artscapeレビュー

2022年06月01日号のレビュー/プレビュー

リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと

会期:2022/04/09~2022/06/05

平塚市美術館[神奈川県]

川崎市市民ミュージアムは3年前に台風で被災してから休館したままだし、横浜美術館は昨年から改修工事のため休館中だし、両市合わせて人口500万人を超すというのに、人里離れた川崎市岡本太郎美術館を除いて美術館はほぼ壊滅状態。そのため、両市を通り越して三浦半島から湘南にかけての美術館に行くことが増えた。横須賀美術館からカスヤの森現代美術館、葉山と鎌倉の神奈川県立近代美術館、茅ヶ崎市美術館、平塚市美術館まで数も多いし、中小規模ながら内容的にも充実している。今日はそのうち平塚市美と茅ヶ崎市美をハシゴ。

「リアルのゆくえ」は5年前に見た展覧会と同じタイトルなので、また同じ作品を見せるのかと訝ったが、けっこうおもしろかったのでもういちど見るのもいいか、「けずる絵、ひっかく絵」もやってるしと思い直して足を延ばした。最初は高橋由一や水野暁らの絵が並んでいるので、やっぱり同じかと思ったが、後半になると彫刻ばかりなので違う。前回はすべて絵画だったが、今回は彫刻のほうが多い。

絵画は由一の《豆腐》《なまり》《鯛(海魚図)》など静物画から始まる。地味だが、対象を凝視し「リアル」に表わすには静物がもっともふさわしいことがわかる。前回いちばん感銘を受けたのは水野暁だが、今回も粘り強く描き込んだ大作《日本の樹・二本の杉(白山神社/東吾妻町・伊勢の森/中之条町)》や、リアルを求めてアンリアルな怪物的形象に至った「Mother」シリーズを出品。遠野市に住む本田健は、以前は鉛筆による風景画ばかり制作していたが、近年は油彩で雑草をはじめ田舎の身近な風景を濃密に描き出している。これはすばらしい進化。中折れしたトイレットペーパーの芯を大画面に描いた横山奈美の《逃れられない運命を受け入れること》は、以前どこかで見て感動した覚えがあるが、今回はフロッピー、砲弾、火のついたタバコといった時代遅れのオブジェや、「Painting」と描いたネオンをモノクロに近い暗い色彩で表わしている。モチーフの選択と表現テクニックが絶妙に絡み合う。これらに共通するのは、いずれも身近なもの、日常卑近なものを描いているということだ。

リアルな絵画を高橋由一から始めたように、彫刻では松本喜三郎や安本亀八の生人形を出発点とし、西洋彫刻の洗礼を受けた高村光雲や平櫛田中を経て、現代の彫刻表現までの流れのなかに日本独自の「リアル」を探ろうとしている。例えば、古い欄間の透かし彫りを集めて再構築した小谷元彦の《消失する主体》「消失する客体」シリーズや、鋳造のための鋳型を転用して立体の凹凸を反転させた中谷ミチコの作品は、彫刻の概念からはみ出しつつそれでもまだ彫刻の範疇にとどまっている。ところが、動く彫刻の「自在置物」をつくる満田晴穂や本郷真也、「曜変天目」や鉄瓶を漆器で擬態する若宮隆志らの作品は、彫刻というより「工芸」に近い。実際、彼らの出自は鋳金や漆芸だ。さらに、色といい質感といい本物そっくりのシリコン製の義手や義指を出品した佐藤洋二は、本来の仕事である義手・義足製作をアートの域にまで高めようとしている。じつは、生人形の喜三郎は人体模型や義足製作も手がけていたというし、佐藤の祖父も菊人形師であった。ここらへんに日本の彫刻、日本のリアルの独自性がありそうだ。

関連レビュー

リアルのゆくえ──高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの|村田真:artscapeレビュー(2017年06月15日号)

2022/05/03(火)(村田真)

COLLABORATION─TRANS BOOKS×GINZA TSUTAYA BOOKS

会期:2022/04/04~2022/05/08

銀座 蔦屋書店[東京都]

