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阿部公彦『事務に踊る人々』

2024年02月15日号

発行所:講談社

発行日:2023/09/19

タイトルからは想像しづらいかもしれないが、本書はれっきとした文芸批評である。しかも「事務」という、世間的にはもっとも「文学」から遠いと思われている営みから出発して、文学に新たな光を投げかける野心的な試みである。著者・阿部公彦(1966-)のよき読者からすれば、これまで「凝視」「即興」「スローモーション」といった主題をテーマに古今東西の文学を論じてきた著者が、今度は「事務」という前代未聞のテーマに取り組んだ──そのような感慨とともに本書を紐解くだろう。

とはいえ本書には、不要に肩肘張ったところはまったくない。出だしからしてユーモラスだ。著者は「本書を通し、現代の社会で不当に軽視され、嫌がられ、時には蔑まれさえしてきた事務の営みについて、再考したい」という(2頁)。かといって、著者は事務をただ賛美するのでもない。本書をつらぬくひとつのテーゼがあるとすれば、それはわれわれが事務を疎んじつつも、どこかで事務の魅惑に取り憑かれてきた、ということである。こうした事務をめぐる愛憎は、近代以降、大なり小なり事務仕事に関わらざるをえなくなった人々にひろく共有されてきたものだろう。想像してみてほしいのだが、あなたがたとえ事務職についていなくとも、公私にわたるさまざまな事務手続きなしに社会生活を送ることなど、ほとんど不可能である。その意味で、本書の想定読者はすべての現代人であると言っても過言ではない。

夏目漱石の事務的な思考、事務仕事とも深く関わる「注意」という主題、トマス・ハーディの記録癖、チャールズ・ディケンズの事務に対する呪詛……などなど、本書の話題はきわめて多岐にわたる。文芸誌『群像』での連載ということもあってか、時には小川洋子や西村賢太といった現代作家の作品論が顔をのぞかせたりもする(とりわけ三島由紀夫とその父・梓の関係を軸とする終盤の展開はスリリングである)。「事務」という言葉の懐の広さにも助けられながら、本書はまさに書名のごとく、さまざまな話題を踊るような足取りで踏破する。

基本的に、事務仕事というのはごくありふれたものであるがゆえに、つまるところそれは何なのかと問う機会は稀である。かといって「事務仕事の本質とは……」と大上段に構えるのも、どこか滑稽な印象を免れない。ひるがえって本書は「事務(仕事)」を「文学」の問題として捉えることで、この対象に批判的に接近することを可能にした。わたしが真に批評的な営みだと思うのは、まさしくこうした類の仕事である。

2024/02/05(月)(星野太)

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