い直すことが可能か。切り紙による平面作品やインスタレーションを主に手がける谷澤紗和子は、本展において、高村智恵子とアンリ・マティスという、ともに病を得た晩年に切り絵を手がけた2人の作品を引用し、問題提起する。
ヒヤシンスの球根を漉き込んだ和紙に、ヒヤシンスの鉢植えの切り絵を配した《情緒本位な甘い気分》《Emotionally Sweet Mood》はともに、3点しか現存しない高村智恵子の油彩画のひとつを元にしている。タイトルは、智恵子の死後、夫の高村光太郎が綴ったエッセイ「智恵子の半生」の一文から取られている。智恵子は光太郎と出会う前の若い頃の油彩画をすべて処分したが、光太郎は実見していないそれらについて「幾分情調本位な甘い気分のものではなかったかと思われる」と憶測した。光太郎には搾取している意識はなかったかもしれないが、『智恵子抄』など「光太郎の眼を通した智恵子像」が浸透してしまっている。だが谷澤作品をよく見ると、ヒヤシンスの植木鉢に眼と口が切り抜かれており、「智恵子自身が語る言葉を聴きたい」という思いが伝わってくる。
また、晩年に精神を病んだ智恵子が手がけた「紙絵」作品をモチーフにした別の作品群では、「I am so sweet!」「NO」といった言葉が切り抜いて添えられ、他者からの一方的な規定を逆手に取り、肯定的なものとして自らの手に取り戻し、「NO」と声を上げる抵抗の身振りが示される。だが、作品を縁取るフレームをよく見ると、金具や引き戸の付いた古い木材であることに気づく。解体された家屋の廃材を再利用したものであり、「古い家制度の解体」を示すと同時に、なおも閉じ込められているようにも見え、両義的だ。
一方、マティスの晩年の切り絵作品「Blue nude」シリーズを引用した谷澤の「Pink nude」では、固有の顔貌を奪われて抽象化された裸婦に、眼と口を切り抜いて「顔」が回復されると同時に、全身にトゲのような「ムダ毛」が生えている。さらにもう一作では、マティスの切り絵に、アニメのセーラームーンの変身シーンが重ねられている。「男性キャラクターの添え物」ではなく、女の子自身が戦う姿を描いた点で画期的だった同作だが、見せ場の「変身シーン」では裸のシルエットが光り輝いたり、「10頭身の美少女」として描かれるなど、規範的なジェンダー観の強化や性的消費につながる側面も併せ持つ。谷澤の「Pink nude」は、「ブルー」に対して「ピンク」を対置する点では短絡的に映るかもしれないが、赤やピンクに加え、紫やどす黒い赤までが混ざり合った色彩は、「怒りの色」にも見える。怒りの色に全身を染め、ムダ毛=トゲで武装した彼女たちは、他者による一方的な身体の理想化や記号化、性的消費に対して戦っているのだ。
2022/04/09(土)(高嶋慈)
鎌倉の建築、「山口勝弘展 『日記』(1945-1955)に見る」展ほか
[神奈川県]
一時は存続の危機にあった坂倉準三が設計した《神奈川県立近代美術館》(1951)は、保存されることになり(1966年に建設された新館は解体)、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして2019年にリニュアルオープンし、隣にカフェも併設された。展示ケースの傾いたガラス面もそのままであり、オリジナルを尊重した改修のように思われる。現在、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と連動する長期の展示が行なわれており、小さな空間に大勢の来場者を集めていた。歴史的な資料だけではなく、過去の大河ドラマの映像も参考にして、TVセットがつくられたという美術のエピソードは興味深いが、タレントの写真が並んだり、インタラクティブな体感展示が導入された会場は、以前の状態を知っていると、あのカマキンがこんな俗な雰囲気になるのか!? と戸惑う。しかし、やはり日本初の公立近代美術館である建築を保存できたことは良かった。大河ドラマ館としては来年1月までの使用である。壊されず、残っていれば、また違う使われ方もするだろう。
同じく鶴岡八幡宮の境内に位置する近くの《鎌倉国宝館》(1928)は、器用に様式を使いこなす岡田信一郎が設計しており、外壁に校倉風のデザインをとりいれた和風だが、関東大震災直後の1928年に建設されたこともあり、鉄筋コンクリート造だ。正面は、現状の法規では許可されないであろう、すごい急階段である。ただ、入館してすぐの常設展示「鎌倉の仏像」は、仏像群をしっかりと配置した構成だ。天井を見上げて驚いたのは、寄棟屋根の姿からはまったく想像がつかない、採光のパターンである。外観からは気づかれないよう、屋根の中央部を削り、光をとりいれる筋を走らせ、うまく工夫していた(グーグル・アースで確認できる)。
さて、神奈川県立近代美術館 鎌倉別館の「山口勝弘展 『日記』(1945-1955)に見る」展は、ていねいに記録された日記から戦後まもない日本美術界の状況を切りとるものだった。科研による調査の成果でもあるようだが、考えてみると、オリジナルのカマキンが誕生した頃を振り返る企画なのだ。改めて、アメリカが啓蒙を目的に設置したCIE図書館が果たした役割や、美術、デザイン、音楽、ダンスなど、分野を横断する交流が盛んだったことがうかがえる。当時、山口が清家清や丹下健三とコラボレーションした展覧会も行なわれていたが、後者の空間構成がカッコいい。
