artscapeレビュー
2024年02月15日号のレビュー/プレビュー
捩子ぴじん『ストリーム』
会期:2023/12/13~2023/12/15
若葉町ウォーフ[神奈川県]
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。捩子ぴじん『ストリーム』を観ながら『方丈記』の冒頭を思い浮かべていたのは、タイトルからの連想だけが理由ではない。neji&co.名義のコロナ三部作(『Sign』『Cue』『Out』)のスピンオフとして制作されたこの作品には、コロナ禍を過ごす捩子の生活や新型コロナウイルスを巡る諸々など、(作中で明示されるものとしては)2020年から2022年当時の出来事が痕跡として刻み込まれている。いまとはまったく異なるものとして流れていたはずの時間はしかし、やがて現在へと流れ込む同じ流れなのだ。2023年3月の京都での初演から6、7月の東京での上演、そして私が今回立ち会った12月の横浜での上演。上演の現在は『ストリーム』に刻まれた時間から少しずつ遠ざかっていく。
ここから先では作品の具体的内容に触れることになるが、『ストリーム』東京公演の記録映像はVimeoで無料配信(ストリーミング!)されている。読み進める前にぜひそちらをご覧いただきたい。
『ストリーム』の上演は過去を上演の現在に改めて呼び込むものとしてあり、そのことは冒頭からはっきりと示されている。捩子が紙に書いていく文字を音響を担当するmizutamaが読み上げるかたちで上演前の諸注意が行なわれるのだ。文字はリアルタイムで書かれ、そして読み上げられていくが、声は必ず遅れて発せられ届けられる。声と同時に届くのは、少し先に読み上げられることになる文字を書きつけるペン先の音だけだ。書きつけられ過去となった文字は読み上げられることで再び現在へと合流し、そこに少し先の未来を走るペン先の音が並走する。その後も、『ストリーム』の言葉の多くは上演台本を読み上げるかたちで、あるいは録音した声を再生したものとして発せられる。複数の時間の流れが現在において束ねられる。
まず語られるのはある日の捩子の起床の場面だ。夢から覚め、妻子を起こさぬよう布団を抜け出し、隣室で鳴っているスマートホンのアラームを止める。スヌーズと1週間後の天気予報、2匹の飼い猫、排泄、沸かした湯の冷めていく茶碗。いくつもの時間の流れが並行して走る朝。語る声はやがてマイクを介して増幅されたものになり、録音されたものになり、そして再びマイク、捩子自身の声へと戻っていく。
ユニークなのは、語りのところどころでその内容とは関係なく照明が明るくなったり暗くなったりし、その度に捩子が「まぶしー」「くらーい」と朗読を中断する点だ。内容に集中しているかぎりにおいて過去と現在とのズレが意識されることはないが、語りの中断は観客の意識を現在へと引き戻す。朗読の中断が文字を読むという行為を成立させるための条件である光量の変化によるものなのだからなおさらだ。ここにさらにバリエーションが加わる。暗闇に一瞬の閃光。それを受けて捩子が発する「ピカッ、ゴロゴロゴロ」という言葉はこれが雷であることを示し、するとそれまでは上演が行なわれている空間の物理的な条件に過ぎなかった光量の変化も自然のそれに引きつけて見ることができるだろう。日は巡り時は流れる。
呼応するように次の場面では「2020年1月6日/中国武漢で原因不明の肺炎」にはじまるコロナ禍のタイムラインが語られていく。コロナ禍における主に日本の出来事が録音された声で語られる合間に肉声で語られる捩子自身の身に起きた個人的な出来事。京都市のゴミ収集の仕事をはじめたこと、給付金の申請、入籍、証券口座の開設、ワクチン接種、妻の妊娠、子の誕生、新型コロナウイルスへの感染等々。やがて語りは人間の意識と時間、生と死を巡る思索へと展開していき、ゴミ収集の仕事で目撃したという蛆、つまり蝿の子が無数にたかるゴミ袋を経由して子を育てはじめた捩子自身の日々についてのそれへと合流するだろう。
そうして訪れる最後の場面は忘れがたい。子を高い高いするかのようにゴミ袋を空中へと投げ出す捩子。床へと落下するたび、ゴミ袋からはヘドロ状のものがこぼれ落ちていく。そこに重ねられる言葉はこうだ。「依ちゃん、ウクライナに生まれてこなくてよかったね」。捩子の父のものだというその言葉は繰り返されるうちにすぐさま「ウクライナに生まれてこなくてよかったね」「生まれてこなくてよかったね」と変化していく。これを祝福と呼ぶべきだろうか。そして辿り着く「よかったね」とそれに応じる「よかったね」という捩子自身の言葉にはしかし、どこか突き抜けた肯定の響きを感じもしたのだった。
