artscapeレビュー

シルエットファミリー展

2024年02月15日号

会期:2024/01/18~2024/01/21

大阪府立江之子島文化芸術創造センター[enoco][大阪府]

日本で出産・子育てを行なっている性的マイノリティを「家族写真」として可視化する写真展。性的マイノリティの出産や子育てを支援している一般社団法人こどまっぷが企画し、アーティストの澄毅が撮影と作品制作を行なった。写真展は、大阪公立大学による「EJ(Equity&Justice)芸術祭」の一部として開催された。「こどまっぷ」代表理事の長村さと子自身が女性パートナーと育てている子どもをはじめ、10組の家族写真と親から子へ宛てた手紙の文章、映像作品が展示された。



シルエットファミリー展 会場風景


澄毅は、主にポートレート写真に無数の穴や波打つ線のようなスリット(切れ込み)を開け、光を透した写真作品を手がけてきた。プリントアウトした写真に穴を開け、裏側から光を当てて再撮影する手法は、写真が物質的な媒体に依存することと同時に、「光の痕跡」を見ていることにほかならぬことを示す。それは、ロラン・バルトが『明るい部屋』で述べた写真論──「それはかつてあった」という写真の本質は、ほかの表象=再現の体系とは異なり、対象から発せられた光が感光性物質によって直接固定されることで保証される──と接続される。



《hikari》[© Takeshi Sumi]


同時に澄の作品は、写真と「光」をめぐるさまざまな両義性をはらむ。写真すなわち光学的装置によるイメージの複製であると同時に、「光を透す」ことで唯一性が刻印されること。被写体から放射され、発光しているかのような「光」は、「光によって像が焼き付けられた」という実在性の保証であると同時に、強い逆光を浴びたかのように顔が隠され、イメージは光の中に溶解していく。それは、「写真を見ること」が、「あたかもある星から遅れてやって来る光のように、私に触れにやって来る」という被写体との紐帯の回復作業であると同時に、記憶の空白や欠落、忘却をも示唆する。

こうした「光」の両義性を、写真論の範疇を越えて改めて意識させたのが、李琴峰の小説『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房、2020)の表紙に澄の作品が使用されたことだった。李の小説は、新宿二丁目にあるレズビアンバー「ポラリス」に集う客や店主を7つの連作短編の主人公に据え、レズビアン、バイセクシュアル、トランス女性のレズビアン、アセクシュアルなどさまざまなセクシュアリティや国籍をもつ女性たちを描く群像劇である。連作短編の巧みな構造を通して、各編の主人公たちの語りが星座のように連なり、その光がポラリス(北極星)のようにいまだ暗い闇夜を照らす指針となる──そのような読後感を抱く小説だ。そして、暗い影になった女性の頭部から、光の粒がこぼれ落ちる澄の写真はこう語りかける──これは光であり、同時に傷である。内側に抱えた傷だが、そこから光がこぼれ出し、照らすのだ、と。

一方、近年の澄は、写真に光の軌跡のような刺繍を施す作品も発表している。本展では、写真に光を透す手法は映像作品として実験的に発表され、プリントに糸で刺繍を施した写真作品10点がメインの展示となった。子どもを抱いて桜を見上げる男性カップルや、子どもと並ぶ女性カップルなど、ありふれた記念撮影的な構図だが、(数人の親を除き)顔や表情は光や星をかたどった刺繍で覆われ、見えない。だが、それぞれの親による文章が添えられ、子どもをもつことを決めた経緯や心境、パートナーと子どもへの愛情が綴られている。



《空にいる君と一緒にみている》[© Takeshi Sumi]



《小さかった君におんぶされた日》[© Takeshi Sumi]


刺繍が選択された最大の理由には、プライバシーの問題がある。「顔を出せない」という社会からの抑圧を、モザイクをかけるのではなく、被写体自身が不快に感じないようなやり方で、どう可視化し、表現として昇華できるか。写真の刺繍は、子どもから光が発したり、親と子を包み込むように施され、視覚的にポジティブなメッセージを放つ。同時にそこには、「いつか糸をほどくことができる未来になってほしい」という願いも込められている。

性的マイノリティのポートレートのなかでも、「子どもも含めて家族を撮影したもの」は少ない。日本は同性婚が法的に認められていない国であり、出産・子育てしている性的マイノリティの存在はほぼ不可視化されている。本展で取り上げられたのは10組だが、「性的マイノリティの家族」と一言で言っても、多様なあり方が示されている。レズビアンカップル、ゲイカップル、トランス男性とその女性パートナー、Xジェンダー(男女のいずれにも属さない、もしくは流動的な性自認)の親と子ども、片方が外国籍のカップル……。海外の精子バンクを利用して出産した女性は、子どもが「ハーフ?」とよく聞かれることを綴り、複合的な差別構造を示す。

光や星をかたどった刺繍は、一見ポジティブに見えるが、画面に近づくと、(光を透して再撮影した写真作品が「一枚の滑らかな表面」であることとは対照的に)、「糸」のもつ触覚性や物質的な抵抗感を感じる。それは社会的な抑圧の物質化でもある。従って、問われるべきは、「なぜ、 彼らが顔を隠している ・・・・・・・・・・ のか」という被写体の側の問題ではなく、「なぜ、彼らの顔が 私たち観客には見えない ・・・・・・・・・・・ のか」という問いであり、問いが向けられる主語の宛先の方向転換である。


★──ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房、1985、p.100。

公式サイト:https://eandjart.jp/program/107

2024/01/20(土)(高嶋慈)

2024年02月15日号の
artscapeレビュー