artscapeレビュー

2022年05月15日号のレビュー/プレビュー

調和にむかって:ル・コルビュジエ芸術の第二次マシン・エイジ─大成建設コレクションより

会期:2022/04/09~2022/09/19

国立西洋美術館 新館1階 第1展示室[東京都]

ル・コルビュジエを語るにあたり、建築家と、彼のもうひとつの顔である画家との両側面を見る必要があるのかもしれない(とはいえ私はフリークではないので、詳しいことはあまり語れないと先に言い訳しておく)。3年前に同館で開催された展覧会「国立西洋美術館開館60周年記念 ル・コルビュジエ 絵画から建築へ─ピュリスムの時代」で、私はル・コルビュジエの初期絵画作品を一覧した。画家のオザンファンとともにピュリスムを宣言した頃の作品だ。この頃に描かれた絵画は規則的な構成といい、制御された色使いといい、非常に秩序立った印象を受けた。世界に向けてモダニズム建築を提示し、「近代建築の五原則」を提唱した機能主義者らしい絵画だったように思う。

しかし晩年には一転して、ル・コルビュジエはモダニストの信条を貫きながらも、人間の感情にもっと寄り添いながら、人間と機械、感情と合理性、そして芸術と科学の調和を目指したという。この思想の変化には、第二次世界大戦での荒廃や冷戦の脅威が影響していた。第一次マシン・エイジ(機械時代)に次ぎ、第二次マシン・エイジと呼ばれた時代精神である。本展ではル・コルビュジエの晩年の絵画と素描が紹介されており、その作風の変化が確かに見て取れた。キュビスムに似た幾何学的構図であるのは変わりないが、人間の身体や顔、開いた手、牡牛などを題材に盛り込むことで有機的な世界観を生み出していたのだ。こうした変化のなかで、ル・コルビュジエの晩年の最高傑作「ロンシャンの礼拝堂」が生まれたのかと腑に落ちた。まるでフリーハンドで描いたかのような独創的な造形をした礼拝堂は、合理的で洗練された「白い箱」を設計してきた建築家と同じ建築家が設計したとは思えないほどの変容ぶりであるからだ。

ル・コルビュジエほど先駆的な建築家であっても、時代や社会の風潮にこうも左右されるものなのかと、本展を観て改めて感じた。ということは、2022年は歴史的に見て大きな転換期となるのかもしれない。なぜなら世界的な疫病の蔓延に続いて、世界を二分する軍事侵攻が起こった年だからである。今後、クリエーティブの世界でどのような変化が起きるのかをとくと観察していきたい。


公式サイト:https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2022lecorbusier.html


関連レビュー

国立西洋美術館開館60周年記念 ル・コルビュジエ 絵画から建築へ──ピュリスムの時代|杉江あこ:artscapeレビュー(2019年03月01日号)

2022/04/21(木)(杉江あこ)

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ミロコマチコ展「うみまとう」

会期:2022/04/05~2022/05/23

クリエイションギャラリーG8[東京都]

とにかく、圧倒される。ミロコマチコの絵の魅力をひと言で言うなら、これに尽きるだろう。私が彼女の作品と出合ったのは、亡き愛猫との日々を描いた絵本『てつぞうはね』だった。飼い猫との逸話は、正直、何でも物語になる。世の猫好きの心を鷲掴みにしやすいからだ。しかし同書はそんなありきたりな評価に値する絵本ではなく、彼女が全身全霊で愛猫を愛した様子が伝わる力作だった。猫の生命感と彼女の有り余る愛にとにかく溢れていたのだ。絵本作家としてデビューした彼女は、その後、画家としても活躍の場を広げ、2019年には奄美大島へ拠点を移し、新たな手法で創作活動を始めていた。本展はそんな現在の彼女の作品を知ることができる貴重な機会である。


