artscapeレビュー

2023年02月01日号のレビュー/プレビュー

試展─白州模写 「アートキャンプ白州」とは何だったのか

会期:2022/10/29~2023/01/15

市原湖畔美術館[千葉県]

1988年から山梨県白州町で開かれてきた「白州・夏・フェスティバル」(その後「アートキャンプ白州」「ダンス白州」と改称)の野外美術展を振り返る展覧会。いまでこそ全国各地で芸術祭が行なわれ、野外美術展も珍しくなくなったが、1980〜1990年代はまだ少なく、地方では静岡県の「浜松野外美術展」、岡山県の「牛窓国際芸術祭」、福岡県の「ミュージアム・シティ・天神」が開かれていた程度。なかでも「白州・夏・フェスティバル」が始まった80年代後半はバブル景気の真っ最中であり、また竹下内閣が「ふるさと創生」として全国の市区町村に1億円をバラまくなど、地域振興が盛んになり始めた時期。にもかかわらず、白州はよくも悪くも企業や自治体に頼ることなく、アーティストが手弁当で参加していたのが印象的だった。そう、これは村おこし町づくりのための芸術祭ではなく、美術作品が吹きっさらしの野外空間に耐えられるかどうかを試す、アーティストによるアーティストのための芸術祭だったと思う。

ただぼくは、この夏フェスはダンサーの田中泯が中心にいたこともあって、パフォーミングアーツがメインで、野外美術展は付け足しみたいなもんだと思っていた。実際、夏のフェスティバルの期間中は舞踏や音楽の公演がメインだったが、そもそものきっかけは美術だと今回初めて知った。カタログによれば、1988年にアーティストの剣持和夫が白州を訪れ、東京で制作した作品を移設。これを見て田中が旧知のアーティスト榎倉康二、高山登、原口典之らに声をかけ、次々に野外作品が設置されることになり、その夏にフェスティバルをやろうということになったというのだ。つまり美術が突破口になってパフォーミングアーツが続いたというわけ。

野外に作品を設置するにあたって田中が重視したのは、「ここでつくる」ということ。アトリエで制作したものをただ運び込むのではなく、この場所を訪れて作品プランを練り、地権者と交渉して土地の使用許可を受け、その場で制作する、つまりサイトスペシフィックな作品であれということだ。これはその場所で即興的に踊る田中の「場踊り」と同じ発想であり、その後の「大地の芸術祭」をはじめとする各地の芸術祭にも受け継がれている姿勢だ。ただ現在の芸術祭と異なるのは、白州では作品のメインテナンスには力を入れず、朽ちるに任せたこと。あくまで自然体であろうとしたのだ。こうした野外作品を「風の又三郎」と命名したのは、つい先日亡くなった高山登だという。ある日どこからか現われて、風のごとく消えてゆく……まさに白州の美術作品にふさわしいネーミングといえる。

そんな作品ばかりだから、30年余り経ってから展覧会として見せるにも現物を持ってこられないし、そもそも美術館内に移設しても意味がない。なにより榎倉も原口も高山も、プロデューサーの木幡和枝も亡くなってしまった。なので大きな作品としては、高山登の枕木によるインスタレーション、原口典之の《オイルプール》、遠藤利克の焼いた角材を組んだ彫刻などにとどめ、あとは記録写真や資料、映像などを公開することで「白州」を追体験させていた。ゲストキュレーターは、学生時代にフェスティバルにボランティアで参加した名和晃平が務め、名和のほか藤崎了一、藤元明といった白州には出していない世代の作品も展示されていたが、これは「白州」を知りたい人に誤解を与えかねないのではないか。その意味でも展覧会よりカタログのほうが資料的価値が高いと思う。



原口典之「オイルプール」とフェスティバルの記録映像 [筆者撮影]


公式サイト:https://lsm-ichihara.jp/exhibition/the_trace_of_hakushu/

2023/01/13(金)(村田真)

