artscapeレビュー
オル太『ニッポン・イデオロギー』
2024年02月15日号
会期:2024/01/13~2024/01/14
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
終わりのない肉体労働の搾取、共同体を形成する祝祭、歴史の反復構造といった観点から、日本の近現代を象徴する舞台装置のなかで、歴史/日常の遠近感を身体的に問うパフォーマンス作品を展開してきたアーティスト集団、オル太(井上徹、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chi)。『超衆芸術 スタンドプレー』(2020)では東京オリンピックの新国立競技場の陸上トラックを、『生者のくに』(2021)では炭鉱の坑道を模した舞台空間のなか、パフォーマーたちは肉体労働に従事し、現代日本の日常的な光景の点描が連なっていく。
本作は、こうしたオル太の関心を、戦前から現在、そしてAIやロボットが労働を代替するようになる近未来までを射程に収め、全6章で描く大作である。上演時間は約6時間。
前半の1、2、3章では、会社員、女子高生、夫と妻、販売員、老婆、アナウンサーといった現代日本の匿名的なキャラクターたちの日常会話の点描のなかに、昭和天皇とマッカーサーが迷い込み、歴史の遠近を欠いた平坦な空間が展開していく。街頭の選挙演説カーも風俗求人広告カーも終戦詔書も「どこからか聞こえてくる機械越しの音声」であり、あらゆるものを等価に陳列し、脱政治化していく作用こそ政治的であることを突きつける。ミッキーマウスのカチューシャを付けたマッカーサーがセグウェイに乗って徘徊し、日本の民主化に関するGHQの指令文書を読み上げるが、彼が手にしているのは漫画本だ。「大人になれない日本人」にとって「アメリカ」とは「ディズニーランド」である。そして、(実際に1975年に訪米した)「夢の国」をひとり彷徨う昭和天皇の架空のモノローグにより、「排除」に支えられた巨大な消費のテーマパーク化に日本が覆われていく。あるいは、コロナ下の「自粛太り」解消のため、コンニャクダイエットが流行し、不足するコンニャクの増産が急がれているというニュースは、戦時下の工場で「風船爆弾」の制作に従事する若い女性たちや、無茶な増産を上官に命じられる軍人にスライドしていく。
パフォーマーたちの衣装には「菊の紋」「制服(軍隊/女子高生)」「高級ブランドロゴ」といった記号が張り付いているが、シーンの交替とともに次々と複数の役を担当することで、むしろ記号の表層性が強調される。発声の抑揚や身ぶり、表情は単調に抑えられ、出番外の者たちの身体はだらしなく寝そべり、モノのようにただ転がる。「ニッポンの空虚な退屈さ」を退屈な手法でひたすら並列化していく──ここには、いかにスペクタクルを回避するかという戦略が掛けられている。
一方、4、5、6章では、ロボットの労働や外国人が増加する「未来」への投射が「過去」へと接続され、沖縄と韓国に焦点が当てられる。そこに「フクシマ」「靖国」が絡み合う。排外意識や偏見は空気のように舞台空間に浸透している。親しみを込めたつもりで老婆に「ヨボさん」と呼びかけられた韓国人女性が示す拒絶(韓国語で「ヨボセヨ」は「もしもし」を意味する)。「外国人観光客があんまり増えてほしくない」という「本音」。平和教育とは戦時中に殺処分された『かわいそうなぞう』であると答える加害の忘却。福島に来たけど、刺身は食べないようにしようと言う夫婦の会話。「女はナメられるから田舎に住みたくない」と言う妻に対して、「そんなことないよ」と否定する夫には見えていない性差別。そうした無意識の断片に散りばめられているからこそ見えにくい、「コミュニケーション」に埋め込まれた権力構造や日常のなかの微妙な政治性をオル太は丁寧に拾い集めていく。一方、「大文字の政治」は徹底して戯画化される。「原発処理水の放出」はピノキオの人形の「放尿」として表現され、戦前のアジアの地図に向けて日の丸と菊のダーツが投げられる。
過去作品でもパフォーマーたちは、競技場のレールの上でトレーニングマシンを押して周回させ続けるといった労働に従事していたが、本作でも、パフォーマーを乗せた座席や段ボール箱を人力で押して運ぶ労働が基底をなす。そこには、戦前に結婚して朝鮮半島に渡った日本人女性が、終戦後に日本国籍が剥奪されたため、「荷物」の扱いで返還されたというエピソードが重なり、モノとして扱う人権意識が示される。自動開閉する透明なドアは、満員電車のドアであり、出入国管理のゲートであり、偏在する透明な境界線となる。
アーティストが「自主規制」してしまう、いや私たちが普段「政治的な話題だから」と口に出すのをはばかるトピックを、オル太は躊躇うことなく、これでもかと舞台にのせていく。「内面化された検閲」もまた、ニッポンを構成する見えにくいイデオロギーだからだ。
6時間という長さの必要性が伝わってくる舞台。同時に上演時間の長さは、身体のモードが「本気でやっているわけではないメタ演技」に常に拘束・回収されてしまうというジレンマやアポリアを感じさせた。過去作品と同様、本作にもオル太メンバーに加え、俳優やダンサーが出演する。ただ、右翼やレイシストの発言は「本気で言っているわけではない」という体栽が必要であり、無邪気に踊られるダンスは、(例えば「建国体操」のように)「素人の身体」が国家によって集団的に規律化されていく事態を示す必要がある。あるいは、「覇気のないシュプレヒコール」は、主体的な意志を欠いた集団感染的な不気味さとして示される。そのため、舞台上には、「〜を演じているモード」か、ゾンビのように不活性で弛緩した身体が提示される。
このことがアポリアを超えて両義性を感じさせたのが、終盤で流れる「君が代」のシーンである。だらりと頭を垂れた無言の身体が柱のように突っ立つ。そこではもはや、意志を奪われ絶望的に下を向いているのか、敬虔に頭を垂れているのか、区別不可能だからだ。
オル太『ニッポン・イデオロギー』:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/108622/
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