TRANS BOOKS」は2017年の11月3日の開催を皮切りに、過去にイベントスペースで3回開催され、2020年からはインターネット上で「TRANS BOOKS DOWNLOADs」を開催し続けているブックイベントだ。2022年4月から5月にかけては「銀座 蔦屋書店」とのコラボレーションフェアが開催された。


「COLLABORATION─TRANS BOOKS×GINZA TSUTAYA BOOKS 銀座 蔦屋書店」(2022)


中心的な企画者はアーティスト/ディレクターの飯沢未央、ウェブデザイナーの萩原俊矢、グラフィックデザイナーの畑ユリエであり、彼らの領域が混在することで、短期的なイベントながらひとつの生態系を育んできた。それは雑駁に「2010年代後半から現在にかかる日本語圏のメディアアウェアなプレイヤーたちの祝祭」とまとめることができるだろう。企画者のオファーで集うことになった、「本」だからできることを模索してきたものたちの出版物と、ある媒体固有の表現に注力してきた者たちによる「本」の新作が、一斉に陳列される。こういったきっかけ、舞台としてTRANS BOOKSは出展者も読者も魅了してきたのである。

即売会の醍醐味のひとつにつくり手との対話があるが、TRANS BOOKSに商品個別の売り子は存在しない。開けた空間に整然と本が並ぶさまは、Village Vanguardとは真逆ともいえるし似ているともいえる。「本」の傍らには同じフォーマットのキャプションが添えられていて、内容はGoogle formで企画者から投げかけられた問いに出展者が書き送ったものだ。キャプションは同時にすべてハンドアウトに掲載されていて、「本」を手に取らず買わずとも、展覧会のように本をブラックボックスのごとく鑑賞することができる。ただし、欲しいものがあれば店員さんに会計を頼む。これがTRANS BOOKSだ。


「COLLABORATION─TRANS BOOKS×GINZA TSUTAYA BOOKS 銀座 蔦屋書店」(2022)


今回、「本」のブラックボックス化は極に達した。フラッグで「形式」を問いながら、同じデザインの箱に作家名と作品名と短い説明が書かれた本がぽつんと置かれている。箱のサイズは展示台の大きさから逆算されたかと思わしきフィット感。「箱」をいざレジカウンターに持っていくと、店員さんが名刺サイズのハンドアウトのような紙をくれ、箱はもらえない。もちろん、この強固なフォーマットは情報にだけ施され、出品作自体を抑圧するものではない。差異を顕在化させるための規格化と斉一の問い。いままでのイベントと比べれば小規模だが、TRANS BOOKSが貫いてきた姿勢が凝縮された出店だったといえる。TRANS BOOKSは問いに徹してきた。ただし、問いへの多様な答えがどこでも展開できるほどに、問いのフォーマットを洗練させてきたブックイベントなのである。


「COLLABORATION─TRANS BOOKS×GINZA TSUTAYA BOOKS 銀座 蔦屋書店」(2022)



公式サイト:https://store.tsite.jp/ginza/event/architectural-design/25208-1546330303.html

2022/05/04(水・祝)(きりとりめでる)

竹久直樹「スーサイドシート」

会期:2022/04/29~2022/05/22

デカメロン[東京都]

アーティ・ヴィアカントの《イメージ・オブジェクト》は、物理展示よりウェブサイトに掲載された作品写真の価値を高めるという転倒を起こした作品であり、ほとんどの人は記録写真しか目にすることがないなら、記録写真を作品にする方がいいという2010年代前半のイメージ論でもある。このとき、記録写真にとどまらないイメージはもうひとつのオブジェクトとして鑑賞者に提示されるのである。

展覧会「スーサイドシート」は、運転ができない作者の竹久直樹がロケでいつも車の助手席に乗るところに由来する。事故で真っ先に死ぬ席に乗るにつけてマクドナルドに寄り、帰ってはマクドナルドに寄ることが写真で、モニターではスマートフォンで写真のログを見直す様子の録画が流れる。モニターには、積み込み報告の写真、行き先のGoogleマップ、メモ用の写真。さまざまな用途の写真が流れる。たまにピンチインされる写真は、映り込んだものに対する撮影者の驚きや記憶を手繰り寄せたい様子を示す。マウスと同じサイズのミニカーは、ミニカーであると同時に「アエラスプレミアムらしきもの」であるがゆえに、あなたの背後にあるアエラスプレミアムのフロントの写真のようなものでもある。写真は死と指標性と偶発性によって語られてきたわけだが、車も竹久を死に近づける。その車の写真も実物も竹久にはいま同じに見えているのかもしれない。自作の前提となることを展示するにつけて、車を見ていたら写真は見えないし、写真をじっと見ていたらモニターも車も見えないインストール。それぞれは視界で交わることがないが、等質のものとして設置される。