このレビューが公開される2月15日(木)から北千住のBUoYでneji&co.「コロナリポート」としてコロナ三部作が上演される。15・16日は『Cue』の、17日は『Sign』『Out』の上演となる。『ストリーム』で使用されたテキストは『Out』の一部としても使用されているらしい。
neji&co.:http://nejiandco.com/
『ストリーム』記録映像:https://vimeo.com/908223743
2023/12/13(水)(山﨑健太)
20歳の国『長い正月』
会期:2023/12/29~2024/01/08
こまばアゴラ劇場[東京都]
光陰矢の如し。気づけば一年が経っている。一方に去年と大して変わらぬ新年があり、一方にあまりに大きな変化とともに迎える新年がある。いずれにせよ一年という時間だけは確実に流れていて、その繰り返しで重ねる年月の先には老いが、そして死が待っている。時間は残酷なまでに公平に流れ続ける。
2023年の年末から年明けにかけて上演された20歳の国『長い正月』(作・演出:石崎竜史)の物語はちょうど百年前、関東大震災が起きた1923年の大晦日にはじまる。ソーントン・ワイルダーの一幕劇『長いクリスマス・ディナー』の構造を借りたこの作品は、木村家の居間を舞台とする百年の歳月を100分の上演時間に圧縮して観客の目の前に展開してみせるものだ。単純計算で1分で1年。とはいえもちろん早回しで百年を演じるわけではなく、ある年の大晦日がシームレスに次の年の、あるいは数年先の大晦日へと移り変わるようなかたちで舞台上の時間は進行していく。場面転換と言えるものは一幕と二幕のあいだの一度きり。いまが何年であるかが舞台上に示されるわけでもない。ゆえに、例えば観客は、関東大震災が3年前の出来事として言及されてはじめて、「いま」がもはや1923年ではないことを、あれから3年もの年月が経過していることを知ることになる。文字通り、気づかぬうちに年月は過ぎ去っていくのだ。
そうして過ぎゆく年月のうちには当然、死もあれば新たな生命の誕生もある。舞台上手からの登場が誕生を、下手からの退場が死を意味しているのも『長いクリスマス・ディナー』を踏まえた趣向だ。木村家は1876年生まれのトミ(Q本かよ)を最年長にその息子・博(熊野晋也)と妻・ふく(菊池夏野)、その長男・勝一(埜本幸良)と長女・寿美(田尻祥子)、勝一の妻・園子(櫻井成美)、勝一夫妻の長女・智恵(Q本)と長男・健太(熊野)、そして智恵とその夫・里見の娘である2000年生まれのひかる(菊池)と百年のうちに五世代をまたぎ、隣家で代々神職を務める田崎家もトミと同級の宮司、その息子で博の幼馴染の克也(藤木陽一)、その養子・春彦(山川恭平)、そして春彦の孫の清春(藤木)と同じだけの世代をまたぐだろう。
トミの死、勝一・寿美の誕生、そして博の死。それぞれの人生において大きな意味をもつはずの出来事もこの舞台においては次々と観客の前を通り過ぎていく。どうやら博は戦時中に亡くなったらしい。そう、戦争である。恐ろしいことに、気づいたときには日本は戦争へと突入していたのだった。気づいたときには、というのは観客である私の体感だが、それが登場人物たちの、当時を生きた人々の実感ではないと、あるいは2024年の現在と無関係なものだと果たして言い切れるだろうか。気づけば時間が経ってしまっているのは平時だけではない。
いずれにせよ、時間の経過は決して取り返しのつかないものだ。ゆえにしばしば人は選ばなかった人生へのifを抱えたまま生きることになり、ときにそれは苦い後悔へと転じることになる。もしあのときああしていたら/していなかったら。選ばなかった人生が実現することはもちろんない。だが、取り返しのつかない出来事もやがてほかの出来事と同じように過去のものとなっていくだろう。時間は残酷で優しい。だから、後悔があるならば生きているうちに行動し、そこから先の未来を変えていくしかない。いや、そんなことは知っているはずだ。それでも時間があると思っているうちに取り返しがつかなくなってしまうのが人間である。誰もが大なり小なり取り返しのつかない後悔を抱えて生きている。だからこそ、息子・健太との関係の修復を望みながらも「まだ遅くない」と繰り返すうちにそれを果たさず亡くなってしまう勝一の姿が胸に迫るのだ。
