artscapeレビュー
BRDG vol.5「Whole」
2018年04月15日号
会期:2018/03/16~2018/03/18
studio seedbox[京都府]
「BRDG」は、俳優・演出家の山口惠子と舞台制作者の川那辺香乃が2011年に立ち上げたユニットであり、本作は、京都という街の「ローカルな国際性」を演劇化するBRDGのシリーズ第3弾になる。
冒頭、床の上に置かれたヘッドホンから、演出と構成を手がける山口の声が流れてくる。「……海外に何らかのルーツを持つ7人の女性にインタビューを行ない、『声』を集めました。ヘッドホンから流れる声を聴いて、復唱してください」。舞台上にポツンと置かれたヘッドホンをおずおずと手に取る女優。彼女は、借り物の衣服を身に着けるように、やや居心地悪そうにヘッドホンを装着すると、聴こえてくる誰かの語りを自身の声を通して「再生」させ始める。「楽器を弾く仕草やリズムの中に、朝鮮半島の文化が身体に染みついていると感じる」と語る声。ヘッドホンを外して、その仕草を想像するように腕を動かし、自身の身体を他者の記憶にあてがうように動かす女優。声は途中でブツ切れになるが、また別の声がヘッドホンを介して次々と聴取/再生されていく。ロシア人の両親の下、日本で生まれ育ち、日本人としてのアイデンティティと見た目のギャップに悩むという声。母語の違いから、両親とは完全に理解し合えないという孤独感。あるいは、一方的に押し付けられる「ハーフ」像に対する違和感や苛立ち。戦後の京都でヤミ米を売っていたというコリアン女性や、タレントビザで来日し、ショービジネス界で働いていたフィリピン女性。1世にあたる彼女たちに対し、より若い世代の女性は、初めてフィリピンに里帰りした経験の珍しさを語る。遠い親戚に会いに、船に乗って川を下り湖へ。語る身体の上に、水泡のような光が投影され、染め上げていく。
OHPを用いて、めくるめく光と色彩が織りなすライブドローイングを行なう仙石彬人による美術が効果的だ。指紋や水面の波紋のような形象、枝分かれした川にも毛細血管にも見える細い線は、身体を微視的に精査するスコープのようでもあり、身体の内外にある無数の(境界)線を想起させる。白く光る線のもつれ合いは、読めない言語で書かれた文字の痙攣的な連なりにも、張り巡らされた鉄条網のようにも見える。そして、自分は「複雑」と思っていたが、アメリカ留学で多文化の出自が当たり前の環境に触れることで相対化されたというラストの語りでは、幾多の色彩がマーブル状に混ざり合いながら流出し、虹の光彩が花開いていく。
本作が秀逸なのは、「ドキュメンタリー」を基盤にしつつも、ヘッドホンという装置を巧みに使うことで、「声の一方的な簒奪」という暴力性を回避している点である。取材で録音した本人の声をそのまま流すのではなく、「再現」として演じるのでもなく、「ヘッドホン」という媒介を挟むことで間接性や距離感が発生し、「私のものではない誰かの声であること」が常にメタメッセージとして差し出されるのだ。それは同時に、「演劇」の原理や「俳優」の存在論的問いをも照射する。俳優とは、自分のものではない誰かの声を流し込まれる器であり、代替してしゃべる存在である。冒頭、「演出家の指示」を「絶対的な声」として流してみせた山口は、ドキュメンタリーがはらむ権力性と演劇の原理的構造の双方に対して極めて意識的である。
だが、本作は、そうした自省的な思考とともに、演劇的なある種の跳躍へと到達することに成功していた。「7人の女性へのインタビュー」と明言されてはいるものの、それぞれの語りは始まりと終わりの境界が曖昧で、聴いているうちに複数人の記憶が融解していくような感覚に陥っていく。あるいは、一人の女性が思い出すままに、若い頃、老年、あの土地、この土地でのことを語り、一人の人生の物語のようにも思われてくる。そして終盤、女優がいつの間にかヘッドホンを外して語っていることに気づいた瞬間、枷が外れたようで解放的に感じられた。流れてくる声に身を委ねていられることは、拘束や重しであるかもしれないのだ。その解放の瞬間はまた、俳優の身体を今まで通過していったいくつもの声が、体内で混ざり合い、濾過され、もう一つの別の声となって外に出された瞬間でもあった。
2018/03/16(金)(高嶋慈)