artscapeレビュー
2014年07月01日号のレビュー/プレビュー
フォトフォビア アピチャッポン・ウィーラセタクン個展
会期:2014/06/14~2014/07/27
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
タイを拠点に活動する美術家で映画監督のアピチャッポン・ウィーラセタクン。彼の、映像、写真、絵画など約40点が展示された。主たる出品作品は映像で、日記的な小品から上映時間約20分の大作まで、さまざまな作品が見られる。多くの作品に共通するのは、彼が住むタイ東北部の風土、習俗、伝承をベースにしていることと、論理的なストーリー展開を半ば意図的に無視していること、現実の社会問題を想起させるイメージも挟み込まれるが、決してジャーナリスティックではないこと、などである。つまり、現実と夢の境界を写し出したかのような映像世界であり、その流れに身を浸すような鑑賞態度が求められるということだ。筆者のお気に入りは《ASHES.》という上映時間約21分の長尺作品。作品を見るうちに一種の喪失感に包まれ、深い感慨を覚えた。
2014/06/17(火)(小吹隆文)
琳派展XVI:光琳を慕う──中村芳中
会期:2014/05/24~2014/06/29
細見美術館[京都府]
江戸時代後期に大坂を中心に活躍した絵師、中村芳中(?~1819)の展覧会。芳中の描いた屏風や図絵、扇面、木版などを中心に、尾形光琳による屏風や乾山による絵付茶碗、芳中と同時代に活躍した絵師らの作品が会場に並ぶ。琳派といえば、第一世代の本阿弥光悦や俵屋宗達から第二世代の尾形光琳と乾山へ、そして江戸琳派と称される第三世代の酒井抱一までの流れが思い浮かぶ。のびやかな形態の抽象化、おおらかで力強い構成、はなやかで優美な色彩を特徴とする、日本美術を代表する流派のひとつである。
芳中を琳派の一角に位置づけたのは《光琳画譜》(1802)である。琳派の特徴はたしかにみられるものの、第一印象は「やさしい」である。しかも、気抜けするほどに「やさしい」。梅も蒲公英も葵も、仔犬も鳩も鹿も、六歌仙も七福神も、皆のんびりほのぼのとした笑顔で、かつ形象はどこまでも丸い。相当の描写力がなければこのように描くことはできないとは思うものの、それを感じさせないほどに筆致はいかにも軽快で、なんの気負いもなく気楽に描いたかのようにみえる。さらに、芳中が得意とした技法、たらし込みが画面を和らげる。たらし込みは濃淡の異なる絵の具をにじませてむらをつくる塗り方で、俵屋宗達が生み出した技法というから琳派としても正当な技法なのであろう。
時代は、上方が華やいだ元禄期を終えて、江戸が主役の文化・文政期を迎えようとしていた。江戸の庶民はきりりと引き締まった粋を好み、滑稽や洒落、風刺をもてはやした。芳中は《光琳画譜》を刊行して間もなく帰坂し、生涯を大坂で閉じる。江戸での活動はわずかな期間であった。江戸を後にするとき、彼はなにを思ったのだろうか。どこまでもやさしい作風に、その人柄を想像せずにはいられなかった。[平光睦子]
2014/06/18(水)(SYNK)
藤井達吉の全貌──野に咲く工芸 宙(そら)を見る絵画
会期:2014/06/10~2014/07/27
松濤美術館[東京都]
工芸家・藤井達吉。「といってもほとんどの人がご存じないと思いますが」という言葉がその解説には必ず付くというが、じっさい筆者もその名前を知らなかった。1881(明治14)年生まれの藤井が創作活動を行なったのは明治末年から大正期にかけて。輸出振興を目的とした工芸の時代が終わりつつあるころに、素材や技巧を極めるのではなく、身の回りの生活を豊かにする新しい自由な工芸を創造した人物である。吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加。その活動は藤井とも交流のあった富本憲吉、津田楓風、バーナード・リーチ、高村豊周らの活動、そして民藝運動やアーツ・アンド・クラフツ運動の思想とも重なる。作品は文字通り「自由」だ。七宝、刺繍、染織、金工、木工、陶芸、漆工などの工芸全般から、日本画、油彩画、木版画などの絵画まで、手がけた技法は驚くほど多彩。「工芸家」という肩書きは仮のものに過ぎない。展示された作品を見ると、形よりも装飾、図案に関心を抱いていたことがうかがわれる。おそらくそのことが、多様な技法を横断した作品づくりの理由のひとつであろう。装飾には多く自然の植物がモチーフとして用いられている。伝統的な既存の文様が用いられていない点は、富本の「模様から模様をつくらず」という言葉と響き合い、また絵画も含め身の回りのあらゆる工芸を自身で手がけていた点は、ウィリアム・モリスの仕事を想起させる。技術を追求するのではなく、つねにアマチュアリズムを標榜した藤井の活動は、雑誌『主婦之友』に手工芸制作の連載を持ったことに現われている