『長い正月』の締めくくりには、舞台上で演じられた百年の出来事を振り返る走馬灯のようなシーンが用意されている。そこに紛れ込むようにして束の間浮かび上がるのは、父と息子を含めた家族四人がともにマリオカートに興じる場面だ。実現することのなかったその現実は、しかしたしかにその瞬間、ほかの現実と同じだけのたしかさをもって舞台の上に存在することになるだろう。現実は取り返しがつかない。だがだからこそ、その演劇的な嘘に慰めを見出すことくらいは許されてもいいではないか。
『長い正月』という作品の魅力は構造と同じかそれ以上に具体的な細部やエピソードの積み重ねによって支えられている。だが、百年にわたる家族史と12人もの登場人物たちそれぞれの物語のすべてをここに書ききることは不可能だ。いや、本来それは100分の演劇作品で描ききれるものでもないだろう。しかし石崎の筆と俳優たちの演技は登場人物たちを舞台の上に生き生きと説得力をもって立ち上げ、百年=100分という時間に見事に命を吹き込んでみせた。無情なる時の流れを前に人の一生が儚く過ぎゆく様を描いたこの作品が、それでもそれぞれの人生を力強く肯定していたと思えるのは、舞台に立つ人々がそこにたしかに生きていたからにほかならない。改めて大きな拍手を送りたい。
20歳の国:https://www.20no-kuni.com/
2024/01/04(木)(山﨑健太)
Osaka Directory 5 supported by RICHARD MILLE 肥後亮祐
会期:2023/12/23~2024/01/21
大阪中之島美術館 2階 多目的スペース[大阪府]
無断転載を防ぐ目的で英語辞典に掲載された造語を題材とした《bird carving》(2020)や、「グーグルマップ上に誤記載された幻島」を題材とした《Sandy Island》 (2020)など、人々の認識や行動を規定する「基準」のなかにある真偽の揺らぎや特異点を扱ってきた肥後亮祐。そこでは、辞典や地図が「存在しない現実」をつくり出すという転倒を元に、文字・画像・映像・音声データなど複数のメディアを横断的に駆使し、非実在物にいかに実体性を与えていくかというアプローチが取られていた。定義・分類・名付け・視覚化の権力性が示されると同時に、「誤読」「連想」の創造性が提示される。
本展は、大阪中之島美術館が関西ゆかりの若手アーティストを個展形式で紹介するシリーズ「Osaka Directory supported by RICHARD MILLE」の第5弾。「非実在物に実体性を与える」という過去作品の手法とは対照的に、本展では、既存の制度のなかに存在する特異な盲点に焦点を当てた。それは、美術館や博物館で使用され、センサー部分に女性の毛髪(多くは金髪)が用いられている「毛髪式温湿度計」である。
発表されたインスタレーション《ブロンドの記譜法》(2023)は、2つのパートで構成される。前半では、実際に美術館で使用される毛髪式温湿度計が展示台に載せられた「現物展示」に始まり、人毛の伸縮率によって大気中の温湿度を測定する装置を18世紀に考案した自然科学者、オラス=ベネディクト・ド・ソシュールに関連する資料が並ぶ。毛髪式温湿度計の原型が考案された書籍の初版本。ソシュールがアルプス山脈を登頂した際のスケッチを基に描かれた、山脈を360度の視界に収める奇妙なパノラマ図。科学史への貢献を称え、ソシュールの肖像画と毛髪式温湿度計が描かれたスイス・フラン紙幣。モニターでは、紙幣裏側に描かれたアルプスを探検する山岳隊の絵や、アルプス山脈のGoogle Earthの映像が映される。