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兼桝綾『フェアな関係』

発行所:タバブックス

発行日:2022年11月24日


兼桝綾は屈託を書くのが巧い。思い悩む本人には申し訳ないが、あちらに行っては引き返し、そちらに行っては立ち止まり、ときに思い悩んでいること自体を思い悩むようなくよくよにはある種のグルーヴさえ感じてしまう。思い悩んでも仕方ないとわかっていても思い悩まないではいられない(そして時々爆発してしまう)登場人物の姿は切実だからこそ滑稽で愛おしい。

雑誌「仕事文脈」に掲載された短編をまとめた兼桝の第一小説集『フェアな関係』には「友情結婚からのセックスレスなのである」というキャッチーな一文からはじまる表題作とそのⅡ、Ⅲを含む9編が収録されている。

お互いに一番居心地がいいからという理由で(ほぼ)セックスなしのままに結婚した「私」と夫は結婚2年目。しないと決めて結婚したわけでもないのだしと「私」は夫を何度か誘ってみるもののあっさりと断られ、ほかに彼氏をつくることにも難色を示される。「権利だけ奪っておいて何もくれないって、フェアじゃなくない?」とブチ切れた翌朝、セックスする代わりに運動して痩せてほしいと「等価交換」を持ち出された「私」は「解き放った『フェア』が威力をまして攻撃してきたのに面食らって、そこまでしてセックスしてくれなくていい」と言うことしかできない。セックスをしたくない夫は子供は欲しいと思っていて、セックスをしたい「私」は子供は欲しくない(しかし夫はそれを知らない)というのだから事態はさらにややこしい。思い余った「私」は家族を続けるために夫には内緒で風俗まがいの「セラピー」を受けるのだが、そこでも「ただでさえこんな搾取行為をするのだから」年上で長身の自分が敵わないくらいのセラピストが相手でないと「金でケアを買うってことに、抵抗がありすぎる」と屈託は止まらないのだった。

恋愛とセックスと居心地のよさと結婚と関係を維持することは関係しつつもそれぞれに異なる問題で、本当はそれらが持つ意味合いもそれらに対する重みづけも人それぞれに違っているはずである。とどのつまり「フェアな関係」などというのはほとんど不可能なのだ。それどころか「フェア」の概念が持ち込まれた途端に親密さが損なわれかねないことは「私」が身をもって体験した通りだ。多くの人はそこをなあなあにすることで、あるいはなあなあにしていることを意識しないことで日々をやり過ごしている。だがセックスレスという大問題に直面している「私」にはそれをやり過ごすことができない。だからくよくよするしかない。

屈託とはああでもないこうでもないと思い悩むことであり、それを書くのが巧いということは一筋縄ではいかず割り切れない(つまりはああでもなくこうでもない)人間の面倒臭さを書くのが巧いということだ。「私とぬったんは親しいが、非常時に私より先に逃げることが出来るという点において、私はぬったんを憎んでいる」という、こちらもインパクトのある一文ではじまる「避難訓練」の「私」は事務センターの同僚であるぬったんの鈍さに苛々しっぱなしなのだが、それは同じ派遣社員として働く自分自身の立場の弱さへの苛立ちでもあり、だからこそ自分への叱咤=ぬったんへの連帯に転じる可能性を秘めている。「魔女の孫娘たち」で描かれる「あなた」と「彼女」の関係もこれに通じてグッとくる。

「総合出版社鶏頭社労働組合の庶務係、丸本萌香は憤った」と「走れメロス」を思わせる書き出しではじまる「冬闘紛糾」はバラエティに富んだこの短編集のなかでもやや異色。しかし表題作と並んで私がもっとも好きな作品だ。冬闘の描写の合間に挟み込まれる登場人物の紹介とそれぞれのエピソードがおかしい。たとえば、今期初めて委員長になった営業部主任の松葉は東大卒の元野球部主将。顔も良く仕事もできたがこの春に離婚してシングルファーザーになったばかり。自身が社会的少数者になったことでこれまで知らなかったことの多さを反省し云々。20ページの短編で冬闘の交渉を展開させつつ、この調子で5人分だ。組合運動の大義と(あるいは会社側の事情と)それぞれのごく個人的な事情や思惑が交渉の場に並んで混ざり合う。そこに居並ぶ人々の、なかでも組合員最年長〈ミスター組合〉亀田のなんと面倒臭くチャーミングなことか。