山口勝弘展 『日記』(1945-1955)に見る
会期:2022/02/12(土)~2022/04/17(日)
会場:神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
(神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-1)
2022/04/11(月)(五十嵐太郎)
ウィリアム・ケントリッジ演出 オペラ「魔笛」
会期:2022/04/16~2022/04/24
新国立劇場[東京都]
モーツァルトのオペラ「魔笛」(1791)は、卒業論文でとりあげた18世紀の建築家ジャン・ジャック・ルクーがフリーメーソンの入会儀式の空間を構想し、ドローイングを描いていたので、個人的に強い関心をもつ作品である。ルクーは「魔笛」から影響を受けたのではなく、両作品の元ネタだった『セトスの生涯』(1731)という物語を読んでおり、いずれにも火や水の試練の場面が登場する。筆者はヨーロッパで二回、日本では勅使川原三郎が演出し、闇と光、リング群というシンプルな舞台美術に佐東利穂子らのダンスとナレーションを加えたものや、宮本亞門によるロール・プレイング・ゲーム的な世界観に変容させたものを観劇したことがあったが、今回は手描きアニメーションで知られるウィリアム・ケントリッジのバージョンということでチケットを購入した。はたしてアーティストや建築家が舞台美術を担当することはめずらしくないが、演出にまで関わるのはどういうことなのか。彼はほかにもいくつかのオペラを演出しているが、2005年の「魔笛」は最初の大規模なオペラ作品だった。
幕が上がると、手描きアニメの映像プロジェクションを多用し、想像していた以上にケントリッジらしい世界が展開されていた。さらにカメラの構造、遠近法、エジプトや古典主義の建築、かつて新古典主義のドイツ建築家カール・フリードリヒ・シンケルが「魔笛」のためにデザインした舞台美術(特に夜の女王の登場シーン)への参照、6層に及ぶレイヤーによる奥行きなどを駆使し、視覚的にとてもにぎやかである。こうした過剰な表現や西洋美術史の引用は、ピーター・グリーナウェイの映画を想起させるだろう。ともあれ、建築系にもおすすめのオペラだった。驚かされたのは、ピアノの追加である。オペラの演出では、曲そのものを改変できないが、曲と曲のあいだに新しい要素を挿入することは可能だ。もっとも、それは会話や演技だったり、ナレーションだったりで、通常、音楽はあまり加えないはずである。だが、ケントリッジの演出では、ピアノによる別の曲も追加されていた。これは専門的な演出家だと、逆にやらない、異分野だからこその大胆な演出ではないかと思えた。
2022/04/18(月)(五十嵐太郎)
青山見本帖 ショウケース展示「Paper Trip〜読む紙見本〜」
会期:2022/04/04~2022/05/06
青山見本帖[東京都]
人類史上で、紙は何のために生まれたのか。それは人が文字を記し、他者や後世に伝えるためである。つまり紙は文字を載せてこそ生きるものだ。本展を観て、そんな原点を見つめ直した。これは紙の専門商社、竹尾のショウルーム「青山見本帖」で行なわれた展示だ。タイトルに「読む紙見本」とあるとおり、文字で紙を紹介するユニークな内容だった。同社が販売する50種類の「ファインペーパー」に対し、文筆家のシラスアキコが50篇のショートストーリーを書き下ろし、それぞれの紙に印字して空間に展示するというインスタレーションが繰り広げられた。スペースデザインを手掛けたのは、シラスアキコも所属するCOLOR.である。ショートストーリーはいずれも短く、わずか2〜3文程度なので、物語のある断片を抜き出したかのような印象も受けるが、読みやすい軽やかな筆致で、独自の世界観がギュッと詰まっているので、まるで短編小説を読み終えたかのような爽やかな余韻を残す。空間に漂う紙1枚1枚に目を通しながら、そんな心地良さを味わった。
それにしても、おとぎばなしや詩、少女漫画、青春映画、SFといったさまざまな要素を持ったショートストーリーを、シラスはいったいどこから着想を得てふくらませたのだろう。解説を読むと、紙の風合い・色味・感触からだという。つるつるした紙、凹凸のある紙、透けるほど薄い紙、キラキラした紙など、確かに紙の個性はそれぞれに際立っている。色味も豊富だ。端に記された紙の名前も併せて見ると、ショートストーリーの世界観がグッと広がった。この展示は印字された紙の佇まいを見てもらうことがもともとの目的だと思うのだが、文字がその紙の個性に起因した物語になっているという二面性をはらんだ点が面白かった。
ひとつ残念だったのは、くり抜いた紙の形やレイアウトは変化に富んでいたのだが、書体だけ同一の丸ゴシック体を使用していた点だ。どうせなら、ショートストーリーに合わせたいろいろな書体を使ってみてほしかった。「読む紙見本」なのだから。しかし、そうすると煩雑な雰囲気になるといった判断で同一にしたのだろうかと想像する。
公式サイト:https://www.takeo.co.jp/news/detail/003679.html
2022/04/19(火)(杉江あこ)