昭和に入ると藤井は公募展やグループ展などとの関係を絶った。1964(昭和39)年に83歳で亡くなるまで創作活動や後進の指導を継続していたにも関わらず、自ら表舞台から去ってしまった。彼のものづくりには常に支援者があり、作品は彼らの手元で大事に使われていたために、一般の目に触れることもほとんどなくなってしまった。それゆえこれまで美術史や工芸史において評価されることがなかったという。1990年代になり、とくに大正期に藤井を支えていた支援者たちのもとにあった作品の存在が明らかになり、工芸史の展覧会に出品されたり、回顧展が開催され、その活動と作品とが明らかにされてきた。2005年には本展と同じ松濤美術館で、支援者のひとりであった芝川照吉(彼は岸田劉生の支援者でもあった)に焦点をあてた展覧会が開催され、芝川が支援した他の画家・工芸家の作品とともに多数の藤井作品が紹介されている 。2008年には藤井達吉の出身地、愛知県碧南市に「碧南市藤井達吉現代美術館」が開館。今回の展覧会は、近年行なわれてきた藤井達吉研究の集大成といえよう。[新川徳彦]
2014/06/19(木)(SYNK)
GALLERY FUNATSURU 第一期(2014年・夏)「川床に満つるは宴の調べ」
会期:2014/06/20~2014/08/21
GALLLERY FUNATSURU[京都府]
京都の四条河原町から5分ほど南に下った木屋町通り沿いにある、結婚式場&宴会場&レストランのFUNATSURU KYOTO KAMOGAWA RESORT。同店が「GALLERY FUNATSURU」と題し、施設内に美術作品の展示を行なうことになった。その第1弾として選ばれたのは、井上雅博(表具師)、かのうたかお、谷口晋也、津田友子(以上、陶芸家)谷口正和(彫刻家)、前川多仁(染織家)の6作家。大正時代に建てられた料理旅館をリノベーションした空間にふさわしい、和とモダンの融合が見どころだ。作品を見るだけでも入場できるので、美術館や画廊とは違ったアートスポットとして、今後注目を集めるだろう。なお、この企画のディレクションは、白白庵(有限会社ニュートロン)の石橋圭吾が担当。今後約3カ月ごとに展示替えが行なわれる。
2014/06/19(木)(小吹隆文)
背守り・子どもの魔よけ展
会期:2014/06/05~2014/08/23
LIXILギャラリー 1[東京都]
「背守り」とは、子どもの着物の背中につけた、魔よけのお守りのこと。着物の背中の縫い目には背後から忍び寄る魔物を防ぐ霊力が宿っていると考えられていたが、子どもの小さな着物は身幅が狭いため背縫いがない。そこで、わざわざ縫い目を施して魔よけとし、子どもの健やかな成長を願う風習が生まれた。着物を日常的に着ていた戦前の頃まで、こうした習俗は日本各地で見られたという。
本展は、その「背守り」の多彩な造形を見せる展覧会。実物の「背守り」のほか、関連する資料もあわせて60点あまりが展示されている。
一口に「背守り」といっても、その造形はさまざま。襟下にわずかな糸目を縫ったシンプルなものから、四つ菱文や桜文を刺繍したもの、あるいは端切れや長い紐を縫いつけたものまで、じつに幅広い。なかにはある種のアップリケのように押絵細工を施したものまである。たとえば襟下につけられた立体的な亀の「背守り」はなんだかやり過ぎのような気がしなくもないが、それだけ愛情が注がれているということなのだろう。他にも麻の葉模様の藍の着物に赤い糸目を縫ったものは配色が美しいし、俵で遊ぶ鼠の刺繍を入れるなどユーモアあふれるものもある。無名の、おそらくは母親たちによる、優れた限界芸術を目の当たりにできるのだ。
こうした造形は、社会の西洋化に伴い、次第に姿を消していった。「背守り」を必要としない現在の社会は、子どもを慈しむ気持ちを「背守り」のような手仕事によって表現することのない社会であり、「背守り」が依拠する霊魂観を必要としない社会でもある。私たちが失ってしまったもののありかを確かに思い知ることができる展覧会だ。
2014/06/19(木)(福住廉)