後半では、円卓を取り囲むマルチチャンネルの映像インスタレーションが展開する。5名の話者が毛髪式温湿度計を出発点に連想的な語りを繰り広げる映像が、5台のモニターに映される。本作では、ある特異点の観測から連想的な断片を展開するアプローチを、複数の他者に委ねることで、連想の回路や自由度がより広がった。5名の会話は、雑談的なゆるい話題から哲学的なトピックまで硬軟が入り混じる。喉の乾燥対策として、どののど飴がお薦めか。「女性の長い髪の毛」が人工的な機器の一部に用いられていることの不気味さは、ホラー小説や映画の「貞子」の連想とともに、ユダヤ人女性の毛髪が強制収容所で毛布の素材にされたことも語られる。また、温湿度計の多くに「金髪」が使用されている事実から、「バイト先でヘアカラーの明るさの規定があった」経験が語られ、集団の同質性を重視する日本社会においては、校則や就活での髪型や髪色の規定など「髪の毛」が「規範」「基準」となる事態についても見る者に考えさせる。一方、身体から切り離された髪の毛が「不気味」「気持ち悪い」という感覚は、フロイトの「ウンハイムリヒ」やクリステヴァの「アブジェクション」といった哲学的概念と接続され、「壮大なアルプス山脈」のイメージはカントの「崇高」概念と結びつく。それぞれの語りは断片的だが、肥後の編集によって「Abjection」「Blond」「Criterion(基準)」「Factory」「Hair」というように、キーワードのアルファベット順に並べられ、「辞書の項目」という別の秩序に組み込まれていく。
だが、本展のはらむ射程は、もっと深い拡がりをもっているのではないか。「近代」の凝縮といえる毛髪式温湿度計を起点として、思考を連鎖的に広げながらさらに解きほぐしていけるのではないか。自然界を観察対象として外部化し、数式や数値データとして普遍化・客観化していく近代科学。カメラの機械の目や電子顕微鏡が「人間の視覚」を超えていくように、人間の感覚器官の拡張としての機器(「湿気の多い日は髪の毛がうねって扱いづらい」という肌感覚をより精緻化し、人間の知覚では捉えられない差異を計測するのが毛髪式温湿度計だ)。パノラマ図に顕著な、すべてを視覚化によって領有したいという欲望。登頂ルートの開発競争は、「未踏の処女地の征服」としての登山や、地図から白紙をなくしていく植民地主義的欲望とも通底する。これらが紙幣に印刷され、国家を支える血液として流通していくこと。
そして、美術館のホワイトキューブという制度もまた、近代のプロジェクトのひとつである。鑑賞を妨げる不純物が排除された清潔な白い壁という見た目のみならず、恒常的に保たれる温湿度の点でも、徹底的に管理された均質的な空間が、世界中に移植される。その空間の均質化を支える機器の一部として「女性の金髪」が組み込まれていることは、「近代とは何か」についてジェンダーと人種の複雑な交差から考える上で大きな示唆を与えてくれる。近代的家父長制と資本主義の結託は、男性/女性という二分法を自然化し、男性に公的領域と有償の生産労働を、女性に家庭内の私的領域と無報酬の再生産労働を割り当て、正しい生殖に結びつく性/逸脱する性を区分したように、西洋近代は「性」の分離と基準化を執拗に推し進めた。「毛髪式温湿度計に組み込まれた女性の金髪」は、まさに女性の身体が、観察の主体である「男性の身体」と区別・分離され、女性自身の身体からも切り離され、文字通り機器の中に閉じ込められて不可視化される事態を体現する。同時にここには、(伸縮率の精度が高いため金髪が採用されたという理由もあるが)「白人の身体」が基準となるヨーロッパ中心主義も重ねられる。映像内の辞書の項目には、「G(Gender)」「E(Eurocentrism)」「S(Sexism)」「W(White cube)」が付け加えられるべきだろう。
美術館であれ、ギャラリーであれ、多くの場合ホワイトキューブでアートを鑑賞する私たちは、いまだにそうした近代の枠組みに規定された身体としてふるまうことから逃れられない。一方、本展の展示空間は、「ホワイトキューブである正規の展示室」ではなく、そこからはみ出たオープンなフリースペースである(「多目的スペース」という名称だが、吹き抜けのエントランス空間とは明確に区切られず、半分通路のようなガラス張りの空間だ)。そうした空間だからこそ、普段は展示室の隅で半ば不可視化されている温湿度計自体を「展示物」にしてしまう反転の操作が可能になる。同時にそれは、あらゆる空間を準ホワイトキューブ化する管理の権力が持ち込まれる事態でもある。あらゆる空間を均質化する基準の力と、そこからの逸脱が、まさに「ホワイトキューブ」の境界においてせめぎ合う点でも興味深い展示だった。
Osaka Directory 5 supported by RICHARD MILLE 肥後亮祐:https://nakka-art.jp/exhibition-post/osaka-directory-dir5/
