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マリリン・ストラザーン編『監査文化の人類学──アカウンタビリティ、倫理、学術界』

2024年02月15日号

翻訳:丹羽充+谷憲一+上村淳志+坂田敦志

発行所:水声社

発行日:2023/01/10

ここ数年、マイナンバーカードやインボイス制度の導入によって、事務仕事の総量が格段に増えたと感じる読者は少なくないだろう。かく言うわたしも、自分のマイナンバーカードを何枚もコピーして業者から送られてくる台紙に貼ったり、研究費で物品を買うのにいちいち適格証明書を添付したりする作業を繰り返しながら、これだけの時間があればどれほど生産的な仕事ができただろう、とため息をつくことが少なくない。数年前に「ブルシット・ジョブ」という言葉が広く世の関心を集めた背景にも、そうした──ほとんど無駄ではないかと思われる──事務仕事への苛立ちがあったのではないだろうか(デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』酒井隆史ほか訳、岩波書店、2020)。

さて、そうした仕事を実際に軽んじてよいかどうかはともかく、以上のようなペーパーワークの増大の背後に現代社会の構造的な問題がひそんでいるのではないか、という直観を抱くことはそう難しくない。本書がタイトルに掲げる「監査文化(audit culture)」という言葉は、こうした問題を考えるさいの格好の切り口であると思われる。

マリリン・ストラザーン(1941-)といえば、おもにパプアニューギニアをフィールドとし、同時にイギリスにおける生殖医療についての著書もある社会人類学者である。そのストラザーンが編者を務める本書は、文字通り「監査文化」を対象とする、12人の人類学者たちによる大部の論集である。

そもそも「監査」とは、その規模や種類を問わず、もともと財務管理のための用語である。だがその一方、本書の共著者たちも指摘するように、1980年頃を境に、この言葉は従前よりもはるかに広く用いられ、なおかつ複数の文脈へと広がっていった(例えば第2章「威圧的なアカウンタビリティ──高等教育内における監査文化の興隆」などを参照のこと)。とりわけ本書の関心は、この監査文化がいかにして高等教育に浸透し、従来の教育のあり方を変えていったかという点にある。その意味で、編者ストラザーンもみとめるように、本書の問題意識は、大学教員でもある著者たちの経験に支えられたものである(23頁)。

ここで、「監査」という言葉が今ひとつしっくりこない読者には、やはり本書のキーワードのひとつである「アカウンタビリティ(accountability)」について考えてもらってもよいかもしれない。しばしば「説明責任」などと訳されるこの単語は、ここ数十年、日本語のなかでも格段に存在感を増してきた。企業や団体が高い「アカウンタビリティ」を示すためには、人事や決裁を始めとするプロセスをできるかぎり透明なものにし、なおかつそれに関わる文書を適切に作成・管理することが不可欠となる。本書のねらいを評者なりに要約するなら、それはこうした「監査文化」が営利活動のみならず、高等教育や非営利活動などのさまざまなセクターに浸透していった背後にある社会的な変化を──人類学的に──記述することにある。

ストラザーンの「あとがき」が示唆するように、こうした社会的変化の核心にあるのが、監査・政策・倫理からなる「三者連携体」であろう(385-389頁)。これはおそらく直観的に共有される感覚だと思うが、基本的に「監査」を奨励するのは大小さまざまな「政策」であり、なおかつそこでしばしば持ち出されるのが「倫理」という言葉だからである。ようするにわれわれの社会は、国家的な「政策」によって高い「倫理」意識を要請されたエージェントが「監査」文化に順応し、能うかぎり高いアカウンタビリティを示すという一連のプロセスのなかにある(なお、これと直接的な関係はないが、近年のSDGsに絡めた「エシカル消費」という言葉に含まれる「倫理的 ethical」という言葉のニュアンスも想起しほしい)。

本書『監査文化の人類学』は専門家むけの学術書だが、以上のような問題意識を共有する読者にとっても、おそらく何かしら益するところがあるに違いない。たとえ専門家でなくとも、IMF(国際通貨基金)を始めとする諸機関の実地調査から、われわれは多くを学ぶことができる。少なくともそれは──実のところグレーバーの意図に反して──おのれの気に入らない仕事を「ブルシット・ジョブ」と呼んで蔑むよりも、はるかに批評的な姿勢だと言えるだろう。

2024/02/08(木)(星野太)

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