artscapeレビュー

ナオミ・リンコン・ガヤルド「ホルムアルデヒド・トリップ」

2024年02月15日号

会期:2024/01/13~2024/01/28

Gallery PARC[京都府]

クィアな想像力によって、現在も膨張し続けるグローバルな植民地主義や異性愛中心主義といった支配的な物語をどう書き換えることができるか。バラバラに分断しようとする圧力に抗しつつ、差異を抱えたものを一つに統合するのではなく、それぞれがどうポリフォニックな声を響かせることができるか。

本展は、メキシコを拠点に国際的に活躍し、クィアやデコロニアルの視点から作品制作するナオミ・リンコン・ガヤルドの日本初個展。京都精華大学によるマイノリティの権利やSOGI(性的指向や性自認)についてのアートマネジメント人材育成プログラムの一環として開催された。

本展では、約36分の映像作品《ホルムアルデヒド・トリップ》(2017)が、構成する各章ごとに分割され、7チャンネルの映像インスタレーションとして上映された。本作の出発点は、メキシコ先住民の環境活動家ベティ・カリーニョの殺害事件だ。ブリコラージュ的なコスチュームを身に付け、戦士に扮したベティ役と仲間の女性たちは、草原や畑でファイティングポーズを繰り広げる。闇のなか、何度も倒れるベティの身体。同志の女性たちは「魂を守るショール」を織り、ベティの亡骸がケアされる。亡骸は戦士たちが護衛する船に乗って川を下り、冥界に通じる洞窟では、動物のマスクをかぶった両性具有的な者たちがアンダーグラウンドなクラブのように踊り、魂の再生の儀式が行なわれる。死から再生に向かう旅の導き手が、メキシコの神話に登場する月の女神とアショロトル (メキシコサンショウウオ、通称ウーパールーパー) だ。両者はともに身体の再生能力を持つ。



[Photo: Fabiola Torres Alzaga]



[Photo: Fabiola Torres Alzaga]


7つの章は、それぞれ異なるジャンルの楽曲に彩られ、ミュージックビデオ風に仕立てられていて飽きさせない。ビョークを思わせる神秘的で力強い歌唱、ギターのノイズ、優雅で繊細なオペラ、歌謡曲やポップ・ミュージック、ラップ、ロック、へヴィメタル……。「蓄財」と題された章では、レトロなテレビゲームを模して、新自由主義という新たな植民地支配が地球規模でもたらす暴力、搾取、資源の収奪、貧困、ファシズム、人種差別の常態化が戯画化される。「元気で明るい二拍子の行進曲」にのせて、「金髪碧眼の白人男性」がマスゲームのような体操を繰り広げるが、その身体は次第に疲弊していく。

植民地主義的な欲望と支配関係を、抵抗としてのクィアな戦略によってパロディ的にズラし、書き替えを企むのが「アレックスとアショル」の章だ。メキシコの固有種であるアショロトルは、スペイン王室に援助された科学者・探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトによって18世紀に「発見」され、ホルマリン漬けの標本がヨーロッパへ送られた。映像では、ドラァグ・キング(男性装の女性パフォーマー)が演じるアレックス(フンボルト)と、作家自身が扮するアショロトルがエロティックな愛の交歓を演じる。ドイツ語で歌われるオペラの歌詞は、アショロトルを研究対象として所有し、永遠に保存したいと望むアレックスの欲望を歌い上げる。だが、実際の映像では、口パクのアレックスをアショロトルが欲望する・・・・・・・・・・・。アショロトルは、幼生期の特徴を維持したまま性的に成熟するネオテニーであり、進化論的な規範から外れた身体をもつ。「このような怪物は、動物のリストから排除されるべき」とアレックスが記述するように、アショロトルは「クィアな生物」である。本作は、オペラすなわち近代植民地主義が拡張していく時代に発展した音楽様式を用いて、「男と女の愛と破局のドラマ」というオペラにおける異性愛中心主義とヨーロッパ白人男性による支配の構造を、クィアな物語として何重にも書き換える。ドラァグが性別のコードを撹乱するように、顔をピンクに塗り潰したアショロトルは「肌の色」による差異化を撹乱する。本作は、欲望の主体を転倒させた上で、「白人男性が、女性にジェンダー化された植民地を所有する」という二重の支配構造を解体し、名づけようのない性愛のあり方へと開いていく。非欧米圏、先住民、ジェンダー、クィアといった要素が複雑に絡むインターセクショナリティの重要性がここにある。私たちが目撃するのは、その闘争の現場であり、かつ性の祝祭的な悦びの現場でもある。



[Photo: Kathrin Sonntag]


《ホルムアルデヒド・トリップ》は長尺の壮大なミュージックビデオの体裁をとるが、各章を構成する多彩な楽曲は、ジャンルとしてはバラバラで統一感はない。(各章を分割したマルチチャンネル上映は展示会場のスペース上の要請ではあったが)「調和のとれた統一」を拒絶するような姿勢は、「差異を抱えたものがどう共存できるか」というメッセージとしても受け取れた。また、ガヤルド自身の書く歌詞も詩的な魅力に富むが、その背後には、チカーナ(メキシコ系アメリカ人)・レズビアン・フェミニスト詩人・作家・文化批評家のグロリア・アンサルドゥーアの言葉が参照され、多声的な奥行きが広がる。

ホルマリン漬けの標本すなわち「凍結された過去」を解凍して現在と接続させ、土地、資源、人権に対する支配と搾取という形で現在も続く植民地主義を批判すること。規範的な性のあり方への抵抗とフェミニズム。本作はそれらの豊穣な交差点だ。扱うテーマは政治的でハイコンテクストだが、映像はポップで、脱力感あるユーモアに満ちている。だからこそ、その奥にある闘志がきらめく。「言い返せ! 書き返せ! あなたの力を取り戻せ!」。連呼されるラップのフレーズにのせ、戦士や冥界の生き物たちが踊るなか、断片化されたベティの身体は最終的にひとつになって回復する。その力強いフレーズの連呼は、見る者の魂を震わすだろう。



[撮影:麥生田兵吾]


作品自体は素晴らしかったが、作品とは別の次元の「外部」で2点気になることがあった。1点めはチラシのデザインである。カラフルな色彩、特に「ピンク」の強調、(作中のコスチュームに登場するが)「乳首」を丸く記号化して配置したデザインは、「メキシコ」と「女性性」を強調する。2点めは、展示会場の入口の壁がレインボーカラーの照明に照らされるという「演出」である。会場となったギャラリー側の判断であり、展示を盛り上げようとレインボーカラーの提案が出たこと自体は嬉しく思う。ただ、クィア性は作品の軸のひとつではあるものの、作品はそれだけにとどまらない豊かな奥行きをもっている。「LGBTQ+の作家」というわかりやすい視覚化は、作品が受容される文脈を狭めてしまうのではないか。「非欧米圏かつクィアの作家」が、日本で紹介されるとき、何重にも他者化された視線でパッケージングされてしまうことの功罪について考えさせられた。


ナオミ・リンコン・ガヤルド「ホルムアルデヒド・トリップ」: https://galleryparc.com/pages/exhibition/ex_2024/2024_0113_naomi.html

2024/01/13(土)(高嶋慈)

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