関連レビュー
連続するプロジェクト/インスタレーションを所有する|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
2024/01/06(土)(高嶋慈)
「現代ストレート写真」の系譜 第二部
会期:2024/01/06~2024/01/28
MEM[東京都]
MEMで2023年12月6日から「第一部」が開催された「『現代ストレート写真』の系譜」展は、2024年1月6日から第二部に展示替えした。第一部では出品者の潮田登久子、牛腸茂雄、佐治嘉隆、関口正夫、三浦和人が桑沢デザイン研究所に在学していた頃の、1960年代に撮影した作品が中心だったのだが、第二部ではそれ以降の作品を展示している。潮田は「先生のアトリエ」(2005-2006)、牛腸は「見慣れた街の中で」(1978-1980)、佐治は「時層の断片」(2005-2013)、関口は「こと」(2006-2007)、三浦は「会話」(1994-1995頃)/「町回り」(2011-2020)/「太平洋沿岸」(2011-2018)などである。
こうして、あらためて彼らの写真を見直すと、「コンポラ写真」という範疇に分類されてきた彼らの写真が、それまでの日本の写真表現とはやや違った志向性を持つものであったことが見えてくる。本展の企画に深く関わり、カタログにも寄稿している島尾伸三の言い方を借りれば、「抽象的な本質より現実存在に重きをなし」「『椅子』を椅子以上の別のモノとして提示しようとはしていない」、すなわち本展のタイトルとして用いられた「ストレート写真」を純粋に追い求めていく志向が、彼ら石元泰博や大辻清司に教えを受けた桑沢の学生たちのなかに芽生えてきていた。それが日常の情景をやや距離を置いて観察し、その成り立ちを捉えようとするスナップ写真=「コンポラ写真」としてかたちをとっていったということだ。
重要なのは、彼らがその姿勢を1970年代後半以降もずっと保ち続け、それぞれのやり方で育て上げていったということだろう。今回の展示を見てあらためて感じたのは、潮田登久子や牛腸茂雄のように比較的取り上げられる機会の多い写真家だけでなく、佐治嘉隆、関口正夫、三浦和人の写真のなかにも、彼らが桑沢デザイン研究所在学中に掴み取った「現実存在」に寄り添い、その微妙な機微を写しとろうという姿勢が、しっかりと息づいていることだった。特に2020年に亡くなった佐治嘉隆の、さまざまな事象のさざめきや重なり合いを、カラー写真でヴィヴィッドに捉えたスナップ写真群が、強く心に残った。
「現代ストレート写真」の系譜 第二部:https://mem-inc.jp/2023/11/12/jsp_j/
関連レビュー
「現代ストレート写真」の系譜|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2023年12月15日号)
2024/01/10(水)(飯沢耕太郎)
ナオミ・リンコン・ガヤルド「ホルムアルデヒド・トリップ」
会期:2024/01/13~2024/01/28
Gallery PARC[京都府]
クィアな想像力によって、現在も膨張し続けるグローバルな植民地主義や異性愛中心主義といった支配的な物語をどう書き換えることができるか。バラバラに分断しようとする圧力に抗しつつ、差異を抱えたものを一つに統合するのではなく、それぞれがどうポリフォニックな声を響かせることができるか。
本展は、メキシコを拠点に国際的に活躍し、クィアやデコロニアルの視点から作品制作するナオミ・リンコン・ガヤルドの日本初個展。京都精華大学によるマイノリティの権利やSOGI(性的指向や性自認)についてのアートマネジメント人材育成プログラムの一環として開催された。
本展では、約36分の映像作品《ホルムアルデヒド・トリップ》(2017)が、構成する各章ごとに分割され、7チャンネルの映像インスタレーションとして上映された。本作の出発点は、メキシコ先住民の環境活動家ベティ・カリーニョの殺害事件だ。ブリコラージュ的なコスチュームを身に付け、戦士に扮したベティ役と仲間の女性たちは、草原や畑でファイティングポーズを繰り広げる。闇のなか、何度も倒れるベティの身体。同志の女性たちは「魂を守るショール」を織り、ベティの亡骸がケアされる。亡骸は戦士たちが護衛する船に乗って川を下り、冥界に通じる洞窟では、動物のマスクをかぶった両性具有的な者たちがアンダーグラウンドなクラブのように踊り、魂の再生の儀式が行なわれる。死から再生に向かう旅の導き手が、メキシコの神話に登場する月の女神とアショロトル (メキシコサンショウウオ、通称ウーパールーパー) だ。両者はともに身体の再生能力を持つ。
