artscapeレビュー

2014年07月01日号のレビュー/プレビュー

瀧本晋作 展「崖・Yellow cliff」

会期:2014/06/10~2014/06/18

LADS GALLERY[大阪府]

プラスチック製ダンボールを積層し、熱線ワイヤーでカットした立体作品を制作する瀧本晋作。彼はこれまでは具象的なモチーフを選んできたが、本展では巨大な崖を思わせる大作や立方体など、抽象度の高い新作を発表した。崖にせよ立方体にせよ、新作の魅力は巨大さゆえの量塊性と、素材特有の軽やかさが同居していることだ。また、作品表面に刻まれたザクザクとした切断面も見所のひとつである。作家自身、この新たな方向性にはまだ迷いがあるようだが、はっきり言って、過去作よりも今回の新作の方が遥かに面白い。当分この方向性で制作を進めるべきだ。

2014/06/11(水)(小吹隆文)

東京 ソウル 台北 長春 官展にみる近代美術

会期:2014/06/14~2014/07/21

兵庫県立美術館[兵庫県]

第二次世界大戦前の日本と、当時日本が統治していた朝鮮、台湾、旧満州で行なわれていた官展の出品作を通して、20世紀前半の東アジアの美術状況を考える展覧会。各地域の官展出品作や、審査員を務めた作家の作品約130点が出品された。企画にあたっては日本だけでなく、韓国、台湾の研究者・学芸員も共同参加している。4つの地域のうち旧満州の作品は少なかったが、その背景には、同地域の歴史的経緯、研究者の不在、現在の日中関係が影響している。作品を見ると、民族衣装や地域特有の風土を強調した作品が少なくない。その背景には、審査員(=日本人)がエキゾチックな表現を求めたという側面もあるようだ。図録を見ると、綿密な調査が行なわれたことがわかり、本展が労作であったことがわかる。このような企画は、四半世紀ほど前なら「反動的」の一言で葬り去られていたのではなかろうか。そう考えると、本展の実現は画期的な出来事と言えるだろう。戦前の官展作品以外にも、歴史的経緯や政治状況により客観的な評価が阻まれている作品があるかもしれない。今後、そうした作品にもスポットライトが当たることを望む。

2014/06/14(土)(小吹隆文)

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国際現代アート展なら2014:後期特別展 美の最前線・現代アートなら~素材と知の魔術(マジック)~

会期:2014/06/14~2014/07/21

奈良県立美術館[奈良県]

滅多に現代美術を扱わない奈良県立美術館が、今年はすでに2度も現代美術展を行なっている。その第1弾は、CCGA所蔵の版画の名品を紹介した「アメリカ現代美術の巨匠達」(4月~5月)であり、第2弾で、奈良とゆかりのある現代美術作家7名(ふじい忠一、竹股桂、森口ゆたか、絹谷幸太、三瀬夏之介、菊池孝、下谷千尋)を紹介するのが本展である。会場は一人あたりの展示面積が広く設定されており、どの作家も力の入った展示を見せてくれた。特に三瀬夏之介と下谷千尋の展示は迫力があった。ふじい忠一の巨木を捻じ曲げた立体も観客を驚かせたのではないか。また、菊池孝は過去の作風とは異なる展開を見せており、興味深く鑑賞した(私が久々に彼の作品を見たせいかもしれないが)。同館が現代美術に積極的になった背景には、全国各地で隆盛する地域型アートイベントが影響しているのかもしれない。1、2度の実績で性急に判断するのではなく、長期的な視点で現代美術展を継続してほしい。

2014/06/14(土)(小吹隆文)

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柏木博『日記で読む文豪の部屋』

発行日:2014年03月12日

出版社: 白水社
発行日:2014年03月12日
価格:2,200円(税別)
サイズ:四六版、250頁
近年、とりわけ小説における室内/インテリアをテーマに執筆している著者が、日本近代の作家たちの日記をもとに、「住まいへの意識」を考察した書。取り上げられるのは、夏目漱石・寺田寅彦・内田百・永井荷風・宮沢賢治・石川啄木・北原白秋の七人。彼らが自分の部屋や他者の室内をどのように記述したのか。著者は、日記と文学作品の世界を自由に行き来しながら、「住人の痕跡」である部屋の記述を読み解く。作家による眼差しの特色は、ヴァルター・ベンヤミン等の論考が援用されることで、厚みを増して分析されてゆく。同書は、明治から大正にかけての生活文化、社会文化的な様相を浮き彫りにするばかりでなく、読者にももうひとつの楽しみを与えてくれる。作家たちの著述を通して、シャーロック・ホームズのように探偵あるいは観察者として、その人物像を想像するという楽しみを。[竹内有子]

2014/06/15(日)(SYNK)

生西康典『瞬きのあいだ、すべての夢はやさしい』

会期:2014/06/06~2014/06/16

MAKII MASARU FINE ARTS[東京都]

あらかじめ予約する際のウェブサイトにそう書いてあったのだから、承知していたこととはいえ、やっぱり観客はぼくひとりきりだった。案内してくれる女の人(桒野有香)とともに扉をくぐると、そこは小さく暗く細長い空間。指差すほうに椅子があり、座ると左右に耳とちょうど同じ高さのスピーカがこちらを挟むように設置してあった。案内を終えた女の人は向かい端でこちらに顔を向け、椅子に腰掛ける。薄暗い。程なくして目の前の女の人ではなくスピーカからの声。「私の声が聞こえますか?」つい「はい(聞こえてますよ)」と答えそうになるが、ここは「観客」でいるべきなのだろう。それにしても「私」とは誰のことか? 誰の声か? それよりも「私」が誰かが気になる。「私」の主は判然としないのだが、声は執拗に語りかけてくる。空間は薄く暗い。なんだか、目の前の女の人が肖像画に見えてくる。彼女が「私」ではないことはスピーカの位置から判断できる。でも、ならば一層「私」とは誰なのだろう。今度は声の主が男(飴屋法水の声だ!)に変わる。彼も「私」と言う。しかも「あなた」と語りかけもする。「あなた」はきっとぼくではない。なぜなら、この上演は複数回繰り返されている以上、ぼくではない誰かもここに座ってきたはずだし、あるいはこれからここに座るのだから。でも、それにしても、執拗に「あなた」への呟きは繰り返された。ときに「あなた」はぼくに寄り添い、ときにぼくに入り込み、それでいてさらにぼくと距離を取った。声の呼ぶ「あなた」に対して観客が受け取る遠かったり近かったりする感覚があり、それこそこの上演のメタ演劇的本質であろう、そうぼくは思った。生命の存在や死をめぐる話題が、世界や自然のあり方についての考えが、語られる。きっとこれが、再生装置による「声」だけならば、自分がたったひとりの観客であることを多少気軽に思えたことだろうが、目の前に女の人がいる。生身の人の存在は、いまの自分が他人と代替しうるただの観客であるという言い訳めいた思いを、許してくれない。独特の緊張が自分の身を意識させる。ああいつもの観劇の際の「複数の観客の一人」でいるときの、気楽さよ! 闇は、しかし、じつにデリケートにコントロールされた。そのたびに、自分の体に刻まれた記憶が喚起された。複数の声が聞こえているときも、心は繰り返し勝手な像をこしらえては崩した。その体験中に起こるすべての出来事が、この作品なのだ。そうだ、そう断定してしまおう。だって、それを知っているのはぼくしかいないのだから。

2014/06/16(月)(木村覚)

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