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artscapeレビュー

キリコ「2回目の愛」

2016年07月15日号

会期:2016/06/01~2016/06/12

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写真家のキリコはこれまで、会社を辞めてニートになった元夫との関係を綴った《旦那 is ニート》や、かつて売れっ子の舞妓だった祖母の思い出の写真の再構成/現在の日常生活のスナップなどによって、家族という親密な関係性のただ中に身を置きながら、写真という装置の介在によって距離を測るような試みを発表してきた。「私性」をテーマにした、ヨシダミナコとのダブル個展では、「2回目の愛」というタイトルの下、自身と祖母との関係に再び向き合っている。
キリコによれば、88歳になった祖母は、食事、着替え、排泄などの世話をキリコの母親(祖母にとっては娘)に依存しないと生きられない状態になっており、娘を「おかあさん」と呼ぶようになった。逆転した母娘関係。そこに、孫である自分が入り込めない拒絶感を感じるとともに、「肉親であるから故に、愛も憎しみも表裏一体となるなか「愛」という言葉で片付けられる程簡単なものではないことは重々承知しているが、2回目の関係にも 1 回目の時と同様に、母娘の「愛」があればと願ってしまう」(個展ステートメントより)。
わが子へ愛情を向けるように、祖母の食事や移動の介助をする母親。無防備な祖母の姿。しかしその親密な光景は、キリコ自身がその場にいてカメラで撮影したものではなく、「介護用モニター」の画面を静止画として再撮影したものだ。撮影行為の二重の介在。その二重化された隔たりは、「そこに入れない」「疎外されている」というキリコ自身の意識をむしろ如実に映し出す。また、「静止画」として切り取ることで、2人の間で交わされた会話内容や声のトーンなど、聴覚的なディティールが抜け落ちていることも、疎外感を増幅させる。黒い箱状のフレームに静止画を収め、連続したシークエンスとして繋げて見せる展示方法は、時間の流れを可視化するとともに、フレーム=枠の存在を強調し、閉じ込める檻のようにも見えてくる。
解像度の粗さ、画面に写る電波の受信サインや温度の表示は、これが「介護用の監視モニター」の画面であることを告げ、その間接性は他人のプライベートに向き合う生々しさを緩和するとともに、「カメラの機械の眼」が本質的に持つ非人称的な暴力性を露わにする。撮影主体としての人間を介さない非人称的なカメラの眼に、最も親密な関係性が映り込んでしまうということ。その無慈悲なまでの残酷さの露呈こそが、 「他人のプライベートを覗いてしまった」という後ろめたさよりも、私たちをいっそう居心地悪くさせる。
通常のドキュメンタリー写真の場合、写真家の身体は、「その場にいないもの」として予め消去され、透明な媒体として、いかに「自然なあるがまま」の被写体の姿を捉え、本質に肉薄するかが賭けられている。一方、キリコの本作においては、「写真家」である以前に、一人の個人としてその場にいることが初めから拒絶されている。キリコは、自らが撮影主体となることを手放しながら、カメラの機械の眼の暴力性やそれとの(擬似的な)同化という欺瞞に向き合っている。
逆転した母娘関係が育む「2回目の愛」は、葛藤の果てに同様の境地に至った佐野洋子の小説『シズコさん』からの引用によっても補強されている。実際に、そうした美しい瞬間は訪れたのだろう。だが、それを「母性愛」という側面から強調することは、別の問題をはらんでいる。介護を「自然な母性」として女性の労働として押し付ける圧力が浮上するからだ。
介護という問題と、(特に家庭内で行なわれる場合の)密室性、逆転した親子関係。それは親密で美しいものであると同時に、「母性愛」という言葉で語られるとき、介護労働を女性に負担させる構造の危うさが透けて見える。さらに、写真(静止画)と映像(動画)、個人の生の生々しさ/モニターを介して見るという間接性、親密な関係性と非人称的なカメラの暴力性など、重層的な問題をはらんだ展示だった。


会場風景 撮影:キリコ

2016/06/11(土)(高嶋慈)

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