「東京より速く遠く」では東京への、「私より運命の人」では元カレへの、「スイミング・スクール」では父への屈託を軸に人間の面倒臭さが描かれる(いやもちろんそれだけではないのだが)。だが、作品ごとに凝らされた趣向は異なっており、違った読み味が楽しめるのもこの短編集の魅力だ。


『フェアな関係』:http://tababooks.com/books/fairnakankei

2023/01/20(金)(山﨑健太)

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』

会期:2023/01/19~2023/01/22

アトリエ春風舎[東京都]

見えないものは存在しないものではない。スーパーカジュアル公演と銘打たれた果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』(作・演出:升味加耀)は、カジュアルな地獄をカジュアルに描き出そうとする、いや、それがカジュアルに存在しているからこそこの世は地獄なのだという現実を抉り出してみせる作品だ。

果てとチークは青年団演出部に所属する升味が主宰する演劇ユニット。2019年には升味作の『害悪』が北海道戯曲賞の最終候補に選出されている。今回の「スーパーカジュアル公演」は一義的には「シンプルな作品をお安くご覧いただける機会になれば」と生まれた企画とのことで、前売り2500円で登場人物6人、60分ワンシチュエーションの会話劇が上演された。だがそこで描かれる現実は重い。


[撮影:木村恵美子]


ある中高一貫の女子校。夏休みの前日、終業式を終えた放課後の教室。ミスコン実行委員のユミ(中島有紀乃)が、実はすでに投票まで終えたミス・ミスターコンが中止になったのだと言い出す。「外見に順位をつけるのはよくない」「性自認が揺らぐ」が理由らしい。アキ(井澤佳奈)とユミが「セージニン」「なんなんそれ?」「わからん」などと話しているとノザワ(升味)は職員室に行かなきゃだったと教室を出ていく。作品の(一応の)中心に置かれているのはこのミスコンをめぐる騒動に端を発する一連の出来事だ。実行委員長のソノ(川村瑞樹)は、だったら女がロミオを演じるクラス演劇はどうなんだ、レズビアンの設定にしたらどうなるんだと改めてサキちゃん先生(Q本かよ)に抗議に行く。まーちゃん(名古屋愛)はソノの案は乱暴で当事者のことを考えているとは思えないと諌めるが、ユミは「そういう人たち」がそんな割合でいるのか、言ってくれなきゃわからないし言ってくる人はいなかったと言い募り、挙句にノザワがユッキーと付き合っていることを暴露してしまう。まーちゃんと二人きりになったノザワは自分は自分を女とも男とも思えない、性別で判断されたくないと吐露し──。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


性的マイノリティ(作中で明示されるのはアセクシャル、アロマンティック、レズビアン、ノンバイナリー)の透明化とその存在への無理解はこの作品のテーマのひとつだが、作中にはほかにも無数の「問題」が顔を出し、生徒たちのおしゃべりは次々と話題を変えていく。ミスコンの中止、専業主婦になること、出産への嫌悪感、ロミジュリ、校内に出た不審者、盗撮、ルッキズム(痩せたいと思うことと好きで痩せているわけではないこと)、演劇部の都大会での「知らないおじさん」からのコメント、大学進学、女装した露出狂(女装している人間がすべて犯罪者なわけではないということ、女もズボンを履くということ)、靴下は白でなければならないという校則(それを守っていない生徒に新しい白靴下を買ってきてまで履き替えさせる副校長)、有名な芸大の先生によるギャラリーストーカー、勤務中に生け花の時間がある銀行、隣接するビルから丸見えの屋上プール、帰国子女へのマイクロアグレッション、付き合いたいと思う気持ちがないことetc etc…。なんとここまででまだ作品の半分でしかない。


[撮影:木村恵美子]