展示風景 クリエイションギャラリーG8


会場に入り、やはり圧倒された。最初の展示室では空間全体が作品だったのだ。床、壁、柱を埋め尽くすように描かれた鮮やかな生物の絵は、開催初日から5日間かけて実施されたライブペインティング作品なのだという。私が訪れた日にはすでに完成されていたが、ビニールシートが敷かれた“道”を通って空間の中に入ることができ、作品の中に身を置くことができた。その勢いある筆致を間近で見つめると、彼女の息づかいまで伝わってくるようである。このライブペインティングを記録した映像を側のモニターで見ることができたが、画面が小さくていまひとつ伝わりづらい。そう思っていたら、一番奥の展示室で新作《光のざわめき》の制作風景を大きな映像で見ることができた。これが圧巻だった。

奄美大島の森の中に大きな木製パネルを置き、彼女が絵を描いていくのだが、驚いたことに最初から最後まで筆を使わず、自身の手のひらで描いていたのだ。チューブを握り、絵の具を紙に直接塗りつけ、それを手のひらで大胆に伸ばしていく。絵の具を幾層にも塗り重ね、ときにはちぎった紙を貼り、小石を擦りつけて絵の具を掻き落とす。映像を見ているだけではいったいどんな絵に仕上がるのか想像がつかなかったが、最後には何かの四つ脚動物と鳥が太陽の光を浴びている神秘的な絵が完成した。「絵の制作過程にこそ生み出す力や創造性があることに気づいたミロコは〜」という彼女についての紹介文にとても納得する。奄美大島の環境は、全身全霊で絵に向き合う彼女の姿勢を後押ししているようだ。島の水や植物を用いて伝統的な染色方法でキャンバスを染めているというのも興味深い。奄美大島でも彼女は猫を飼っているのだろうかと想像して、ふと微笑ましくなった。


展示風景 クリエイションギャラリーG8



公式サイト:http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/2204/2204.html

2022/04/21(木)(杉江あこ)

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居留守『不快なものに触れる』

会期:2022/04/22~2022/04/24

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

小劇場THEATRE E9 KYOTO、京都舞台芸術協会、大阪現代舞台芸術協会(DIVE)の協働事業として開催されたショーケース企画「Continue 2022」。京都と大阪の若手・中堅の3団体が上演を行なった。本稿ではそのうち、居留守『不快なものに触れる』に絞って取り上げる。

演出家・山崎恭子の個人ユニットである居留守は、小説や評論など戯曲以外のテクストの引用・コラージュをベースに、インスタレーション的な舞台美術と俳優の身体表現によって演劇を立ち上げる試みを行なってきた。本公演は、2021年3月に初演された『不快なものに触れる』のリクリエーションである。筆者は初演版を実見しているが、上演テクストと舞台美術が大きく変更された。コロナ禍が始まって数カ月後の初演版では、災害時などに身体の保温や防風・防水に用いられるエマージェンシーシートという素材で「家=シェルター」が作られ、中盤以降はパフォーマーがその中からモニター越しに発話する点が大きな特徴だった。リクリエーション版では、この「家=シェルター」をなくしてシンプルに削ぎ落とすことで、「両眼のアップを映し出すスマートフォン」という仕掛けの多義性がより鮮明に浮かび上がったと思う。

冒頭、3名のパフォーマーが登場し、三脚を組み立て、両眼の高さの位置にスマートフォンをセットする。観客に向けられた液晶画面には、3名それぞれの両眼のアップが映し出される。パフォーマーはちょうど眼の位置が重なるようにスマートフォンの後ろに立って発話するため、「両眼を隠された匿名性/凝視する眼差し」という奇妙な両義性が同居する。彼らが次々に口にするのは、美容、アンチエイジング、ダイエット、英会話アプリ、ゲームアプリで副業、不安を解消し成功に導くメンタルメソッドなど、さまざまなネット広告の謳い文句だ。「ズボラ女子の私が1カ月でマイナス20kg!」「大学生に間違われる48歳、浮気を疑う夫が続出!」「今すぐ友だち登録で無料!」……。次々と広告が表示され続けるスマートフォン画面を追うようにキョロキョロとせわしなく動く眼。それは、発話主体が曖昧であるにもかかわらず、私たちに強力に注がれる消費資本主義の監視の眼差しであり、「幸福度」「他者からの承認」を競い合うSNSの相互監視網であり、「目指すべき理想像」を演じようとする仮面的自己である。同時に、上演のメタレベルでは、この「観客を見つめ返す眼」が視線の非対称性を反転させ、私たちも監視網から逃れられない存在であることを居心地悪さとともに突きつける。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