「スーサイドシート」展示風景[撮影:竹久直樹]


「スーサイドシート」展示風景[撮影:竹久直樹]


《イメージ・オブジェクト》がオブジェクトよりもイメージにアウラを見出しうる時代の宣言だったなら、竹久はイメージもオブジェクトもシミュラークルも等価だ、あるいはすべては事故が起こる写真なのだと発したといえるだろう。もっと被写体と事故が選定された時代を語り得るものも今後見たい。写真の実在論としてのメメントモリ、indexの指示性と指標性、プンクトゥムとストゥディウムの往還、使用における身振り。これらとイメージ・オブジェクトを物差しにすることで、現在的な個人の写真のリアリティをさらりと示した展覧会で、面白かったです。


「スーサイドシート」展示風景[撮影:竹久直樹]



デカメロン/TOH「新宿流転芸術祭」:https://www.shinjukurutengeijutsusai.com/

2022/05/04(水・祝)(きりとりめでる)

惑星ザムザ

会期:2022/05/01~2022/05/08、2022/05/14,15

小高製本工業株式会社 跡地[東京都]

布施琳太郎がキュレーターを務め、17組のアーティストが参加する展覧会。なにより目を引くのは会場となった古いビル。製本工場だった6階建ての建物全体を使っているのだが、入り口はひとつなのに内部は大きく2つに分かれている。もともとL字型の敷地に建てられたのか、それとも斜向かいの土地に建て増したのか知らないが、この特徴的な空間をうまく活かした展示になっている。建物は坂の途中にあるため3階の入り口から入り、6階まで作品を見ながら階段を上っていき、別の階段で降りて2階、1階を見て裏口から出るという順路。ぼくが訪れたのは夜で、しかも映像作品が多いため室内は暗く、まるで迷宮巡りをしているような楽しさがあり、つい2往復してしまった。

ザムザとはいうまでもなく、カフカの小説『変身』の主人公の名前。布施のステートメントによれば、「『惑星ザムザ』はテキスト以前の物質から思考を開始する。それは芸術作品の制作の根拠を、書物的な理性ではなく、インクや愛液、紙、明滅、線、面、電気信号、塩基配列、振動、空気といったマテリアルに求めることだ。これら物質が、安定したテキストやコンテキストに到達することなく、身勝手な生命活動を開始した状況を観測することこそ『惑星ザムザ』の目的である」。いくつかの作品を見た順にピックアップしてみよう。

名もなき実昌の《いつかはきえる(記号が並ぶので省略)》は、床に砂で絵を描いて、ところどころにバナナの皮を置いたインスタレーション。見るものはその上を歩けるので、絵は会期中どんどん崩れ、変化し、消えていく。踏みつける絵というと「踏み絵」があるが、ここに描かれているのは聖像のような侵しがたいイメージではなく、壁紙に使われるような装飾パターンなので、バナナの皮を踏むより抵抗は少ない。田中勘太郎の《上書きの下のミイラ》は、工場に放置されていた印刷機械やダクトなどの廃棄物を重しにした押し花を展示。いたいけな花とそれを押しつぶす暴力的な産業廃棄物の対比は、まるで美女と野獣のようだが、お互い死にかけたものどうしのお見合いともいえる。