これだけのトピックを60分のおしゃべりにまとめ上げた升味の筆と、それを上演として成立させた俳優陣の演技は特筆に値する。だが、作中にはジェンダーやセクシュアリティに関わるものを中心にあまりにも多くのトピックが詰め込まれ、それぞれの問題について丁寧に描き、あるいは深く掘り下げることはされていない。たとえばミスコンの話に物語の焦点を絞って書くという選択肢もあったはずだが、升味はそれを選ばなかった。おそらくそれは、特定の問題を選び出すという行為自体がある種の特権だからであり、現実はそういうわけにはいかないからだろう。無数の「問題」は「関ジャニで誰が好きか」といった雑談と同じ日常のレベルに存在している。ソノは性加害に否応なく直面させられる自分たちを「キモキモ変態キモリアルを日々プレイしてるJK」と表現していたのだった。男性向け恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』とは異なり、「攻略対象」を選ぶ権利はプレイヤーに与えられていない。それどころか、プレイを拒絶する権利すら与えられていない地獄こそが現実なのだ。


[撮影:木村恵美子]


作中の時間は2012年に設定されており、ガラケーが使用されていることや言及される固有名詞などから観客にもおおよその年代は把握できるようになっている。だがこの設定は作中で描かれる現実が過去のものであることを示すよりはむしろ、10年を経て変わらぬ、それどころか悪化している部分さえある現実を示すためにこそ導入されたものだろう。なぜ変わらないのか。変える以前にそもそも見えていないものがあまりに多いからだ。私に見えていない地獄はそこら中に存在し、いまこの瞬間にもその地獄を生きている人間が無数にいる。ならばせめて、可視化された地獄くらいはそのまま受け止めることからはじめたい。


果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek

2023/01/21(土)(山﨑健太)

多層世界とリアリティのよりどころ

会期:2022/12/17~2023/03/05

NTTインターコミュニケーション・センター[ICC][東京都]

たまにビデオゲームの設計はどこまでも自由に世界を構築しているかのように思える。しかしそうではない。例えば記憶容量の上限といった技術的な制約の壁はいくつも存在してきた。それを撥ね退けるために、たったひとつのドットの瞬きで風にそよぐ草木を表わす表現が生まれてきたし、ゲームを成立させるために「ここから先は行けません」「これは触れません」と操作可能な範囲について不文律のルールを設けるという慣習を生み出してきた。そんなビデオゲームにおける条件を怒涛のように詰め込んだのがハルン・ファロッキの四つの映像作品《パラレルⅠ-Ⅳ》(2012-14)だった。

この作品はNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]の企画展「イン・ア・ゲームスケープ ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我」(2019)に出展されたもので、同展には多くのマシニマ(ビデオゲームの開発を汎用化するためのゲーム用プログラムの集合体としてのゲームエンジンやプレイ動画を利用した映像)が登場した。その後もICCは企画展を中心に多くのマシニマ作品を紹介してきたのだが、2023年3月5日まで開催の「多層世界とリアリティのよりどころ」にも同系譜の作品が出展されている。

第2次世界大戦のオンライン・シューティング・ゲーム『バトルフィールドV』のプレイ映像を素材として制作された20分ほどの映像作品であるトータル・リフューザル《How to Disappear》(2020)と、ゲームエンジンや映像制作のために無償で使用できる3Dモデル(アセット)をふんだんに登場させた佐藤瞭太郎の映像作品《Interchange》(2022)の二つがそれにあたる。

《How to Disappear》は、《パラレルⅠ-Ⅳ》でも扱われた、プレイヤーがゲームのなかで移動したり活動できる範囲がどのように狭められているかということ、つまり、戦争ゲームのなかで「戦争から逃げるということができない」「戦局から離脱しようとすると謎の狙撃を受けてしまう」という、戦争ゲームの脱走不可能性に焦点を当てている。作中では『バトルフィールドV』のプレイの様子に対するナレーションとして、戦争における最重要課題がつねに、いかに兵を脱走させないように隊列を移動させつづけるかであったということが示される。処罰はもちろん、夜闇にまぎれやすい森での野営はご法度で、歩兵は騎兵に囲まれるように歩くといったコストが払われてきたというわけだ。