7つの章は、それぞれ異なるジャンルの楽曲に彩られ、ミュージックビデオ風に仕立てられていて飽きさせない。ビョークを思わせる神秘的で力強い歌唱、ギターのノイズ、優雅で繊細なオペラ、歌謡曲やポップ・ミュージック、ラップ、ロック、へヴィメタル……。「蓄財」と題された章では、レトロなテレビゲームを模して、新自由主義という新たな植民地支配が地球規模でもたらす暴力、搾取、資源の収奪、貧困、ファシズム、人種差別の常態化が戯画化される。「元気で明るい二拍子の行進曲」にのせて、「金髪碧眼の白人男性」がマスゲームのような体操を繰り広げるが、その身体は次第に疲弊していく。
植民地主義的な欲望と支配関係を、抵抗としてのクィアな戦略によってパロディ的にズラし、書き替えを企むのが「アレックスとアショル」の章だ。メキシコの固有種であるアショロトルは、スペイン王室に援助された科学者・探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトによって18世紀に「発見」され、ホルマリン漬けの標本がヨーロッパへ送られた。映像では、ドラァグ・キング(男性装の女性パフォーマー)が演じるアレックス(フンボルト)と、作家自身が扮するアショロトルがエロティックな愛の交歓を演じる。ドイツ語で歌われるオペラの歌詞は、アショロトルを研究対象として所有し、永遠に保存したいと望むアレックスの欲望を歌い上げる。だが、実際の映像では、口パクのアレックスを
《ホルムアルデヒド・トリップ》は長尺の壮大なミュージックビデオの体裁をとるが、各章を構成する多彩な楽曲は、ジャンルとしてはバラバラで統一感はない。(各章を分割したマルチチャンネル上映は展示会場のスペース上の要請ではあったが)「調和のとれた統一」を拒絶するような姿勢は、「差異を抱えたものがどう共存できるか」というメッセージとしても受け取れた。また、ガヤルド自身の書く歌詞も詩的な魅力に富むが、その背後には、チカーナ(メキシコ系アメリカ人)・レズビアン・フェミニスト詩人・作家・文化批評家のグロリア・アンサルドゥーアの言葉が参照され、多声的な奥行きが広がる。
ホルマリン漬けの標本すなわち「凍結された過去」を解凍して現在と接続させ、土地、資源、人権に対する支配と搾取という形で現在も続く植民地主義を批判すること。規範的な性のあり方への抵抗とフェミニズム。本作はそれらの豊穣な交差点だ。扱うテーマは政治的でハイコンテクストだが、映像はポップで、脱力感あるユーモアに満ちている。だからこそ、その奥にある闘志がきらめく。「言い返せ! 書き返せ! あなたの力を取り戻せ!」。連呼されるラップのフレーズにのせ、戦士や冥界の生き物たちが踊るなか、断片化されたベティの身体は最終的にひとつになって回復する。その力強いフレーズの連呼は、見る者の魂を震わすだろう。
作品自体は素晴らしかったが、作品とは別の次元の「外部」で2点気になることがあった。1点めはチラシのデザインである。カラフルな色彩、特に「ピンク」の強調、(作中のコスチュームに登場するが)「乳首」を丸く記号化して配置したデザインは、「メキシコ」と「女性性」を強調する。2点めは、展示会場の入口の壁がレインボーカラーの照明に照らされるという「演出」である。会場となったギャラリー側の判断であり、展示を盛り上げようとレインボーカラーの提案が出たこと自体は嬉しく思う。ただ、クィア性は作品の軸のひとつではあるものの、作品はそれだけにとどまらない豊かな奥行きをもっている。「LGBTQ+の作家」というわかりやすい視覚化は、作品が受容される文脈を狭めてしまうのではないか。「非欧米圏かつクィアの作家」が、日本で紹介されるとき、何重にも他者化された視線でパッケージングされてしまうことの功罪について考えさせられた。
ナオミ・リンコン・ガヤルド「ホルムアルデヒド・トリップ」: https://galleryparc.com/pages/exhibition/ex_2024/2024_0113_naomi.html
2024/01/13(土)(高嶋慈)