やがて発話内容は、溢れる広告やSNSに対する反省的思考へと移る。コンプレックスを刺激し自己嫌悪をあおる広告に自分の身体を明け渡してしまい、もはや身体が自分のものだと言えないこと。自分が食べたいからそのメニューを選んだのか、SNSに投稿したいから選んだのかわからなくなり、欲望をコントロールされないようにSNSの投稿を止めたこと。自己承認欲求を満たすためにSNSに書き込むのではなく、友人たちに直接会って人生の転機を伝えたいこと。パフォーマーたちは後ずさって「監視の眼=仮面的自己」から身を引き剥がし、スマートフォンに拘束された窮屈な身体を脱しようともがき、監視と支配に対する抵抗の身振りを示すが、何度も引力圏に引き戻されてしまう。



[撮影:中谷利明]


後半、パフォーマーたちが語る姿は、スマートフォンの動画撮影を介してスクリーンに入れ子状に映し出される。主体的な意志表示のためのツールに変えようという姿勢が示される一方、観客に直に向き合って言葉を届けるのではなく、スマートフォンが介在したままであり、「映像と生身の身体のズレ、分裂、多重化」を示して両義的だ。



[撮影:中谷利明]


そして、「質問回答を操作する認知バイアス」「自分の容姿の自信に対する内閣府の調査結果」についての言説を挟み、「女の子らしさ」の枠組みを押し付ける社会構造への疑問を経て、ラストシーンでは、パフォーマーそれぞれが、他者に押し付けられたものではない、「自分にとっての幸せ」を観客に対面して語る。さまざまなテクストのコラージュを経て、自分自身の言葉を取り戻そうとする道程。語り終えたあと、最後に1台残ったスマートフォンの画面をそっと消して「見開いたままの眼を閉じさせる」パフォーマーの仕草は、「消灯」とは裏腹に、小さな希求を灯すように見えた。

2022/04/23(土)(高嶋慈)

グラフィックトライアル2022 ─CHANGE─

会期:2022/04/23~2022/07/24

印刷博物館 P&Pギャラリー[東京都]

第16回を迎えた「グラフィックトライアル」。印刷表現とグラフィックデザインの可能性を追求する本展は、いつも刺激的で面白い。今回のテーマは「CHANGE」ということで、既存技術を生かした新しい表現方法をいくつも観ることができた。例えば偽造防止の観点から生まれた技術で、独自にデザインしたグラフィックを網点として使用して版をつくる「スクリーンメーカー」。窓封筒の開発から生まれた、紙の繊維に特殊な液体を含浸させて透け感を生じさせる加工法「ワックスプラス」。オフセット印刷で、光の原理を用いたホログラムの再現を試みた「オフセットホロ」。夜間の飲食店の看板などに用いられる、裏側から光を当てて印刷物を発光させる「電飾印刷」などだ。普段、我々はこれらの高度な技術をお札やパスポート、封筒、看板などの媒体であまり意識せずに目にしてきた。これらは機能が最優先されるが、機能をあまり問わない媒体に用いた際、高度な技術は別の意味を持つデザインやアートへ転用可能となる。本展を観て、それをより強く感じた。


展示風景 印刷博物館 P&Pギャラリー


「スクリーンメーカー」でオリジナルの網点をデザインすることに挑んだ、アートディレクター/グラフィックデザイナーの居山浩二のトライアルでは、最終的に340個以上にのぼる網点がデザインされた。さまざまな検証をするにあたり、網点そのもののサイズを通常より大きくし目視できるようにしていた点が面白い。通常、印刷物の網点は目で直接見ることができない。専用のルーペを通して覗き込むことで、ようやく見えてくるミクロの世界であるからだ。そのため完成されたポスター5点を観たとき、裸眼であるのにミクロ視しているという不思議な感覚を覚えた。確かに網点の形や重ね方、インキの調色や版の刷り順を変えると、受ける印象がかなり変わる。これぞ印刷らしい表現方法であると感じた。