時代が下り、そういった組織の規律化はナポレオン戦争以降、愛国心と結びついていくようになるという。そうなると戦線からの脱走は、殺人への呵責といったことから一足飛びに棄国と結びつく。脱走兵は罵られる対象となり、帰る場所を失うのだ。

兵士は武器を持たずに陸の上で立つことができない『バトルフィールドV』と同じく、戦わないという選択肢が俎上に載らないように戦争は運営されてきたということが、ゲームで(無意識かはさておき)体現されていることが、作品を通して言外に浮かび上がってくるだろう。そして作品の後半では、1971年のベトナム戦争での脱走兵、2003年と2004年でのイラク戦争での大脱走が終戦に大きな影響を与え、「脱走兵」の意味の変化の兆しまでが描かれた。

『バトルフィールドV』での勝利が戦争を終わらせることだとしたら、「脱走」もまたその勝利方法になるのである(さらには、ベトナム戦争時に日本でも27都道府県で行なわれていた反戦運動としての「脱走米兵支援活動」もまた戦争を終わらせるという勝利に向かうものだったのだ)。ゲームが戦争を冠するとき、そこでのバトルフィールドがどれほど局所的なものを戦争化してきたのかということと、為政者による非戦闘従事者への大衆的な侮蔑の扇情と政治との結びつきという現実がそのままにバトルフィールドになっているということを考えさせられる。



How to Disappear by Total Refusal from LEMONADE FILMS on Vimeo.


この《How to Disappear》の対角線上に、佐藤瞭太郎の《Interchange》が展示されている。本作には無数のキャラクターのアセットが現われるが、いずれも言葉を発することもなければ、ナレーションも存在しない。

映像は主にひとりの兵士アセットを中心に進むのだが、兵士が派手なアクションを行なうわけではない。時たまアングルはその兵士の一人称視点と思しきものに切り替わり、兵士は静かに自分の掌を見つめてはゆっくり拳を握る。まるで、「この動作は自己の判断によるものなのか」と兵士自身が考えているようだが、感情の起伏は特になく、ただただ兵士は佇んでいる。そのまま兵士が自分で手を動かしているという自我を得るかと思いきや、兵士の目の前に現われた巨大なバニーも兵士と同じように手を動かし始めた。なんと、その兵士とバニーの動作の同期は左右反転の鏡像ではないため、兵士が左手を動かせば左手を動かすというようなシンクロを目の当たりにして、兵士は自意識を信じるに至らない。バニーはバニーで、バニーが映るモニターを見つめている(飯村隆彦が《私自身に話すこと 現象学的作用》[1978]でカメラに向かって自分自身で発話するのを聞くことで自己同一性を獲得したのちに、その映像に映る自身が他者化することのクリティカルさを思い出し、かくも複雑にキャラクターとその主体性の有無の推し量りをめぐる観賞者の視聴が発達したものだと嘆息する)。

このように、本作はアセットがキャラクターとして自己同一性を獲得するかどうかを軸に進んでいく。

とはいえ、作中で彼のほかに役務についているような兵は見つからない。ひとりでこなせるとは思えない軍隊のための労働を孤独に強いられているかのようだ。すると、彼が警備する背中を越えて、大量のアセットがコンテナから飛び出していく。兵士も含めたアセットの大脱走だ。

本作のどこか乾いたひとりの兵の自意識を巡る詩情のシーンと、コンテナから飛び出していったり、どこからともなく無数に沸いて降って炸裂するアセットのキャラクターたちの色彩豊かな饗宴の緩急は見るものを飽きさせない。しかし、なお特徴的なのは「ゲームエンジンという創造の環境」をさらけ出すような手つきだろう。

作品の途中、兵士が宙に浮き、猛スピードで森の中を回転し始める。次第にその身体が弾力と柔軟性に溢れたタイヤをシミュレートしたかのように高速道路を滑走するのだ。その変形と挙動は回転しつづける兵士に内面など存在しないと観賞者に念を押すようでもあり、これは兵士のなかにアクターがいるフル3Dの映像制作ではなく、アセットがタイヤのように回転するよう操作した軌跡でしかないというように。