横手太紀の《When the cat’s away, the mice will play》は、暗い床にブルーシートに覆われたなにかがうごめく作品。なにかわからないがずっとうごめいているのだ。見逃しそうになるが、その横の暗い洗面所には《Building Flies》という作品もある。鏡に「この部屋には大量の■■■が住みついている あなたのスマートフォンにも彼らが写り込んでいるかもしれない」といった手書きの文字が、スマホの光で浮かび上がる(そのスマホにはなにかが写っている)。これはおもしろい。MESの《Stellar’s End/恒星の終り》は、宙吊りにした球体にレーザー光を当て、さまざまな記号や形態を描き出していく作品。タイトルは「恒星の終わり」だが、ゆっくり回転する宙吊りの球体は地球を連想させずにはおかない。例えば1点に当てられた光が徐々に円環状に広がり、球全体を覆っていく様子は、まるで巨大隕石が地球に衝突して衝撃波が広がるさまを想像させる。また、光はすぐに消えず、ゆっくり回転しながら残像を広げていくので、地球環境が徐々に蝕まれていくプロセスを見せつけられるようだ。どれもこの古いビルの特性を活かしたサイトスペシフィックな展示で、この社会に対する違和感や地球に対する危機感が表われている。



田中勘太郎《上書きの下のミイラ》[筆者撮影]

2022/05/04(水)(村田真)

ストレンジシード静岡2022

会期:2022/05/03~2022/05/05

駿府城公園、静岡市役所ほか[静岡県]

静岡市にある駿府城公園を中心に毎年ゴールデンウィークに開催されているストリートシアターフェスティバル「ストレンジシード静岡」(2020年のみ新型コロナウイルス感染症の影響でシルバーウィークに開催)。2016年にはじまり7年目を迎えたこの演劇祭は目の肥えた舞台芸術ファンの期待に応えつつ、同時により多くの人々に舞台芸術の門戸を開く優れた取り組みだ。

舞台芸術は鑑賞に至るまでのハードルが非常に高い。そもそもチケット代が高い(割に作品のクオリティは担保されていない)し、わざわざ劇場まで足を運ぶ労力もバカにならない。ようやく劇場に着いたと思ったら例えば2時間の上演時間のあいだ客席でじっとしていなければならず、つまらなくとも途中で席を立つことは躊躇われる(なにせ高いチケット代を払っていることだし)。最初に観た舞台作品がつまらなければ継続的に劇場に通おうという気にはならないだろう(繰り返しになるが、複数回のチャンスを与えるにはチケット代はあまりに高い)。これらの障害をクリアし、晴れて舞台芸術の観客となるためには、そもそも相当に恵まれた条件をあらかじめ備えている必要があるのだ。

ではストレンジシード静岡はどうか。チケット代は無料(投げ銭制)。市民の憩いの場となっている駿府城公園や大通りに面した市役所の大階段などが会場となっているため、公園をふらりと訪れた、あるいは街中を歩いていた市民がたまたま上演を目にする機会も多いはずだ。フェスティバルは3日間開催されているので、気になったら日を改めてじっくり訪れることもできる。上演時間は20分から45分ほど。感染症対策で鑑賞ゾーンこそ区切られているものの、上演の最中でも出入りはしやすく、鑑賞ゾーンの外から見える演目も多い。たまたま見かけて少しだけ足を止めるというかたちでも十分に鑑賞は可能だ。たいていは同時にいくつかの作品が上演されているので、これは自分には合わないなと思えばほかの作品に移動することもできる。今年の参加アーティストは19組(フェスティバルによってディレクションされた15組と公募で選ばれた4組)。演劇にダンス、サーカス、バンド、体験型など作品のジャンルも幅広く、自分の好きなジャンルをチェックすることはもちろん、普段は触れないジャンルに手を伸ばしてみることもしやすい。フェスティバルディレクターのウォーリー木下がホストを務め、参加アーティストらをゲストに招いたトークも複数回開催されていて、どういう人物が何を考えてイベントをつくっているのかを知る機会が用意されているのも大事なことだろう。公園内ではSHIZUOKA PICNIC GARDENというイベントも同時開催されていて、疲れたら休憩がてら屋台の食べ物を楽しむこともできる。五月初旬の気候も相まって、多くの人が気持ちよく舞台芸術を楽しめるイベントなのだ。