展示風景 印刷博物館 P&Pギャラリー


また個人的に興味を引かれたのは、凸版印刷のセキュリティデザイナーである増永裕子が挑んだ「オフセットホロ」である。銀の蒸着紙にオフセット印刷だけでホログラムを再現できるという印刷技術には驚きだったが、さらにトライアルではレインボー蒸着紙とスクリーン印刷を組み合わせた場合の効果も検証していた。見る角度によって反射光や色味を感じるホログラムは、デザインやアートと相性が良いように思う。増永が発表したポスター「BORDER」では、世界地図上の緯度と経度に時差を示す印としてホログラムを使用していた。目には見えないけれど存在する時差に、ホログラムの特殊性を重ねた試みは、旅への高揚感をふんわりと誘うようで見ていて心が弾んだ。


展示風景 印刷博物館 P&Pギャラリー


公式サイト:https://www.toppan.co.jp/biz/gainfo/graphictrial/2022/


関連レビュー

グラフィックトライアル2020─Baton─|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年06月15日号)

2022/04/23(土)(杉江あこ)

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藤原歌劇団「イル・カンピエッロ」

会期:2022/04/22~2022/04/24

テアトロ・ジーリオ・ショウワ[神奈川県]

神奈川県川崎市の新百合ヶ丘駅から徒歩で約5分、松田平田設計が手がけた昭和音楽大学の《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》(2006)に足を運び(室内音響は永田音響が担当)、オペラを鑑賞した。ここは初めて訪れたホールだったが、とても良い空間だった。外観のファサードは特筆すべきことがないが、内部が昔のヨーロッパの劇場の雰囲気と似ている。歌手の声がダイレクトに伝わる約1,300席というこぢんまりとしたサイズ、そして本場の伝統を踏まえた馬蹄形による客席の配置は、上階の席であっても舞台との一体感が強い(ここまではっきりとした馬蹄形は日本に少ないように思われる)。前後左右の座席の並びも余裕がある。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場や新国立劇場のオペラパレスは、全体のサイズが大き過ぎる一方、座席は窮屈だ。またエントランスの向かいに別棟としてカフェ・レストランを設置する組み合わせも効果的だろう。残念ながら、訪問時はコロナ禍のせいか休憩時間に閉まっていたが、もしここと劇場とあいだの屋外空間が使えるならば、気持ちが良い体験になるだろう。



《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》のエントランス



《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》の客席




《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》 客席から舞台へ


さて、エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ作曲のオペラ「イル・カンピエッロ」は、初めて聴く庶民喜劇だったが、出演者の歌も巧く、素晴らしかった。1936年に初演ということは、決して革新的ではなく、音楽史に名前が刻まれにくい作品である。しかし、ガスパリーナのへんてこな発音(方言を使いこなす近代喜劇の祖、原作者のカルロ・ゴルドーニによるもの)の歌など、コミカルかつ過剰なフェッラーリの曲が楽しい。物語はヴェネツィアの「小さい広場」(タイトルはこれを意味する)とそれを囲む街並みで展開されるのだが、舞台美術のスケール感と一致していたことも興味深い。したがって、確かに、これくらいのサイズの空間だと思い出しながら、物語の世界に没入することができた。そして郷愁あふれるラストの曲「さようなら、愛しのヴェネツィア」の歌詞も気に入った。生まれ育った広場を醜い場所とは言いたくない、大好きなものこそ、美しいものといったフレーズがある。以前、筆者が上梓した景観論『美しい都市・醜い都市 現代景観論』(中公新書ラクレ、2006)とも響きあう考え方だったからだ。

2022/04/24(日)(五十嵐太郎)

2022年05月15日号の
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