さらに次のシーンでは、ほかのキャラクターも兵士と同じように高速で回転する。キャラクターは途中から回転するごとに無数のアセットに置換され続ける。兵士と同じ転がり方をするいくつものアセットもワールドも瞬時に変わっていく。このことによって、「カットが切り替わった」のではなく、「参照するアセットのリンクが切り替えられ続ける」という交換可能性が観者に突き付けられることになる。こうして、作品のなかで変化する兵士の挙動によって、観者の没入が操作されているということに気づかされると同時に、あの兵士の逡巡も無数のアセットで置換可能だということまでも観者に暗示されてしまうのだ。

佐藤の本作における置換性の射程は、アセットに関してのみ明示されていて、ゲームエンジンというものをアーキテクチャのような強固な創造の傾向を生み出すものというように扱っているわけではない。しかし、《How to Disappear》 が示すように、何が戦争から除外されているかというゲームの社会的慣習が為政者的な統治の技術と地続きになっていることを踏まえると、その慣習を受けたアセットにも、そしてその明示されていない作品の制作方法にもまた現実が貫入しているのかもしれないと思わされるものだった。

入場料は500円でした。



★──岩間優希「ヴェトナム戦争期の名古屋における脱走米兵支援活動」(『貿易風─中部大学国際関係学部論集─』第14号、2019、pp.7-20、2023年1月25日閲覧(http://elib.bliss.chubu.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=XC19000077&elmid=Body&fname=N01_014_007.pdf



公式サイト:https://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2022/viewpoints-of-reality-in-the-multi-layered-world/

2023/01/24(火)(きりとりめでる)

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Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎

会期:2023/01/18~2023/03/26

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

スフィンクスは神殿の守護者だ。スフィンクスさん、スフィンクスさん、お座りください。会場すぐにある案内と展覧会名「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」を照合するかたちだけでまず、本展を考えていこう。

入口すぐには椅子がフォーラム会場のように並んでいて、その正面にはワイドモニターで3DCGのアニメーション映像が流れている。空中に浮かんだ10個のコーヒーカップの底にアルファベットの文字が浮かんでは水で流されていく。水洗トイレのジャーッという音がして文字は消えて、また別のコーヒーカップに文字が浮かび始める。そのモニターの下には象形文字のようなアルファベットが1文字ずつ書かれたソーサ―が置かれていた。

なぜ1カ所について長々と書いてしまうかというと、椅子に座ってこの一定のテンポが延々と続く映像を17分近く見ていたからだ。ただ、映像自体がどの程度のランダム性をもっていたかまではわからない。なぜならわたしは、映像を眺めるのと同時に、耳元でボソボソとつぶやかれる音声に集中していたからだ。

椅子にはQRコードがプリントされたラミネート書類が置いてあって、スマートフォンでそれを読み込むと「LINE」のユーザーインターフェースのような画面になって、女性の声と男性の声が聞こえてくる。画面にはシークバーがあって、再生位置を操作することができた。そしてこの音声作品は17分30秒の長さであるとわかる。倍速で聴くことも可能だ。

女性の声はスマートフォンを片手にこの音声を聞いている観賞者に向けて10個のルールを語りかけ続けているのだが、もうひとりの登場人物である男性もその女性の言葉に耳を傾けているようで、ルールに対してときどき「知らないよ」「やりたくないよ」「できるかも」と短い感想を漏らしていた。わたしの気持ちを代弁するかのようで、視聴に徒労感はないが、たくさんの情報を脳内で整理していて、うっすら酸欠感を覚えた。

ルールの詳細はさておき、その語りで徐々にこの女性は観賞者を「再野生化したい」という動機を抱えながらルールを定めていること、女性とは美術館そのものであるということ、前半のルールは美術館の観賞上の注意(走らないでください、作品に手を触れないでください、マスクをしてください、作品を撮影しないでください、開場したら入れます、閉館時間には帰ってください、飲食は禁止です……)の読み替えであることがわかってくる。

端的に言って、これらはマスクの着用を促す以外は、美術館における作品保全を目的としたルールだ。ここまでくると、なぜその女性が観賞者を「再野生化」したいのかも推測できるようになってくる。