ここからは特に印象に残った作品を紹介したい。contact Gonzo『枝アンドピープル』(出演・スタッフ:contact Gonzo)はタイトルの通り参加者を枝でつないでいく体験型の作品。例えば私の左の手のひらと誰かの右肩の背中側で落下しないように枝を挟む、ということを繰り返していき、最終的にはその場にいる全員が枝でつながることになる。といっても一直線につながっていくわけではなく、ネットワーク状のつながりのなかでひとりが複数本の枝を担当することもしばしばだ。体のあちこちに枝が押しつけられ、身じろぎすればその揺れは枝を伝って全体へと伝播してしまう。枝を落とさないためにはつながった先の見知らぬ人ともコミュニケーションが必要だ。普段は使わない箇所の筋肉が疲れはじめ、30分が経つ頃には参加者に奇妙な一体感が生まれている。たまたま見て「何をやっているんだろう」と思った人が途中参加しやすいところも含めてストレンジシード静岡にぴったりの作品だった。


contact Gonzo『枝アンドピープル』


contact Gonzo『枝アンドピープル』


ままごと ソロ・ワークスによる演劇という名の展示『マイ・クローゼット・シアター』(創作・構成・空間演出:宮永琢生、創作:石倉来輝、衣装演出:瀧澤日以、空間設計:菅野信介)は展示されている衣装のなかから一着を選び、それを着てその持ち主として街を歩く作品。衣装を選ぶと目的地が記された地図とそこで読むための手紙が手渡されるが、指定された時間までに衣装を返却すればそのまま街中を歩き回ることもできる。私は81歳の老女のものであるとされるガウンのような衣装を選び、この日射しの下を歩き回るのは81歳にはきついだろうな、などと思いながらいくつかの演目を観て回った。普段の自分なら絶対に着ないであろう服で街を歩くのはそれだけでも楽しい。目的地として指定された小学校について手紙を開くと、意外なことにそれはいまは亡き老女から孫へと宛てられたものだった。老女を想像しながら街を歩いた私の時間が亡き祖母に思いを馳せる孫のそれと重なる。演劇的にも優れた一編だ。


ままごと ソロ・ワークス『マイ・クローゼット・シアター』


ままごと ソロ・ワークス『マイ・クローゼット・シアター』


夕暮れ社 弱男ユニット『トゥーウィメンオンザ土嚢』(脚本・演出:村上慎太郎、出演:稲森明日香・向井咲絵、スタッフ:小澤風馬)は発展途上国で土嚢袋を使って道路を修復するボランティアに従事する女性と、彼女の仕事からアイデアを得てアート作品をつくろうとするちょっと軽薄なアーティストの二人による関西弁の掛け合い。大量の土嚢袋が空中を飛び交うなかでいまここから遠く離れた世界の問題や二人のいる世界の違い、価値観の違いなどが浮かび上がる。ボランティアが扱う現実の土嚢の重さとアーティストの扱う想像上の土嚢の軽さ。最終的にアーティストの彼女は現地を訪れボランティアを体験し、現実の土嚢の重さを知る。だが、その土嚢に重さを与えているのが私たち観客の想像力であることは言うまでもない。初めて見た劇団だったが、宙を舞う無数の土嚢袋というキャッチーなビジュアルを入り口に観客の意識を社会的な問題へと接続する手つきが見事。


夕暮れ社 弱男ユニット『トゥーウィメンオンザ土嚢』


夕暮れ社 弱男ユニット『トゥーウィメンオンザ土嚢』


ほかにも子供向けの体裁を取りつつ直球の新作を見せてくれた範宙遊泳〈シリーズ おとなもこどもも〉『かぐや姫のつづき』や、市役所の建物をダイナミックに(?)使ったコトリ会議『そして誰もいなくなったから風と共に去りぬ』もよかった。この規模での開催はどこでもできることではないだろうが、ストレンジシード静岡は間違いなく、舞台芸術を社会とどのように接続するのかということについてひとつの際立ったモデルケースを示している。来年度以降の開催も楽しみに待ちたい。


範宙遊泳〈シリーズ おとなもこどもも〉『かぐや姫のつづき』


コトリ会議『そして誰もいなくなったから風と共に去りぬ』



ストレンジシード静岡2022:https://www.strangeseed.info/

2022/05/05(木・祝)(山﨑健太)

2022年06月01日号の
artscapeレビュー