もともと「再野生化」とはアメリカの環境保全活動家であるデイヴィッド・フォアマンによる1990年頃につくられた用語であり、自然保護運動や、国立自然公園・世界自然遺産などの認定や運営において重視されてきた「自然」を再考する動向である。建築史・都市史家の松田法子はその自然公園などの運営主体によって「再野生化」に向けたアプローチへの積極性に幅があることを前提としたうえで暫定的に「生物多様性の最大化を目指して生態系(エコシステム)を安定的に活発化させる試みで、そのために生態系へ一定の人為的操作を加えたうえで、以降は自然(保護区)に対する人間の管理と介入の度合いをできる限り後退させ、人間を除くエコシステムに土地を託すような考え方と実践」と定義している★1

では、ここで文化財の保護活動を行なう美術館たる女性音声が観賞者に求める再野生化とは何だろうか。とりあえず、次のように言ってみることができるだろう。「美術(館)を自然という言葉に置き換え、美術を保全することを至上命題として、それを達成するための因子としての人間になること」が、ここでの再野生化だと。

この美術館による文化財保全の徹底は、テオドール・W・アドルノが言うところの美術館=霊廟批判との関係性について考えさせられるが、アドルノの論点はそれぞれの作品を絵画や彫刻といった形式に分類した後、展示室で一斉に見せるという野放しの作品展示への批判であり、ホワイト・キューブであると自認していそうな女性音声にその批判は当てはまらない。むしろ実直に、資本主義的に開かれた美術館へのアンチテーゼに聞こえてくる。最後の方で「葬られて土にかえることに抵抗しましょう」と女性音声は言って、モニターが掛かった壁を越えていくようにと指示がある。ふとハンドアウトを見ると、この音声や映像には名前が付けられていなかった。壁を右側から通り過ぎた。

壁の外には一般的な意味での野生化した作品が存在しているといえるだろう。ここでの野生化とは「展示し続けたらこうなりました」というような経年劣化の表象としてのモニターとプロジェクターの有様であり、衣服やスマートフォンといった文明の証を減退させるような指示であり、孤独がつくられている。17分の音声と答え合わせをするように進んでしまった。謎解き脱出ゲームのように思えてきて、楽しく過ごした。

先の「資本主義的に開かれた美術館」というのは、2017年の当時地方創生相であった山本幸三が「地方創生とは稼ぐこと」と定義したうえで、観光振興のためには「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」と言い、二条城を例に挙げて、二条城のなかでは「文化財のルールで火も水も使えない。花が生けられない、お茶もできない。そういうことが当然のように行われている」★2と発言したような、保全ありきではない観光資源としての制度化を目指すようなもののことである。本展のアトラクション性も、この山本による「なぜできないのか」という問いに対しての、なぜなんて当たり前のことを返すのではない、「美術館がしていること」というアンサーのひとつかもしれない。

というわけで展覧会名に戻ろう。スフィンクスは神殿の守護者だ。スフィンクスさん、スフィンクスさん、お座りください。わが国では博物館法の一部が改正され、地域の多様な主体との連携・協力による文化観光その他の活動を図り地域の活力の向上に取り組むことが努力義務となったいま、あなたがここに座ってくれたら。逆説的にここは、神殿ということになります。スフィンクスさん、スフィンクスさん、お座りください。そしたらあの音声がなくとも再野生化された人間で溢れかえるでしょう。

本展は1200円で観覧可能でした。



★1──松田法子「ブックガイド2:再野生化(リワイルディング)について」(『生環境構築史 第5号特集:エコロジー諸思想のはじまりといま──生環境構築史から捉え直す』、2022)2023.1.25閲覧(https://hbh.center/05-issue_04/
★2──吉川慧「山本幸三・地方創生相『学芸員はがん。一掃しないと』発言に批判相次ぐ」(『The Huffington Post』、2017.4.16)2023.1.25閲覧(https://www.huffingtonpost.jp/2017/04/16/yamamoto_n_16054370.html



公式サイト:https://www.operacity.jp/ag/exh258/

2023/01/24(火)(きりとりめでる)

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2023年02月01日号の
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